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第3話 最初の掃除は血の痕から


「……本気で、ございますか?」


ゴールデンスケイル商会に戻った俺を迎えたのは、商会の主、バルクの引きつった顔だった。恰幅のいい彼の額には、脂汗が滲んでいる。


「ああ、本気も本気だ。ここに金貨50枚ある。数えてくれ」


俺はカウンターの上に、革袋から取り出した金貨をじゃらりとぶちまけた。くすんだ輝きを放つ硬貨の山。ゴブリンの血反吐を浴びながら稼いだ金も、貴族の護衛で退屈な時間を過ごして得た金も、すべてこの中にある。俺の傭兵人生の結晶と言ってもいい。


バルクは信じられないといった様子で金貨を一枚一枚数え、天秤で重さを確認していく。その間、俺はただ腕を組んで待っていた。彼の指が震えているのが見て取れる。まるで呪いの品でも扱うかのようだ。


「た、確かに……。金貨50枚、お預かりいたしました」

「よし。これで契約成立だな」

「は、はい……。こちらが所有権を証明する証書と、屋敷の鍵一式になります。ですがカイン様、本当に、本当によろしいので? 今ならまだ……」

「後悔なんてするかよ。俺にとっては掘り出し物だ」


俺はバルクから羊皮紙の証書と、ずしりと重い鍵の束を受け取った。鍵は全部で10本近くある。玄関、裏口、それに各部屋の鍵だろう。この瞬間、あの屋敷は名実ともに俺のものになったのだ。


「……そうですか。では、私どもから申し上げることはもう何も。どうか、ご武運を」


バルクは深々と頭を下げた。その声には、憐れみと諦めが色濃く滲んでいた。厄介払いができてせいせいした、という顔も半分。まあ、彼の気持ちも分かる。普通の人間が住める場所ではないと、彼自身が一番よく分かっているのだろう。


商会を出た俺は、足取りも軽く、レオと落ち合う約束をしていた酒場へ向かった。

夕暮れ時の酒場『赤髭亭』は、仕事を終えた労働者や傭兵たちでごった返していた。目当ての金髪を見つけ、俺は彼の座るテーブルへと向かう。


「よう、レオ。待たせたな」

「お、カイン! どうだった? まともな借家は見つかったか?」


エールを呷っていたレオが、快活な笑みで振り返る。俺は彼の向かいにどっかりと腰を下ろし、テーブルに鍵の束を置いた。


ジャラリ、という金属音に、レオは目を丸くする。

「……なんだ、その鍵の束は」

「ああ、これか? 俺の家の鍵だ」

「家……? まさか、あの訳アリ物件を借りたのか!?」

「いや、買った」


俺が簡潔に告げると、レオは飲んでいたエールを盛大に噴き出した。


「げほっ、ごほっ! か、買った!? 正気かお前! あの見るからにヤバい屋敷を!?」

「ああ。金貨50枚。全財産はたいてやった」

「ぜん……っ!?」


レオは言葉を失い、まるで化け物でも見るかのような目で俺を見つめた。しばらくして、ようやく我に返った彼は、俺の肩を掴んでぶんぶんと揺さぶった。


「馬鹿野郎! お前、死ぬぞ! 本気で死ぬぞ! あそこは昔、一家惨殺があったとか、主人が悪魔崇拝にハマってたとかな、ロクでもない噂しかないんだぞ!」

「だろうな。内見したら、血の痕も残ってたし、亡霊もウヨウヨしてた」

「それを知ってて買ったのか!?」

「ああ。だから安かったんだろ。お得な買い物だ」


俺の返事に、レオはついに頭を抱えて呻いた。

「……ダメだこいつ。もう手遅れだ……。カイン、お前のことは忘れない……。達者に暮らせよ、あの世で」

「縁起でもないこと言うな。骨くらいは拾ってくれよ。得意だろ、お前は」

「俺は骨拾いじゃねえ!」


軽口を叩きながらも、レオの目が本気で心配してくれているのは分かった。こいつは良い奴だ。だが、俺の決意は変わらない。


「なあ、レオ。明日から本格的に住み始めるんだが、最初の掃除、手伝ってくれないか?」

「絶対に嫌だ!!」


食い気味に、即答された。まあ、そうだろうな。



翌日。俺は市場で、新生活のための買い出しをしていた。

と言っても、買うものはこれまでと大して変わり映えしない。硬い黒パンと、日持ちのする干し肉、それに塩漬けの野菜。贅沢とは無縁だが、腹を満たすには十分だ。

それから、もう一つの重要な買い出し。掃除用具だ。

石鹸を十数個、豚の毛でできた硬いブラシを大小三本、丈夫な麻の雑巾を山ほど、そしてブリキのバケツを二つ。これだけあれば、当面はもつだろう。

聖水や清めの塩なんてものは買わない。そんな気休めに金を払うくらいなら、パンを一つ多く買う。そもそも、俺の剣と、俺自身の魔力の方が、そこいらの神官が売る聖水よりもよっぽど効果がある自信があった。


全ての荷物を背負い、俺は東区画の我が家へと向かった。

昨日と同じように、鉄柵の門を開け、荒れた庭を抜けて玄関の前に立つ。ポケットから取り出した鍵を差し込み、回す。ギギ、と重い音を立てて、扉が開いた。


「……ただいま」


誰に言うでもなく呟いてみる。

返事の代わりに、ひゅう、と冷たい風が頬を撫で、奥からすすり泣くような声が聞こえてきた。なるほど、今日も元気に営業中らしい。


「よし、やるか」


俺は荷物を床に下ろすと、さっそく上着を脱いで袖をまくった。まずは、このエントランスホールの掃除からだ。一番目立つ、絨毯に染み付いた黒い血痕。これが消えるだけでも、気分が違うはずだ。


バケツに水を汲み(幸い、庭の井戸はまだ生きていた)、石鹸を泡立てて血痕にこすりつける。そして、硬いブラシで力任せに擦り始めた。

ゴシ、ゴシ、ゴシ……。

静かな屋敷に、ブラシの音だけが響き渡る。地道で、骨の折れる作業だ。だが、俺はこういう作業が嫌いではなかった。自分の力で、目の前の問題が少しずつ解決していく。その過程が、性に合っている。


すると、どこからともなく、女の囁き声が聞こえてきた。

『……やめて……そこは、主様の……』

『……出ていけ……この家から……』


「うるさいな。掃除の邪魔だ」


俺は手を止めずに、吐き捨てるように言った。

すると今度は、壁に掛かっていた絵画がガタガタと揺れ始め、次の瞬間、床に落ちてガラスが派手に砕け散った。ポルターガイストのお出ましだ。


「ああ、もう! ホコリが立つだろうが! 後で掃除する場所が増えたじゃねえか!」


俺が怒鳴りつけると、一瞬、嫌がらせが止んだ。亡霊どもも、まさか怒鳴り返されるとは思っていなかったのだろう。だが、それも束の間。今度は階段の上から、小さなボールがコツ、コツ、と一段ずつ落ちてきた。昨日は見なかった、子供の霊でもいるらしい。


「……キリがねえな」


物理的な掃除と、霊的な嫌がらせの同時進行。これでは埒が明かない。俺はブラシをバケツに放り込むと、すっくと立ち上がった。


「よし、方針変更だ。先に、大家としての挨拶を済ませる」


俺は腰のロングソードを抜き放つ。鞘から現れた銀の刀身が、薄暗いホールの中で鈍い光を宿した。俺は剣に己の魔力を通わせる。びりびりと空気が震え、刀身が淡い燐光を帯び始めた。


「不法占拠中の亡霊諸君! 家賃滞納どころか、新居の主に向かって嫌がらせとはいい度胸だ! 文句があるなら姿を現せ! まとめて強制退去させてやる!」


俺がホール全体に響き渡るように叫ぶと、それまで気配だけだった霊たちが、次々と半透明の姿を現し始めた。使用人らしき恰好の痩せた男、着飾った貴婦人、そして階段の途中には、ボールを持った小さな女の子の霊。どれも生前の姿をぼんやりと保っているが、その表情は一様に憎悪と苦痛に歪んでいた。


『『『でていけぇぇぇ……!』』』


亡霊たちの声が一つになり、悪意の塊となって俺に襲いかかる。普通の人間なら、この精神攻撃だけで発狂するだろう。

だが、俺は剣を中段に構え、静かに息を吐いた。


「出ていくのは、お前たちの方だ」


一閃。

魔力を纏った剣が、空気を切り裂く。それは物理的な斬撃ではない。俺の魔力を乗せた、対アンデッド用の浄化の斬撃だ。

剣閃が走った空間にいた使用人の霊が、悲鳴を上げる間もなく霧散していく。まるで、朝日を浴びた霧のように。


その光景に、他の亡霊たちが怯む。

俺はその隙を逃さず、一歩、また一歩と前進し、抵抗しようとする霊を次々と斬り伏せ、浄化していく。これはもう、掃除というよりは害虫駆除に近い。


ホールにいた雑魚霊を掃討し、静けさを取り戻した頃には、俺は屋敷の構造を確かめるように、各部屋を見て回っていた。リビング、ダイニング、客間。どの部屋にも、弱い霊が溜まっている。


「……だが、元凶はこいつらじゃない。もっと根深い何かが、この屋敷のどこかに巣食っている」


全ての元凶。この屋敷に亡霊を引き寄せ、縛り付けている何か。その気配は、明らかに地下から感じられた。ひときわ濃密で、邪悪な魔力の澱み。


俺は屋敷中を探し回り、ついにそれを見つけた。

場所は、一階の最も奥まった場所にある書斎。壁一面を埋め尽くす巨大な本棚。その一つが、不自然に壁から浮いていることに気付いた。

力を込めて本棚を横にずらすと、隠されていた重厚な木製の扉が現れた。取っ手は冷たく、鍵はかかっていない。


俺がその扉を引くと、ゴゴゴ……と重い音を立てて開いた。

途端に、地下からカビと埃、そして濃密な魔力の澱みが混じり合った、むっとするような空気が吹き上げてくる。目の前には、闇へと続く石の階段が口を開けていた。


ここだ。全ての始まりであり、終わりの場所。


「さて、と」


俺はロングソードを握り直し、不敵な笑みを浮かべた。


「ラスボスのお出ましかな」


躊躇なく、俺は闇の中へと続く階段を、一歩ずつ下りていった。我が家の、本当の掃除を始めるために。


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