第2話 曰く付きの屋敷
レオと別れ、俺は商会の男に案内されて東区画へと向かった。
中心街の喧騒が嘘のように遠ざかり、辺りは静かな住宅街へと姿を変える。石畳の道は綺麗に整備され、道の両脇には手入れの行き届いた庭を持つ家々が並んでいた。噂通り、立地は決して悪くない。むしろ高級住宅街と言ってもいいくらいだ。
やがて、男が足を止めた。
「……こちらになります」
目の前に、その屋敷はあった。
周囲の家々と比べても、一際大きな二階建ての石造りの邸宅。蔦の絡まった高い鉄柵に囲まれ、その奥には手入れされずに荒れた庭が広がっている。建物自体はがっしりとしていて、デザインも古風で趣があった。だが、どういうわけか、その屋敷だけが周囲の明るい雰囲気から切り離されたように、どんよりとした空気を纏っている。まるで、太陽の光を拒んでいるかのようだ。
「鍵です。内見はご自由になさってください。私は……ここで待っておりますので。何かありましたら、大声で」
男はそう言って、錆び付いた鉄の鍵を俺に手渡すと、さっさと道の反対側まで離れてしまった。その背中が「俺は関知しない」と語っている。よほどこの屋敷に何かあるのだろう。
俺は鉄柵の門に鍵を差し込み、力を込めて回した。ギィィ、と耳障りな音を立てて、重い門が開く。雑草の生い茂る庭を抜け、屋敷の玄関ドアの前に立つ。深呼吸を一つして、こちらも鍵を開けた。
キィ……と、蝶番の軋む音が、静寂の中に響き渡る。
中へ足を踏み入れると、まずカビと埃の匂いがした。そして、その奥に微かに混じる、嗅ぎ慣れた匂い。
――血の、匂いだ。鉄が錆びたような、甘ったるい死の香り。
中は、外観以上に立派だった。
高い天井、広々としたエントランスホール。正面には二階へと続く優雅な曲線を描く大階段。床には埃を被ってはいるが、高級そうな絨毯が敷かれている。家具も上等なものが揃っているが、どれもが白い布で覆われ、まるで巨大な墓標のように見えた。
だが、その豪奢な内装とは裏腹に、そこかしこに生々しい痕跡が残されていた。
絨毯の上には、黒く変色した大きな染みがいくつも広がっている。壁にも、何かが飛び散ったような、赤黒い痕跡。大階段の手すりは、一部が不自然にへし折れていた。
まるで、凄惨な事件が起きた直後の状態から、時が止まっているかのようだ。
「……なるほどな。こりゃあ、確かに訳アリだ」
俺は独りごちる。これは間違いなく、人が死んでいる。それも、一人や二人ではないだろう。掃除をするだけでも一苦労だ。だが、それでも俺の決意は揺るがない。むしろ、ここまで分かりやすいと清々しい。
リビング、ダイニング、書斎と、一階の部屋を順に見て回る。どの部屋も家具は立派だが、やはりどこか荒れた雰囲気が漂い、血痕らしきものが散見された。
ひんやりとした空気が、首筋を撫でる。
傭兵としての経験が、俺に警戒を促していた。気配がある。それも、一つや二つではない。じっとりとした視線が、部屋の隅々から突き刺さるのを感じる。
俺は腰のロングソードの柄に、そっと手をかけた。
「……誰か、いるのか」
問いかけに、返事はない。
だが、代わりに空気がさらに冷たくなった。棚の上の置物が、カタ、と小さく揺れる。カーテンが、風もないのにふわりと持ち上がった。
書斎の隅にある、等身大の姿見。その鏡面に、一瞬だけ、白い影がよぎった気がした。
俺が鏡を覗き込むと、そこには埃っぽい自分の姿が映っているだけだ。だが、鏡の奥から、言いようのない悪意と悲しみが滲み出てくるのを感じる。
二階へ上がってみることにした。
階段を上るたびに、ミシミシと床板が悲鳴を上げる。二階には寝室がいくつかあった。そのうちの一番大きな部屋――主寝室だろう――のドアを開けた瞬間、腐敗臭にも似た、濃密な魔力の澱みが肌を刺した。
部屋の中央には、天蓋付きの豪華なベッドが置かれている。
そして、そのベッドの上に、半透明の人影が座っていた。
長い髪を振り乱した、女の姿だ。顔は俯いていて見えないが、その全身から深い絶望と怨嗟の念が溢れ出ている。
「……ようやく来たのね。新しい、生贄が」
か細いが、憎悪に満ちた声が、直接頭の中に響いてきた。亡霊か。実体を持たない、厄介なアンデッドだ。物理攻撃はほとんど効かない。
女の霊は、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、目も鼻も口もなく、ただ暗い虚ろな穴が空いているだけだった。
普通の人間なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すだろう。だが、俺は『骨拾い』のカインだ。こんな光景には、とっくに慣れている。
俺はため息を一つつき、ロングソードを鞘から抜き放った。銀色に輝く刀身に、薄暗い部屋の光が反射する。
「悪いが、生贄になるつもりはない。今日からここが俺の家だ。お前たちには出て行ってもらう」
「家……? この家は、私たちの……苦しみの、墓場……! 誰にも渡さない……!」
女の霊が甲高い叫び声を上げると、部屋中の温度が急激に下がり、棚の上の小物や本がガタガタと激しく揺れ始めた。ポルターガイスト現象だ。実体がない代わりに、魔力で物体を動かして攻撃してくる。
小さな花瓶が宙に浮き、猛烈な勢いで俺に向かって飛んでくる。
俺はそれを、剣の腹で軽く打ち払った。花瓶は壁に激突し、粉々に砕け散る。
「無駄よ……! ここから生きては出さない……!」
女の霊がさらに魔力を高めようとした、その時。
俺は剣を構え直すと、刀身に自らの魔力を流し込んだ。聖職者が使うような神聖な力ではない。ただ純粋な、俺自身の生命力からくる魔力だ。アンデッド討伐を繰り返すうちに、俺の魔力は奴らにとって毒となる、特殊な性質を帯びていた。
淡い光を放つ剣先を、女の霊に突きつける。
「俺を誰だと思ってる。お前らみたいな亡霊は、もう見飽きたんだよ」
俺の言葉と、剣から放たれる嫌悪すべき魔力に、女の霊は怯んだように後ずさった。その姿が、陽炎のように揺らめく。
「な……に……? あなた、ただの人間じゃ……」
「さあな。だが、お前たちを祓うくらいは、造作もない。大人しく成仏するか、それとも……ここで完全に消滅するか。選ばせてやる」
俺がはっきりと告げると、女の霊は憎悪の表情のまま、すうっと姿を消した。部屋を包んでいた悪意の魔力も、少しだけ薄まる。
だが、まだだ。屋敷の中には、この女以外にも、数え切れないほどの気配が渦巻いている。子供のような弱い霊、使用人だったらしき男の霊、そして、地下から感じる、ひときわ強大な何か……。
「……なるほどな。亡霊の巣窟か。原因は地下、だな」
俺は剣を鞘に納め、ニヤリと口角を上げた。
問題が多ければ多いほど、この家の価値は(俺にとって)上がる。
除霊費用、特殊清掃費用、呪いの解呪費用。それら全てが、金貨50枚という価格から差し引かれているのだ。ならば、その全てを自分で解決してしまえば、俺は金貨200枚、いや300枚以上の価値を持つ邸宅を、たった50枚で手に入れたことになる。
こんなに割りのいい話はない。
俺は屋敷を出て、道の向こうで不安そうに待っていた商会の男に、力強く言い放った。
「決めた。この家、俺が買う」
男は、信じられないものを見るような目で、ただ呆然と俺を見つめていた。