第1話 灰と好機
煙の匂いが鼻をつく。
焦げ付いた木材と、燃え尽きた布の残骸が混じり合った、不快な香りだ。俺のなけなしの家財道具が、天へと昇っていく匂いでもあった。
「……全焼、か」
朝焼けの空の下、俺は腕を組んで、目の前の光景をただ眺めていた。
そこにあったはずの木造三階建ての建物は、今や黒い炭の塊と化している。俺が根城にしていた傭兵宿『風見鶏のねぐら』の成れの果てだ。昨夜、階下の厨房から上がった火の手は瞬く間に建物を飲み込み、消防団の懸命な消火活動も虚しく、夜が明ける頃には巨大な燃え殻だけが残されていた。
「おい、カイン! 無事だったか!」
背後から聞き慣れた声が飛んできた。振り返ると、同じ宿に寝泊まりしていた傭兵仲間のレオが、息を切らして駆け寄ってくるところだった。金色の髪を無造作に束ね、軽装鎧のあちこちを煤で汚している。
「ああ、見ての通りピンピンしてる。お前こそ、無事だったか」
「当たり前だろ! 俺ぁ二階だったからな。お前は三階の屋根裏部屋だったろ? 気付くのが遅れたんじゃないかと思って、肝が冷えたぜ」
「なに、煙の匂いで目が覚めた。荷物を取りに戻る余裕はなかったがな」
俺は肩をすくめる。失ったものと言えば、数日分の着替えと、手入れ用の油、それに読みかけの安っぽい冒険譚くらいなものだ。愛用のロングソードと、なけなしの金貨を入れた革袋は、寝るときも肌身離さず置いている。傭兵の習性というやつだ。
「ったく、お前はいつも落ち着き払ってやがる……。これからどうするんだ? 当分、宿無しだぞ」
「そうだな。まずは新しい寝床を探さないと。日雇いの仕事でも見つけて、別の宿に移るか」
「それなんだがよ」
レオは声を潜め、辺りを見回してから俺に顔を寄せた。
「俺も宿無しだ。どうだ? いっそ二人で部屋を借りないか? 一人より二人の方が家賃も安く済むだろ。幸い、こないだのゴブリン退治の報酬がまだ残ってる」
レオの提案は悪くなかった。この街、商業都市アークライトで家を借りるとなると、それなりの金がかかる。二人で折半すれば、確かに負担は軽くなる。何より、気心の知れた仲間と一緒というのは心強い。
「わかった。その話、乗った」
「よし、決まりだな! 早速、物件を管理してる商会に行ってみようぜ!」
こうして俺たちは、宿の残骸に背を向け、街の中心部にある不動産を扱う商会へと向かった。
◇
アークライトの商業区画は、いつも活気に満ちている。石畳の道を荷馬車が行き交い、露店の商人たちの威勢のいい声が響き渡る。俺とレオは人波をかき分け、目的の『ゴールデンスケイル商会』の扉をくぐった。
中に入ると、インクと古い羊皮紙の匂いがした。壁際の棚には分厚い台帳がぎっしりと並び、カウンターの向こうでは恰幅のいい中年の男が、羽ペンを走らせていた。
「いらっしゃい。部屋探しですかな?」
「ああ。傭兵二人で住める、手頃な借家を探してるんだが」
レオがそう言うと、男は人の良さそうな笑みを浮かべ、カウンターの上に数枚の物件情報が書かれた羊皮紙を広げた。
「でしたら、この辺りはいかがですかな。西区画の集合住宅で、月々の家賃は銀貨30枚。二人で割れば15枚。お二人なら十分に払えるでしょう」
「銀貨30枚か……ちと高いな」
レオが唸る。傭兵の収入は不安定だ。一回の仕事で金貨数枚を稼ぐこともあれば、一月近く仕事にあぶれることもある。固定費はできるだけ抑えたいのが本音だった。
俺も羊皮紙に目を落とす。どれも似たり寄ったりの条件で、俺たちの懐具合からすると、少し背伸びが必要な物件ばかりだった。節約生活には慣れているが、それでも稼ぎの多くが家賃に消えるのは避けたい。
その時、ふと壁に張り出された一枚の羊皮紙が目に留まった。他の物件情報とは少し離れた場所に、まるで申し訳程度に貼られている。
『【売家】東区画 一戸建て邸宅(庭付き)』
そこまでは普通だ。だが、俺の目を釘付けにしたのは、その下に書かれた価格だった。
『価格:金貨50枚』
「……は?」
思わず声が漏れた。金貨50枚。
大金であることは間違いない。だが、それは「邸宅」の値段として、あまりにも破格だった。このアークライトでまともな家を買おうとすれば、最低でも金貨200枚は下らない。中心街に近い豪邸ともなれば、その数倍はするだろう。それがたったの50枚。借家ではなく、販売だ。
「おい、カイン。どうした?」
「……なあ、あんた。この物件、どういうことだ?」
俺が指さした羊皮紙を見て、商会の男は少しだけ顔をしかめた。
「ああ、そちらの物件ですか……。お客様、あれは、その……いわゆる『訳アリ』でして」
「訳アリ?」
「はい。東の閑静な住宅街にありまして、立地は悪くないのですが……色々とありまして、この価格になっている次第です」
男の歯切れが悪い。事件か事故でもあったのだろう。殺人、自殺、あるいはもっと悍ましい何か。この値段だ、よからぬ噂の一つや二つ、あって当然だ。
「どんな訳があるんだ? 幽霊でも出るのか?」
「さあ……。詳しいことは私どもも。ただ、これまで何人か住んだ方がいらっしゃいますが、皆さんすぐに越されてしまいましてね。ですので、借家ではなく、買い取っていただける方を探しているのです。現状のまま引き渡す、という条件で」
濁された。だが、その方がかえって俺の興味を掻き立てた。
俺の傭兵としての一面は、少し特殊だ。
駆け出しの頃、金がなくて受けた仕事が、墓荒らしのゾンビ退治だった。それ以来、なぜか不死系の魔物――アンデッドとの戦いが多かった。ゾンビ、スケルトン、グール、レイス。腐臭を放ち、不気味なうめき声を上げるそれらの魔物は、屈強な傭兵仲間からも気味悪がられ、嫌われた。
だが、俺は違った。動きは鈍重で、知性も低い。的確に頭部か核を破壊すれば、あっさりと崩れ落ちる。臭いのも汚いのも、三日も野営すれば慣れる。いつしか俺は、アンデッド討伐のエキスパートとして扱われるようになり、仲間内からは『骨拾い』なんて不名誉な二つ名で呼ばれる始末だ。
そんな俺にとって、「幽霊が出る」などという噂は、脅し文句にもならない。
むしろ、好機ですらあった。
硬いパンと味気ないスープで腹を満たし、薄汚れた寝床で眠る日々。貧乏暮らしは性に合っていたし、節約も苦ではなかった。だが、自分の家を持つというのは、全く別の話だ。それは、あと10年はかかる遠い夢だと思っていた。
それが今、目の前にある。金貨50枚。ゴブリン退治や護衛任務で貯めてきた俺の全財産と、今回の報酬を合わせれば、ギリギリ手が届く。
「なあ、レオ。俺、この家を買う」
「はぁ!? お、お前、正気か!? 訳アリなんだぞ! しかも売り家だ、失敗したら全財産パーだぞ!」
「だからいいんだろう。どんないわくつきだろうと、この値段は破格だ。見てみたい。すぐに内見を頼めるか?」
俺が商会の男に尋ねると、彼は意外そうな顔をしながらも頷いた。
「ええ、構いませんが……。よろしいのですか?」
「ああ」
「……カイン、俺は行かねえからな! 絶対に嫌だ!」
レオは本気で嫌そうな顔をして首を横に振った。まあ、無理もない。普通の人間なら、それが正しい反応だろう。
だが、俺の決意は揺らがなかった。
ゾンビの腐肉を斬り裂き、スケルトンの骨を砕いて稼いだ金だ。その金で、骨の髄までしゃぶり尽くすような、曰く付きの物件を手に入れてやる。
どんないわくつきであろうとも、手に入れてみせる!
俺は、まだ見ぬ我が家への期待に、静かに胸を躍らせていた。