7. 母と娘
「明日から1ヶ月だけ、海外出張なの。」
カップを手に笑う都さんは、今日も変わらず柔らかい。紅茶の香りがふわりと鼻をくすぐる。心が温かくなるのは、それが都さんだからだ。
その香りが、明日にはもう、二度と戻ってこない。
未来を私は知っている。
明日は、来栖都が死ぬ日だ。
世界線は決まっている。飛行機は落ちる。彼女は戻らない。それが、この時代に送り込まれた淡路創に課された“了解済みの未来”だった。
それは決められた死。
変えてはいけない歴史。もし変えてしまえば、もっと多くの人が苦しむ未来に繋がってしまう。だから、私は──止められない。
「……じゃあ、明日から少しの間、家を空けるわ。創、その間、雲雀のこと、よろしくね。」
いつも通りの声で、都さんが笑う。
そう穏やかに言った彼女に、創は言葉を失った。そう言って紅茶のカップを差し出すその手を、私は思わず握ってしまいそうになる。
目の前の都さんは、いつも通りだった。
明日、自分がこの世から消えるなんて知らずに。
「……はい、承りました。お気をつけて」
声が震えそうになるのを、必死に押し殺す。心なんて、持っているはずじゃなかった。私はは“道具”だった。
任務を遂行するために作られた存在。それなのに、どうして。
どうしてこんなにも、苦しいのか。
都さんは、初めて私に「名前」をくれた。
『淡路創』という名は、彼女が微笑みながら与えてくれたものだ。感情のなかった私に、居場所をくれた。この家で初めて知った。
紅茶の味、毛布の温かさ、人の声の優しさ。
それら全部が、都さんのものだった。
都さんは、ただの任務対象の母親なんかじゃない。
……私の、大切な人だった。
「本当に、大丈夫なの?」と都さんが覗きこむ。
私は笑ってみせた。
でも、表情が崩れそうになる。
笑顔が保てない。
唇が震えてしまう。
「どうしたの? 創?」
「……ごめんなさい、ちょっと、寂しくなってしまって……」
その言葉に、都さんは目を見開いて──ふっと、優しく笑った。
そして次の瞬間、私を抱きしめてくれた。
柔らかくて、あたたかくて、母親の匂いがした。
「ありがとう、創。あの子をあの部屋から引きずり出してくれて。あの子を、世界と繋いでくれて。母親なのに、私にはできなかった。母親失格よね...」
「……そんなこと、ありません」
「それとね……私、あなたのこと、家族だと思ってるの。もうひとりの娘だって。創、あなたは私の大切な、愛しい子よ。」
言ってはいけない。止めてはいけない。変えてはいけない。
それなのに、私の中に湧き上がる感情は、止まることを知らなかった。
「……一ヶ月なんて、ちょっとじゃない。だから……そんな悲しそうな顔、しないで?」
都は、創の髪を優しく撫でた。
「またね、創。」
その言葉を最後に、都は背を向けた。
創は一歩も動けなかった。
ただ、彼女の背中を、目が覚めるほど鮮明に、見送った。
「――いってらっしゃいませ、都さん。」
玄関で1人ぽつりと呟く。
その声は、もう彼女には届かない。
明日、彼女は戻らない。未来は変えられない。
それは理解していたはずの別れ、どうしようもなく苦しく私はしばらくただそこに立ち尽くした。
ー何かの拍子で戻ってきてくれないか
なんて、あり得ないはずの未来を思い描いて。