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26. 後悔しないように

しばらく佐山視点です。

夏休みが明け、学校が再開した。

毎年恒例の風物詩――「宿題の追い込み」も、例に漏れずやってきた。


うちの兄弟たちは、どういうわけか毎年最後まで課題を溜めるタイプで、例によって俺が尻ぬぐいをする羽目になる。

唯一、長女の梅だけは余裕綽々とソファでアイスを食べていた。あの人は、たぶん俺より時間の使い方がうまい。


もちろん俺は、7月中にすべて終わらせていた。早く片付けなければ、雲雀と研究の続きを進められない。それが何より優先度の高い課題だった。


今年の夏は、少し特別だった。

海外の科学雑誌に提出した論文が、思った以上に反響を呼んだのだ。

名義は例によって提携している海外の教授のものだが、彼は俺たちの成果を心から評価し、研究施設の使用許可や助成の手続きなど、全面的に支援してくれている。恩人と言っても過言ではない。

彼との出会いについて話すと長くなるので、それはまた今度。


とにかく――いよいよヒューズ細胞の実証実験に本腰を入れよう、という矢先のことだった。


ひとつ、大きな問題が起きた。


……俺が、文化祭の実行委員に選ばれてしまったのである。


くじ引きだった。

中学を卒業して以来、面倒ごとからは手を引いていたのに――こればかりは運が悪かったとしか言いようがない。

我ながら、自分の不運を恨んだ。


そして、忘れられないのが――

そのことを雲雀に伝えたときの、あの表情である。

最初は何かの冗談かと思われた。だが本当だと知った瞬間の彼は呆れていた。

まるで、「お前というやつは……」とでも言いたげに。


俺は必死に弁解した。

実験の進行に支障は出さない。夜間作業で取り返す。準備は全部自分でやる。雲雀の分もスケジュール管理する――と。


でも、意外なことに――怒られなかった。


怒られるどころか、彼はちょっと困ったように笑って、「……ご愁傷さま」と言った。


それだけだった。

彼なりに、俺がどれだけ研究を優先してきたかを知っていて、そのうえで――俺が引き受けるしかなかった事情も、理解してくれていたのだろう。


「お前、ほんと間が悪いな」「うるさい。引いた瞬間の俺の顔、見せてやりたかったわ」「……写真撮っとけばよかったな」「やめろ、余計に傷つく」


笑いあって、なんとなくその場は収まった。


「へぇ、佐山くん、文化祭実行委員に選ばれたんですね。頑張ってください。」


創さんは、そう言ってくれた。

――たったそれだけの言葉なのに、不思議と頑張れそうな気がした。


だけど、最近の創さんはちょっと様子がおかしい。


「人間の気持ちの理解がわかりません」とか、「理由って、なんなんですか?」とか――何かずっと、頭を抱えて悩んでいるように見える。


この間、それとなく声をかけてみた。


「よかったら、相談に乗りましょうか?」


すると、創さんはすぐに首を振ってこう言った。


「佐山くんは、答えを知っているので結構です。」


……と、はっきり断られてしまった。


まぁ、十中八九――雲雀が関係している。


この人がここまで取り乱すのは、雲雀のこと以外にないからだ。あいつと話したあと、創さんはよく難しい顔をしている。言葉にできない感情にぶつかって、戸惑っているのがわかる。


……やっぱり、雲雀が羨ましい。


俺よりずっと前に創さんと出会って、家族のように毎日一緒に過ごして、何より――創さんの「核心」に一番近いところにいる。


俺は、ずっとあいつに嫉妬している。


雲雀は、とっくの昔から気づいているはずだ。俺が、創さんのことを好きだってことくらい。

何も言わず、何も動かないでいることも――全部、知ってる。


……俺はヘタレだ。

でも、今の距離感が心地が良くて壊したくない。この空気を壊して、二度と戻れなくなるのが、怖い。


そして――阿佐美くんの存在。


彼もまた、創さんの感情を動かす。明らかに、ただのクラスメイトではない。創さんと何かしらの接点があるように思える。

言葉には出していないけれど、彼を見る創さんの目は――どこか、警戒と嫌悪が混じっている。

雲雀のクラスメイトに対する感情の向け方ではない。まるで敵のような視線を向けることがある。どうして彼女がそこまで阿佐美くんを目の敵にしているのかー


……予想は、ついている。

ある程度の仮説も立てている。


でも、その予想が外れていてほしいと願ってしまう自分がいる。


もし俺の仮説が正しいのだとしたら――

彼女が抱えている“秘密”は、俺が思っているよりもずっと重くて、俺なんかが踏み込んでいいものではないのかもしれない。


それに雲雀はきっと何も知らない。

気づいていたとしても気づかないふりをするだろう。

あいつはそういう奴だ。身内にとことん甘い。


雲雀の、そういうところ――やっぱり、尊敬してる。


普段は素直じゃないし、態度もとっつきづらい。けれど、心の奥では誰よりも人を尊重してる。


人の気持ちに敏感で、無闇に踏み込まない。でも、ハッキリとした物言いもできる。


「嫌なことは嫌」「できないことはできない」


そうやって、ちゃんと線引きできるのがすごいと思う。


……俺には、それができない。


つい人に合わせてしまう。

断れなくて、余計なことまで引き受けて、結局自分が疲れる。


――今も、まさにその真っ最中だ。


放課後。

教室の隅で、文化祭実行委員のもうひとり――相葉瑞希あいば・みずきさんと並んで座っている。


机の上には、企画展示の資料と、委員会からの連絡事項のプリント束。委員会で伝達された内容をお互いノートを開いて、必要なことをせっせと書き写していた。


……はずだった。


「佐山くーん、これもお願いねー」

そう言って、通りかかった教師が置いていったのは、別クラスの備品リストのチェック表。


「え、でもこれ……」と抗議しかけた俺をよそに、先生はさっさと去っていった。


……気づいたら雑務が追加されていた。


結果、委員会の仕事がほとんど進まないまま、日が暮れた。


「佐山くんってさ、ほんと押しに弱いよねー」


相葉さんが呆れ顔でそう言うとホチキスをカチン、と音を立てて止めた。

その手元には、学祭に関する注意事項のプリントが積み上がっていた。

――150人分。

一年生全員に配るために、黙々と止めていくその手際はかなり手慣れている。


「……ごめん、巻き込んじゃって」


「別にいいよー。どうせ一年は雑用担当なんだし。 上の先輩たちなんか、当日のメインステージの段取りとか進行とかで死にそうだったよ。 それに比べたらさ、紙止めてるくらいまだマシ。」


彼女はそう言って、またひとつホチキスを打った。

確かに、文化祭の実行委員は一年生が主に雑務担当。上級生たちはステージ構成や安全対策、来場者対応まで、かなりハードな役割を任されている。

自分たちは、まだ楽な方な……はず。


でも、やっぱり――押しに弱い性格が足を引っ張る。

自分の意見を言えばよかった、できないと断れればよかった。雲雀みたいに、ちゃんと立場を守れる人間だったら、きっとこんな風にはならなかった。


「……はあ。」


ため息をついた俺に、瑞希さんがちらっと視線を寄こす。


「なーに、そんな思い詰めた顔してんの?」


プリント束をトントンと揃えながら、相葉さんが横目で言った。


「いや……あの時、ああしとけばよかったとか。もうちょっとちゃんと断れたらなって。……行動力ない自分に、ちょっと落ち込んでるだけ」


正直な言葉だった。自分でも、情けないくらい素直にこぼれたと思う。


「まー、佐山くんってあんま強く出れそうなタイプじゃないもんねー」


苦笑まじりにそう言いながら、彼女は手元のホチキスをカチンと鳴らす。


「……でも、相葉さんって、あんまり後悔とかなさそうだよね。 結構ズバッともの言うし。雲雀にも普通に話すし。なんていうか……自信、あるんだろうなって」


そう言うと、彼女は少しだけ顔を俯けた。

指で机の端をつつくようにしながら、ぽつりとつぶやく。


「案外、そうでもないんだよなー。私、自分のことになると結構ウジウジしちゃうよ?」

「……えっ? そうなの? 意外」

「だよねー。友達にも言われる。

『瑞希って悩みとかなさそう』って。……でも、自分のことって……よくわかんなくなるんだよ。他人には言えることでも、自分には言えなかったりするし」


教室の空気が、ふっと静かになった。


外では部活の声が遠く響いていて、教室の中だけが時間から切り離されているみたいだった。


「……私の失敗談でも、聞く?行動しなくて後悔した話」


彼女の声は少し照れくさそうで、でもどこか真剣だった。


俺は、うなずいた。


「……聞いてみたい」


彼女は、小さく笑ってから言った。


「私、中学は私立だったんだ。電車通学で、毎朝同じ時間に同じ電車乗っててさ」


相葉さんは、ホチキスをカチンと鳴らしながら続けた。


「中3のとき、電車ですっごく綺麗な人を見かけたの。それだけで朝が楽しみになった。顔とか、服の感じとか、立ち方とか……なんか全部、綺麗だったんだよね。別に話しかけるとかじゃなくて、ただ見るだけでよかった。絶対、私とは関わることなんてない人だと思ってたし」


その時のことを思い出すように、相葉さんは目を細めた。


「でも、ある日私、駅のホームで定期落としちゃって。あわてて探してたら、その人がさ、わざわざ駆け寄ってきて、“これ、落としましたよ”って渡してくれたの」

「……へぇ」

「もう、そこで完全に好きになっちゃった。でも、その人、女の人だったんだよね。たぶんあの時、高1だったと思う」


少し気まずそうに言う相葉さんに、俺はすぐに尋ねた。


「……もしかして、ここの高校の人?」


相葉さんは、少し驚いたように、それからふっと笑った。


「流石、察しいいね佐山くん。そう、この高校。受験した理由、それ」


「……えっ?」


「エレベーター式で高校まで上がれる中学だったのに蹴ってさ。こっちに進学してた兄貴に毎晩勉強教えてもらって、なんとか合格した。 “同じ高校なら、話しかけられるかもしれない”って。……バカだよね、ほんと」


「いや、……すごいよ、それは」


「全然すごくない。動機、不純の極みでしょ?」


そう言って、相葉さんはまた笑った。

でも、その笑顔には少し照れと、ほんの少しの誇りが混じっていた。

ホチキスを止める手は止まらない。


「会えたの? その人に」


「会えたよ。私が入学する前に」


相葉さんはそう言って、いつもの軽い口調から少し離れた、静かな声を出した。


「合格した後、春休みに兄貴が紹介してくれたの。クラスメイトでずっと気になってたんだけど、勇気が出なくて……でも、妹が受験で悩んでるって相談をきっかけに、仲良くなったんだって」


「まさか……」


「そう、兄貴の彼女だったの」


相葉さんは笑いながら、でもどこか目が笑っていなかった。


「なんの運命の悪戯だって思った。私のほうが先に好きだったのに。

でも、兄貴はちゃんと行動して、ちゃんと話しかけて、結果を掴んだ。」


「……」


「しかもさ、会ったとき何て言われたと思う?」


相葉さんはホチキスを止める手を止めず、静かに言った。


「“初めまして”だって」


胸の奥がギュッと縮んだ。


「毎日、同じ時間、同じ車両に乗ってた。定期を拾ってくれたこともあったし、あの時一瞬だけ話した。それなのに、覚えてすらもらえてなかったんだよ」


カチン、カチン。紙が綴じられていく音が、やけに大きく感じる。


「そのとき、気づいた。“覚えられていないことほど、惨めなことってないんだな”って。だから思ったのよ。本当にバカなことしてたんだなって。好きなら声かければよかった。ちゃんと気持ちを伝えていれば、何か変わったかもしれなかったのに。

少なくともその人には覚えてもらえてたかもしれない。こんな悲しい思いせずに済んだのにって。」


彼女の手が一瞬止まり、息を吐く。


「でもね、ちゃんと話しかけて、勇気出して、関係を作った兄貴のことは、悔しいけど尊敬してる。私に悔しがる権利も、泣く資格もなかったんだよ。だって、私、ただ見てただけだから」


そこまで話すと、相葉さんは何事もなかったようにホチキスを手に取り、次の束に手を伸ばした。


「だからさ、佐山くんは後悔しないようにね」


相葉さんは、最後のプリントのホチキスを止めながら言った。


「もし好きな子とかいたら、振られるの分かってたとしても告った方がいいよ。経験者からのありがたーい助言」


その言葉は、今の俺に深く突き刺さった。


「……気づいたらさ、相手に彼氏か彼女ができてて。その人が好きだったって気持ちが、結局“自分しか知らない”ままで終わる。それって、勿体なくない?」


相葉さんの手は止まらない。

でもその声は、いつもよりずっと静かだった。


「“好き”って気持ちってさ、相手と自分だけが知ることができる特権だと思うの。何も言わないより、言って後悔した方がいいよ」


カチン。

ホチキスの音が、妙に大きく響く。


「……」


「はーっ、150部終わったー!!」


彼女は大きく背伸びしながら笑った。


「お疲れ様、佐山くん!」

「えっ、いつの間に……」

「で、優等生の佐山くんはどうするの?先に進んで後悔する?何もせずに後悔する?」


俺は少し口を開きかけて、やめた。代わりに言葉を絞り出す。


「……相葉さんって、どこまで知ってんの?」

「えー?知らないよー?」

瑞希はにやにやしながら、わざとらしく視線を外す。


「佐山くんと来栖が、1人の女巡ってバトってることなんてー?」

「ちょっと待って、色々誤解あるけど……それ誰から聞いたの⁈」

「阿佐美くん」


その名を聞いた瞬間、俺は頭を抱えた。


「……阿佐美くん、余計なことばっか喋って……」

「まー、アイツはアイツで面白がってるだけでしょ。でも、傍から見ててもわかるよ?佐山くんが誰を見てるかくらい」

「……」


相葉さんは椅子に座りなおして、机に頬杖をつく。その横顔は、どこか寂しげで、でも優しかった。


「私ね、佐山くんには後悔してほしくないんだよ。創さんのこと……ちゃんと、伝えたほうがいいよ」


俺の心臓が、一瞬止まりかけた。


「……え?」


「ほら、やっぱ当たりだった」


瑞希はいたずらっぽく笑って、それきり何も言わなかった。

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