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23. 聞き覚えのある旋律

朝の六時。

いつも通りの時間に目を覚ました。

けれど今日は、少しだけ──いや、明らかに特別な朝だった。


階下に降りると、すでに香ばしいトーストの香りが漂っている。


「創、もう家出るのか? 買い出しか?」


雲雀くんが、パンを頬張りながら口を動かす。いつもなら私もこの時間、彼と朝食を囲むのだが、今日はすでに済ませていた。


「少し、家を出ます。待ち合わせの時間には間に合いますので、ご安心ください」

「ふーん、そう」


不機嫌そうな声だった。

眉根を寄せ、ジッとこちらを見てくる視線は少しばかり子どもっぽい。

だが、私が突然出かけるのは今回に限ったことではないし、彼の方がよほど“黙って消える”常習犯だ。

それなのに少しでも気にしてくれるのが可笑しくて、ちょっとだけ口元が緩んだ。

せいぜい不思議がっていればいい。これが、私なりのささやかな仕返しだ。


玄関を出ると、目の前には黒塗りの車が停まっていた。


「創様ですね。おはようございます。お迎えに上がりました」


恭しく頭を下げるのは、柚月家の使用人──松原さん。

年配だが、どこか優しい空気を纏った紳士だった。


「おはようございます。わざわざお出迎えありがとうございます」


丁寧に頭を下げて、車に乗り込む。

窓の外、移ろう景色をぼんやりと眺めながら、今日という一日を想像してみた。


──そしてその後、柚月邸での“戦場”が始まった。


洋服、アクセサリー、メイク、髪型。

まさに秒単位で仕上げられていく私の姿は、もはや別人だった。


「んー!! 完璧ですわ!! これであの男たちを惚れ直させなさい!!」


手を腰に当て、満足げにうなずく柚月さん。彼女の気迫に圧倒されっぱなしだったけれど、鏡に映る自分を見て、思わず息を呑んだ。


「惚れ直すはよくわかりませんが……とっても素敵にしてくださり、ありがとうございます」

「お気になさらず。私もとっても楽しかったんですのよ。また頼りなさいな。

外出用のお洋服はまた今度、私と買いに行きましょう」


9時半。

ようやく解放された私は、少し急ぎ足で邸を後にする。

待ち合わせ場所までは約25分──このペースならギリギリ間に合う。


ただし、ヒールは少し不慣れだった。

足元が思うように動かず、歩幅も慎重になってしまう。さらに、髪が崩れないように、丁寧に編み込まれたその髪型を守るように、一歩一歩、進む。


交差点の前で止まる。


明らかに視線を感じる。


普段、メイド服を着ていても、ここまで露骨に見られたことはなかった。

もちろん、視線を感じたことはある。だがそれは“変わった格好の人”への単なる好奇であって、執拗なものではなかった。


だが今、私に向けられる視線は明らかに違っていた。

通りすがる人々の視線が、一瞬、止まる。

まるで「人間ではない何か」を見ているような、そんな無言の感嘆。


──いや、それはたぶん、柚月さんの“仕立て”が影響しているのかもしれない。


信号が青に変わる。

私は歩き出す。

横断歩道を渡り終えた瞬間、不意に影が立ち塞がった。


「今、時間大丈夫ですか? さっき見かけて……髪型とかお洋服とか、すっげぇ可愛いなって思って……わあ、顔もめちゃくちゃ可愛い。人形さんみたいっすね。あの、よければこのあ──」

「すみません、急いでいるので」


──はぁ。

巷でよく聞くマルチ商法の勧誘だろうか。テレビで見た。

最近では“褒めてから勧誘”という手口が若者の間で流行っているらしい。

それにしても、朝からこれとは……無駄に目立つ格好をしたことが悔やまれる。

ため息とともに、男を振り切るように早足になる。ヒールの不安定さが恨めしいが、歩みを止めるつもりはなかった。


ようやく待ち合わせ場所に着くと──遠くに、雲雀くんと佐山くんが並んで立っているのが見えた。


そのすぐ傍に、見知らぬ大学生くらいの女性が二人。

雲雀くんは露骨に嫌そうな顔、佐山くんは苦笑いを浮かべている。

様子を見れば、どうやらこれは──


「……ナンパ、でしょうか」


二人が困っているのであれば、助けに入らなければならない。

私が急ぎ足で近づく中でも、女子たちの声ははっきり聞こえた。


「やっぱり、連絡先だけでもダメですか〜? 教えてくれたら今日はもう話しかけないし、帰りますんで!!」

「あっ、えっと、そういうの……困るというか……」

「ねーね、ほんとに待ち合わせしてるのー? 逆ナン待ちとかじゃなくてぇ?」

「あー、いやほんとに人を……あの、待っていて……」

「わたしら、10分くらい前から見てたけど、全然誰も来ないし〜」

「それに関しては……俺らが楽しみすぎて、待ち合わせより早く来すぎただけで!!」

「うわっ、なにそれ、可愛い〜〜! 

ねーお願い〜〜! こんだけ粘ってんだから、チャンスくれても──」


「──すみません。その子達、私の連れです。お引き取り願えますか?」


はっきりとした口調で告げると、全員の目がこちらを向いた。


一瞬の静寂。

女子たちは驚いたように目を丸くし、口を開いたまま声が出ていない。


雲雀くんと佐山くんさえも、私を見て言葉を失っていた。

何故だか、その視線はどこか……戸惑いと、困惑と、そして――仄かな驚愕が混ざっているように見えた。


「な、なにこのちょー美人なお姉さん⁇ この2人の待ち合わせ相手って……お姉さんのこと??」


少し興奮気味なテンションで、先ほどまで雲雀くんたちをナンパしていた女性の一人が、私を指差して言った。

視線はどこか信じられないというより、羨望と好奇心が混じっている。


「はい、そうですけど」


私が素直にそう答えると、女性たちは目をさらに丸くした。

雲雀くんと佐山くんの存在が一瞬、空気になる。


「えっ、えー……この2人もイケメンだけど、おねーさんレベチすぎない⁇ そのアイメイクとか、どーやってんの⁇ ちょー参考にしたい!!」

「……」

「ていうか、よかったらメイクの話とか聞きたいしこの後お茶とかしませんか⁇」


えっ。


なぜだろう。

気づいたら、私がナンパされていた。


「申し訳ありません。この後、映画を見に行く予定がありますので。それと化粧は友人がしてくださったので、お教えすることはできません。それでは──」


私はそう言うと、反応のない雲雀くんと佐山くんの両手を、それぞれ片手で取り、自然な流れでその場を離れた。

なんだか、引率の先生のような気分だった。


「……な、なにあの人、激メロすぎない⁇」

「それな……えぐい……」


去り際、女の子たちがそう呟くのが聞こえた。


そして、3人並んで歩きながら──ずっと黙っていた雲雀くんが、ぽつりと口を開いた。


「……創、お前……ほんとに創か?」

「はい?」

「いや、だって……なんか……すげぇし。いや、すげぇっていうか……なんだろ……なんか、すげぇんだよ」


語彙力の完全な崩壊だったが、雲雀くんが混乱していることだけは伝わってきた。

隣の佐山くんも、しばらく黙っていたが、やがて苦笑しながら頷いた。


「たしかに……びっくりしました。。というか、あのままいたら俺たちの方が空気になってましたよ。流石創さん。」


「そ、それと創さん……もう手、離してもらっても大丈夫ですよ、! 俺ら高校生ですし、迷子になるような歳でもないですから」


少し恥ずかしそうに、佐山くんがぽつりとそう言った。

その顔は、照れ隠しをしているようでどこか可愛らしい。

たしかに、いつまでも手をつないでいるのはおかしな構図だ。


「……失礼しました。配慮が足りませんでした」


私はそう言って、2人の手を離した。


ふと、指先に残る感覚に違和感を覚える。ヒトの体温。体の大きさ。手の形の違い。

ふと、私が“作られたもの”であることを思い出してしまった。


「にしても、驚きました!! 創さん、いつもと全然違うんだもん。……いつも素敵ですけど、今日はさらに素敵です!!」


佐山くんがそう言って、にこっと笑った。

彼らしい、嘘のないストレートな褒め言葉。どこかの誰かさんと違って、感情のままに言葉を紡ぐタイプだ。


──この格好、変ではないらしい。

そう思うと、少し安心した。


「そーだな。……今日の格好、可愛いな。似合ってるよ、創」


横から聞こえた声に、私は一瞬だけ反応が遅れた。


「……」


雲雀くんが、私の髪にそっと手を伸ばす。どうやら風で少し乱れた前髪を直してくれたらしい。

指先がふわりと額に触れて、すぐに離れた。


──距離が、近い。

いつもなら気にしないはずの距離感が、今日はなぜか気になってしまう。


? もしかして、今……褒められたのか?


雲雀くんは普段、誰かを褒めるときには「悪くねぇ」とか「普通に美味い」とか、ひどく回りくどい言い方をする。

それなのに、今日は「可愛い」と明言した。

言葉の中に曖昧さがなかった。


「貴方……本当に雲雀くんですか?」

「お前たまに、すげぇ辛辣だよな……」


ぶすっとした顔で、雲雀くんが目を逸らす。

どうやら図星だったらしい。


「なんだよ……俺が素直に褒めることが、そんなに変かよ……」


少しだけ不機嫌そうに、でもどこか恥ずかしそうに、彼は呟いた。

もしかして彼は照れているのだろうか。


「……ありがとうございます。雲雀くん」


そう言うと、彼は驚いたように私を見た。

照れ隠しのためか、すぐに「ふーん」とそっぽを向いた。


すれ違う人たちの視線を背に受けながら、私たちは映画館へと歩き出す。



到着した映画館の中は、平日の朝にもかかわらずやや混雑していた。チケット売り場の前には、学生や若いカップル、年配の夫婦まで、さまざまな人が列をなしている。どうやら、私たちが見る予定の映画の公開初日らしく、かなり注目されている作品のようだった。


「監督が有名ですからね。トリシー監督。ヒット作をバンバン出す、映画界の巨匠なんですよ」


佐山くんが説明してくれる。

なるほど、だから混んでいるのか。私は普段映画というものを観ない──というより、映画館に来たことすら人生で初めてだった。

未来では知識としては知っていたが、こういう空間だったのか。


「創さん、映画館初めてなんですよね? 雲雀から聞きました。俺、ポップコーン買ってきますよ! 2人はそこで待っていてください!!」


元気よくそう言い残し、佐山くんは売店の行列へと消えていった。相変わらずの長男ムーブが炸裂している。


「……あいつ、ほんと世話焼きだよな」


隣で腕を組んだ雲雀くんが、ため息まじりにぼやく。

だが、その言葉の中に、ほんの少しだけ柔らかい色が混ざっているのを私は聞き逃さなかった。


「そういうところも、気に入っているんでしょう?」

「……うっせー」


視線を逸らしながら、雲雀くんは耳の後ろをかいた。


「あれ、今日は素直な日なのではなかったのですか?」

「今日は創限定。だから例外」


少し間を置いて、彼が口を開いた。


「……それにしても意外だった。俺と佐山、創は絶対メイド服で来ると思ってたから。すげぇびっくりしてたんだぞ。

お前、そんな服持ってなかったろ?」

「柚月さんにお借りしました」

「なるほど。だから朝早くに出て行ったんだな。……なんで今日は、メイド服じゃなかったんだ?」

「そりゃあ、遊びに行くのにメイド服は変でしょう」

「……普段メイド服しか着てないヤツが言っても、説得力ないな。お前変に常識あるよな」

「ありがとうございます」

「褒めてない」


即答された。


「創さーん!!バター醤油と塩とキャラメル、どれがいいですか〜!? 三種類買おうと思ったら、映画より高くつきそうなんですけど〜!!」


暫くすると、人混みの向こうから佐山くんの声が響いた。

「あいつ、三種類全部買うつもりかよ……。創、止めに行くぞ」


ため息まじりにそう言って、雲雀くんは佐山くんのいる売店へと足を向けた。


やがてポップコーンとドリンクを両手に持った佐山くんが戻ってきて、無事に私たちはシアター内へ入場し、指定されたシートに腰を下ろした。



照明が落ち、スクリーンに映像が映し出される。


物語は、ひょんなことから“過去に飛べる装置”を手に入れた少年が、テストの点数を上げるために過去へと飛ぶというものだった。

最初は「たった数点の変化」のはずが、過去に小さな波紋を投げたことで、現在は少しずつ、だが確実に崩れていく。

バタフライエフェクト──過去を変えることの恐ろしさが、視覚と音響を通して生々しく伝わってくる。


後半では、崩壊した世界を前に少年が泣きながら「テストなんて赤点でいい!!」と叫ぶシーンもあり、

物語は笑いと涙の交錯するエンディングへと収束していった。

最終的に彼は、点数は赤点のまま、怒る母親に平手打ちされながらも、「今ここにある世界」を選び取る。


──どこか、私には胸に刺さるものがあった。


だが、それ以上に衝撃だったのは。

映画のラスト。エンドクレジットとともに流れた楽曲。

静かなピアノから始まり、少し歪んだ電子音が混じる中で歌声が、まるで祈るように響いた。


──その曲を、私は知っている。


脳の奥に染み込んでいた。耳ではなく、脳媒体が、記憶していた。


あれは、まだ未来にいた頃出会ったヒューズが歌っていた曲だ。

──歌唱用ヒューズ《No.99:リコ》。

まだ私が、感情すら持っていなかったあの頃、唯一「歌」を理解し、人々を笑顔にするために歌い続けたヒューズ。

未来の世界で、誰も知らないはずの、あの曲がなぜここに──。

当たり前だ。それは過去の曲だからだ。

この映画の曲を彼女は歌っていたのか。


気がつけば、エンドクレジットの文字がスクロールしていく中、手にしたポップコーンを一口も食べていなかったことに気づく。


「……創?」


隣の席から雲雀くんが声をかける。

暗がりの中、その目が私を見つめていた。


私は、どう答えればよいか一瞬迷ってから、静かに首を振った。


「……少し、気になることがありました。すみません」


「映画、つまらなかった?」


「いいえ。むしろ……とても面白かったです」


ただし──その面白さとは別に、私の心の奥底に、眠っていた何かが揺らいでいた。

未来の記憶と、今ここにある世界が、少しだけ重なった気がして。

そして、私が1番思い出したくない記憶の蓋が開かれた。

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