18. ラブレターと恋愛相談1
雲雀くんは次の日すっかり回復し、今では元気に英和辞典と睨めっこしながら論文を書いている。
「海外の科学雑誌に載せるには英語じゃないと駄目なんだよ。査読も厳しいし……」
そう言いながら、小さなふくらんだ口元でため息をつく彼は、どこか楽しそうでもあった。
好きなことに向かって努力するその姿は、少し眩しかった。
——もちろん、私にかかれば、そんな英語論文なんて30分もあれば完成する。
けれど、それをしてしまえば、彼の努力を無にしてしまう気がして。だから、今回は手を出さないことにした。
でも。
問題は私の方だった。
あの日以来、どうもおかしい。
雲雀くんを見るたび、体温が高くなってしまう。
思い出すのは、あの部屋、あの体温、あの距離——。
(気のせい、きっと。あの時の雲雀くんは、なんだか大人に見えただけ……)
思考を断ち切るように私はエプロンを締め直し、今日の分の家事に取りかかる。
掃除、洗濯、そして——
2日に一度の雲雀くんの部屋掃除。
思春期真っ只中の男子高校生の部屋を勝手に掃除するのはさすがにどうかと思い、かつて本人にそれとなく確認したが——
「別に気にしない。むしろ、ありがたいな。」
……とのことだった。
(感性が歪んでるんじゃないか?)
そういえば、以前そのことを阿佐美に話したら、「それもうほぼ“かーちゃん”じゃん」とからかわれた。なぜか無性にムカついたので特性のデコピンをお見舞いしてやった。
佐山くんには「えっ、自室まで掃除させてるの? 雲雀、すごいな……」と妙に真顔で言われた。
そんなことを思い出しながら、机の上を整理しようとしたときだった。
——ふと、目に入った。
ピンク色の、可愛らしい封筒。
淡い桜の模様が印刷されたそれは、場違いなほどに甘い存在感を放っていて、一瞬、時間が止まったように感じた。
私はゆっくりと手を伸ばす。
ふわりと指先に乗った封筒は軽くて、けれど、やたらと存在が重い。
差出人の名前はない。
ただ、表に「来栖 雲雀くんへ」とだけ、丸みを帯びた文字で書かれていた。
(まさか……ラブレター……?)
目を疑いたくなる。いや、でも、これは……間違いなく、そうだ。
あの雲雀くんに?
研究にしか興味がなくて、人間関係は煩わしいと言っていた彼に?
そんな彼が、誰かからラブレターを貰っていた。
封筒の中身を読むわけにはいかない。いくら私でも、そこまでプライバシーを侵すような真似はしたくなかった。……したくなかったはずだ。
でも、妙に落ち着かない。
ピンクの花模様が目に焼きついて離れない。
差出人は誰? 雲雀くんはなんて返事するの? そもそも、雲雀くんが誰かを好きになったりするの……?
放課後、やってきた佐山くんを出迎えていた。
今日は雲雀くんは図書館によるので先に佐山くんが家に来た。
彼は部屋に入るなり「お、今日はマドレーヌですか」と言い喜んだ。
「……ねぇ、佐山くん。」
「ん?なんですか?」
湯気の立つ紅茶を出しながら、私はあくまで「さりげなく」を装って尋ねた。
「雲雀くんって……学校でモテてるんですか?」
佐山くんはマドレーヌを口に運びながら、一拍置いて目を丸くした。
「え、雲雀ですか?」
「はい。」
「……めちゃくちゃモテてますよ、あいつ。顔もいいし、成績もぶっちぎりトップ。将来は学者確定って感じですし。それに、昔に比べて……雰囲気も柔らかくなりましたからね。」
「え? あの、捻くれ者が?」
思わず素で返してしまった。佐山くんは吹き出すように笑った。
「創さんくらいですよ、雲雀をそんなふうに言う人……いや、それはそれで面白いですけど。ていうか、どうしたんです? 今まで一度も、そういう話題しなかったじゃないですか。」
「そ、その……」
つい視線を逸らしながら、私はつぶやくように言った。
「雲雀くんの部屋で、ラブレター……見つけてしまって。」
「……あー、なるほど。」
佐山くんはマドレーヌの包み紙を丁寧にたたみながら、妙に納得したようにうなずいた。
「誰からかは分かりました?」
「差出人の名前は封筒には書いてなかったので分からなかったです。でも……装飾がすごかったんですよ。花柄で、香水の匂いまでしてて……」
「へえ、それはまたベタな。」
「……そういうのって、よくあるんですか?」
「ありますよ。特に最近は女子の間で流行ってるんですよ、“手紙で想いを伝える”やつ。
SNSのメッセージより印象残るって。それこそ雲雀みたいによくモテるやつには、振られても覚えてもらえるだけでいい、って思っている子も少なからずいますしね。手紙で告白はうちの学校では流行ってまよ。」
「へぇ……」
思わず気の抜けた返事が出てしまった。そんな風にして、雲雀くんは想われている。
私には、決してわからない少女たちの“まっすぐな感情”が、あの封筒の中に詰まっているのだ。
「……雲雀くん、誰かに返事すると思います?」
「うーん……」
佐山くんは珍しく少しだけ真剣な顔になる。
「どうでしょうね。あいつ、感情ってものを人より冷静に扱うから。“好き”とか“嫌い”とか、そういうのに即反応するようなタイプじゃない。でも、“自分にとって価値がある”と思った人には、ちゃんと向き合うやつですよ。」
「価値……」
「“人として尊敬できる”とか、“一緒にいて楽しい”とか、そういう積み重ねを大事にする感じ。……でも創さんには、ちゃんと向き合ってると思いますけどね、あいつ。」
「えっ、なんで私?」
「だって……雲雀、自分の部屋に入れるの、創さんだけですよ?
前回は風邪で特別に部屋に入れて貰えたけど。研究の話はいつも別室でしてるし、俺も長い付き合いになりましたが一度だって入れてくれたことありませんでしたよ。
お見舞いの時入れて感動しましたもん。
3年も友達やってるのに、家もよく行くのに、自室には一回だって入れたことなかったんですから。」
「……」
「そのくせ創さんには部屋を掃除させるし。あの話聞いた時びっくりしたんですよ。ちょっと創さんに妬けました。」
返す言葉がなかった。
私は思わず、紅茶のカップを手に取り、沈黙を誤魔化す。
「でも、ちょっと心配ですね。あいつのこと本気で好きな子がいたら、創さん、敵認定されちゃうかもですよ?」
「なっ……そんなことあるわけ——」
言いかけたところで、玄関のチャイムが鳴った。タイミングがあまりにも良すぎる。
私はぴくりと肩を震わせた。
「誰か、来たみたいですね。」
「……はい。」
その時、妙な胸騒ぎがあった。
まさか、とは思うけれど——。もしかして、あのラブレターの差出人?
「ちょっと見てきますね。」
立ち上がり、廊下に出る。
玄関のドアを開けた瞬間、視界に入ったのは——
雲雀くんが通う高校の制服を見に纏った、美人の女子生徒。
そして彼女は、私を見るなり、静かに口を開いた。
「淡路さんにお会いしに来ました。できれば……話できませんか?」
私の胸が、きゅっと締めつけられた。
「——!! 柚月⁈」
後ろからひょこりと顔を出した佐山くんの声が、玄関先の空気を震わせた。
驚いたように目を見開いている。
どうやら、顔見知りらしい。
私は一歩下がり、視線のやり場に困りながら玄関の彼女を見つめた。
「佐山くんもいらっしゃったのね。先程振りですわね。」
そう言って深く、そして流れるような美しい所作で彼女は頭を下げた。
「改めまして——来栖くんのクラスメイト、柚月美空と申します。」
その一言で、私はようやく確信した。
この子だ。あのラブレターの送り主は、この子——柚月美空。
整った容姿に清楚な立ち居振る舞い、かすかに漂う香水の匂いまで、全てがあの封筒のイメージと重なる。
「柚月は、なんでここに来たの?」
佐山くんの声には明確な戸惑いがにじんでいた。
それもそうだろう、彼女は明らかに「突撃訪問」に近い形でここに現れたのだ。
すると、柚月さんは姿勢を正し、まっすぐに私を見た。
まるで的を射抜くような真っ直ぐな瞳。
「玄関口で申し訳ありません、淡路さん。でも、どうしてもお話したくて……単刀直入に言わせていただきます。」
少しだけ息を吸い、そして彼女は言った。
「あなたに——恋愛相談をさせてください!!」
「……え?」
一瞬、私の思考が止まった。
恋愛相談? 彼女が? 私に?この状況で??
「柚月、どゆこと……?」
佐山くんも完全に困惑している。
いや、私もだ。
私はロボットでもコンピュータでもなく、感情の少ない人造体——ましてや“恋愛相談”などというものに答えられる器ではない、はずなのだが。
「と、とりあえず……中に入ってください。話はそれから。」
玄関先で話を続けるには限界があった。私の手が、いつもより少しだけ冷たくなっているのを自覚しながら、ドアを開け放った。
「それで……どうしてここが分かったのですか?」
そう言い私は彼女にお茶を差し出した。
心臓の鼓動は緩やかでも、どこか胸の奥がざわついている。
柚月さんは、湯気の立つカップを両手で包みながら小さくため息をついた。
「このようにお宅に訪問する予定はなかったのです。礼儀がなっておらず、大変申し訳ございません。でも……あの男が、私のお手紙を無視するから……つい……」
「お手紙……?」
やはり、彼女があの手紙の差出人だったのだろうか。
「それってもしかして、ピンク色でお花が飾られた──」
「はい、それです。受け取ってはいたのですね。」
柚月さんは明快に答え、紅茶に口をつけずに続けた。
「つまりあの男、見て、無視しましたね。許せません。」
「あの男……?」
文脈的に雲雀くんのことなのだろうが、恋心を抱いているにしては随分と攻撃的な呼び方だ。
どうにも違和感がある。
佐山くんが、やや困惑したように口を開いた。
「……柚月、確認なんだけど。あの手紙って……何が書いてあったの?言いたくないならいいけど……」
柚月さんはきょとんと目を丸くし、私に視線を移した。
「あら、中までは見ていないんですね。それこそ、ここに来た理由でもあります。」
「……?」
「私は手紙の中にこう書きました。“淡路さんを私に紹介してほしい”と」
「……え?」
「手紙はわざとです。形に残りやすいですし。それにこうして貴方の目に止まる可能性もありますしね。あの男は直接頼んでも、どうせ『嫌だ』って言うに決まってるんです。あの独占欲狭量男は。」
独占欲……狭量男……?
私は一瞬理解が追いつかなかった。
代わりに佐山くんが私の脳内を言語化してくれる。
「え、つまり……あの手紙、ラブレターじゃなかったってこと⁇」
「ラブレター? んなわけないじゃないですか。どこに惚れるポイントがあるんですか? あんな一人しか見えてないような男に。」
容赦なく彼女は言葉を紡ぐ。
「…………」
「……まぁ、言いたいことはわかるけど。……だからこそ、なんで創さんに恋愛相談したいの?」
佐山くんが重ねて問うと、柚月さんはまるで当然のように即答した。
「それはもう、あの捻くれ者を落とした女性なら、何か良いアドバイスをくださると思いまして。」
私は、カップの中の紅茶を見つめた。何も言えない。
そうか。そう見えるのか。雲雀くんと私が、“そういう関係”に見えるのか。
でも実際は別に雲雀くんは私のことを恋愛的に好きというわけでは無いと思う。
それこそ大変だった時に助けてくれた存在とか、恩人とか。
彼の中で私はそんなカテゴリーだろう。
「……“落とした”という発言は些か誤解があるように見受けられますが...」
「でも、彼、あなたの話なら聞くじゃないですか。目も合わせるし、拒絶もしない。
それに、彼の生活圏内で共同生活をしている。そんなの、前代未聞ですよ。」




