1. つまらない世界と、嘘みたいな好意
「──今日から貴方はこの屋敷のメイドよ。よろしくね。」
雇用主の来栖都がそう言った。
私は頭を下げる。きちんと整えられた髪は横に結ばれ、支給されたメイド服をきちんと着こなす。目を合わせないようにし、口元は礼儀正しく微笑んだ。
「メイドとしてご奉仕いたします。」
そう名乗ったとき、都は小さく笑ってから言った。
「ふふっ、硬いわね。名前で呼ばせてちょうだい。確か名前がなかったんだっけ?
なら、“創”って呼んでもいいかしら?」
少しだけ、胸がざわめいた。
──“創”という名前を与えられたのは、私を作った先生以来だった。
都はとても親切な人だった。小柄で、きれいで、でもどこか憂いを帯びた瞳をしていた。
食事の仕方から掃除、洗濯まで──創は黙々とこなした。
ヒューズ、人工人間として生きていた未来では、それが自分の価値だった。
だがこの家での“任務”は少し違っていた。
「……息子を、よろしくお願いね。」
都は、やさしく創の手を取って言った。
「……はい。お子様のお名前は?」
「来栖雲雀。小学5年生ね。実は、ずっと部屋から出てこなくて。」
──引きこもり。
未来では滅んだ概念だ。だがこの時代には、まだ人間の“情緒”が残っている。
「あなたにしか頼めないの。あの子を、外に出してあげてほしいの。」
それが、この家に置いてもらえた理由でもあった。
***
翌朝、私は雲雀の部屋の前に立っていた。
朝食を作り、トレイに並べて持ってきた。完璧な栄養バランス、温度、見た目、どれも文句のない仕上がり。
コンコン、とドアをノックする。
「雲雀様。朝食をお持ちしました。本日付でこちらのお屋敷で働くことになりました、雲雀様のお世話係の淡路創と申します。お食事は、お部屋の前に置いておきますね。」
返事はない。予想通りだった。
一日目、二日目、三日目──
声をかけても、ノックしても、音がするだけで無視され続けた。
だが、食器はきちんと空になって廊下に出されている。
(……食べてはいる、のか)
私は表情を変えずに、内心少しだけ「よし」と思った。それは感情ではなく、成果に対する冷静な評価であった。
***
一週間後。
私は作戦を変えた。
「……雲雀様、こちら本日の昼食です。豚の角煮炒飯。なお、厨房に放置されていたため、猫が3度ほどつついております。」
ガチャッ。
「……猫? は?」
初めて、扉が少しだけ開いた。
「……冗談です。衛生的に調理してあります。」
「は? 何、そのボケ。」
「ウケましたか?」
「全然」
雲雀は年相応に小柄で、でも少し痩せていた。髪は少し跳ねていて、目つきは鋭い。綺麗な黒髪に目はキリッとしていて整った顔立ちをしていた。目元は少し都に似ている。
そして何よりそこには、56億人を殺した未来の怪物──その面影はどこにもなかった。
創は、まっすぐに彼を見つめた。
「本日から、食事は室内でご一緒してもよろしいですか?」
「は? なんでお前が?」
「お世話係ですので。」
「……鬱陶しいな。帰れ。」
「それはできません。都さんからの命令ですので。」
「くそババァ……」
「聞こえています。」
「は?」
「録音してあります。」
「……クソ女」
雲雀は悪態をついた。
***
食事のたび、私は雲雀の部屋の前に立った。ノックし、名を呼び、声をかけ続けた。
ある日。
「……なあ。」
「はい?」
「なんでそんなに俺のこと構うわけ?」
「任務です。」
「……任務ねぇ。」
雲雀は目を伏せてつぶやいた。
「そうやって“命令されたからやってる”ってのが、一番嫌いなんだよな。」
言葉に詰まった。今まで、それを否定されたことはなかった。
「……雲雀様は、どうして部屋から出られないのですか?」
「それ、俺が答えると思うか?」
「……思ってません。でも聞くべきだと思いました。」
雲雀は鼻で笑った。
「変な女。」
しかし、その日以降。
扉は少しだけ、開けっ放しになった。
そして一度だけ──
「……飯、うまかった」
と呟く声が、私の背中に向かって届いた。
そのとき、心のどこかがじんわりと温かくなるのを感じていた。人工人間である私に心と呼べる感情は存在しない。あるとしてもそれはプログラミングされた機械の心。だから私はすぐに
それが“嬉しい”という感情だと気づけなかった。それに気づくのは、もう少し後のこと。
***
部屋の扉が、わずかに開いていた。光が細く差し込み、床を照らしている。
その前に立つ少女──淡路創はそれに気づかぬふりをしてノックをした。
「雲雀くん。今日の昼はオムライスですよ。ケチャップで“バカ”って書くこともできます。」
「……センスないな。」
扉の向こうから返ってきたのは、年齢にそぐわない落ち着いた声。小学5年生とは思えない冷静さだった。
来栖雲雀・11歳。“神童”と呼ばれたその少年は、ある時期から人との関わりを断った。自室に閉じこもり、学校にも通わなくなった。“引きこもり”という言葉を、彼に使うのは正しくない気もした。それは単なる逃避ではなく──選択だったからだ。
私、淡路創は未来から来た凶悪犯罪者、来栖雲雀を殺すために作られたヒューズという人工人間。この家には来栖雲雀を殺すために来た。
……でも、それは“今”ではない。今の私は、ただのメイド。来栖家で働く家政婦であり、「ちょっとうるさい使用人」だった。
この屋敷に来てあれから3ヶ月たった。
いまだに雲雀君は外に出てきてくれない。
私は扉の前にしゃがみ込み、小さく息をつく。
「では、雲雀くん。質問してもいいですか?」
「……何だよ?」
「今日の課題はもう終わりましたか?」
「当然。朝のうちにやった。簡単だった。」
「やっぱり天才ですね。そういうスマートな所好きですよ。」
「……まじで、意味がわからない。」
困惑している雲雀くんの声には、少しだけ照れが混じっていた。
そのあと、静かな沈黙がしばらく続いて──
雲雀くんは、ふいに言った。
「なあ、創。」
「はい?」
「外の世界って、そんなに楽しいもんか?」
その声には、興味というより“諦め”に近いものが滲んでいた。彼にとってこの世界は、面倒で、嘘ばかりで、つまらないものだった。
「俺には、そうは思えない。人間って勝手で、自分勝手で、俺に何かを期待して、少しでもそれを裏切るとすぐに嫌な顔する……。そんなの、くだらないだろ。」
私は、その言葉に胸が痛んだ。
未来の世界は、もっとひどかった。人が心を失った時代。命に価値がなく、感情など誤差として消されていた。でも──今、この時代は違った。自分には、そのすべてが光って見えた。
「……私は、この世界が大好きです。」
思う気持ちをまっすぐに言った。
「私、実は未来人なんですよ。だから未来を知っていて。その未来には何もありませんでした。人の優しさも、痛みも、食事の香りも、風の音も。だから、ここにあるすべてが、奇跡みたいに感じるんです。」
雲雀君は黙って私の言葉を聞いていた。
「もし、雲雀君が“つまらない”って感じてるなら──私が教えますよ。“楽しい”って思えるもの。“美しい”って思えるもの。全部いっしょに探しに行きませんか?」
その言葉に、雲雀君は少しだけ目を見開いた。
「……なんで、そこまでする?」
それは、“神童”として扱われ続けた少年の、本音だった。
誰も彼に近づこうとしない。近づいてくるのは、彼の価値を利用しようとする大人ばかり。
私は一瞬だけ迷った。そして、嘘を選んだ。
「雲雀くんのことが、好きだからです。」
「……は?」
「理由は、それだけ。だめ、ですか?」
雲雀くんは顔を真っ赤にして、扉を閉めかけた。
「……お前、変な奴だな……ほんと変....自分のこと未来人とか変な冗談言う変なメイド....」
「そういうところも好きですよ」
「やめろっ!」
「怒った顔も、かわいいです。」
「うわああああ!!うるさい!!」
その日から、私は雲雀君に何かあるごとに“好意”を口にするようになった。
「今日も寝癖が天才的ですね、好きです」「足音で誰かを判別できる雲雀くん、すごい。好きです。」「俺、っていう一人称、かっこいいです。好きです。」
雲雀はそのたびに怒鳴ったり赤くなったりしながら──少しずつ、心を開いていった。
ある日、雲雀は静かに言った。
「……じゃあ、試しにひとつだけ。“楽しい”ってやつを、教えろよ。」
私は、少しだけ嬉しそうに笑って、こう返した。
「はい。お任せください。雲雀くんが“楽しい”とそう心から思えるその日まで、私はずっとそばにいますから。」