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(4)声が聞こえる

「伊奈、図書室か?」

 放課後、ランドセルを背負った栞が本を手にしたところで、題が声をかけてきた。

「うん、ちょっと寄るだけだから」

 今日の放課後は紙魚退治はない。題は友達と遊んで帰るみたいだし、栞も読み終えた本を返して次の一冊を借りたら、すぐ下校するつもりだった。

 本当なら、今日は読人とパヒナが紙魚退治をする日だけれど、たぶん今日も中止だろう。そう思って図書室に行った栞は、誰もいないカウンターで返却手続きをした。

 昼休みに目をつけていた本がまだ残っているのを期待して本棚のほうへ向かう。そのとき、鼻をすする音を聞いた気がした。

(誰かいる……?)

 そろそろと本棚の陰をのぞくと、周囲に本を散らかして、パヒナが座り込んで泣いていた。

「村瀬さん……?」

 パヒナがびくっと肩を揺らして、顔をそらす。

「なんで来たのよ。さっさと行きなさいよ」

「でも……もしかしてけがをしたの?」

 パヒナのきつい言い方にびくつきながら、栞はそばにひざをついた。

「けがなんてしてないわよ。早くあっちへ行って」

 突き飛ばされて本棚に背中を打ちつけた栞は、痛みにうめいた。

 一瞬申し訳なさそうな表情を浮かべ、パヒナが立ち上がる。そこでパヒナの目からぽろりと涙がこぼれた。

「……なんで……なんでわかんないの。どうすれば聞こえるのよ?」

「村瀬さ……」

 ついに大きくしゃくりあげ、パヒナはうわあんと泣きだした。

「誤植が多いって本田先生に言われたの。私が回収した文字の順番が間違ってるって。ちゃんと本の声に耳を傾けないと、せっかく修理しても読めないから、このままでは仕上げは任せられないよって」

 昼休みに司書室で本田先生と話していたのはそのことだったのか。

「『行間』に行くときはいつも司書室にある本の中から選んでたけど、それなら自分で探してやるって思って……でも全然見つからない。もうだめだわ。私には綴り姫としての力なんかないのよ」

 泣きじゃくるパヒナの肩を栞はつかんだ。

「そんなことないよ。村瀬さん、テストに合格してるじゃない。綴り姫にしか紙魚は見えないんだよ」

「だって伊奈さんにはちゃんと聞こえてるでしょ? あんな小さな紙魚がついた本にも気づくんだもの……私、伊奈さんに勝ちたかったの。だけど二人ずつに分かれたらうまくいかなくて……平野くんは怒ってばっかだし、糸川先輩は『誰かとはりあう気持ちが強いだけだと成長できない』って冷たいし……負けたくないって思って何が悪いの? 自分のほうが強くなりたいって思うことのどこがいけないのよ?」

「それが悪いことなんじゃないよ。村瀬さん、優先させる順番が違うんだよ」

 続から説明された色の心理を思い出す。

 人に意見するのが栞は苦手だった。特に、間違いをはっきり指摘するのは勇気がいる。でもこのままだと、パヒナと読人はいつまでたっても組めない。

 紙魚退治のできる人が少しでも増えると、みんな楽になる。去年つらい思いをした文や続も。

 何より、本が綴り姫と書士の助けを待っているのだ。

「順番って何よ? 意味のわからないこと言わないでよっ」

「あのね、村瀬さん。綴り姫の仕事って誰かに勝つことなの? トップになることだと思ってるの?」

 理解しようとする気持ちさえ放棄しているパヒナにどうか届いてほしいと、栞は訴えた。 

「本の声を聞いて、紙魚に食いつくされるのを防ぐのが綴り姫の仕事でしょ? 強くなるのは大事だけど、一番になるのが仕事じゃないわ。こうしてさわ――」

 そばにあった本の表紙をなでた栞は、はっと息をのんだ。

 言い合っていたからすぐに気づかなかった。

 今自分が触れている本は、紙魚に食われはじめている。

「何……それ、もしかして」

 栞の表情からパヒナも気づいたようだ。本を奪おうとするパヒナと、栞はもみあいになった。

「だめ、村瀬さんっ」

「貸しなさいよ。それ、紙魚がいるんでしょ?」

「司書室に持っていかなきゃ」

「私が見つけたのよ。私が先に探した本なんだからっ」

 体格のいいパヒナのほうが力が強かったが、栞は必死に抵抗した。それでもついにパヒナに引っ張られて本が離れた。

「あっ……」

 パヒナが本を手に司書室に走っていく。栞も追いかけた。

「村瀬さ――!? だめっ」

 司書室に入った栞は、パヒナが本を開こうとしているのを見てあせった。

 まぶしい光が広がる。

 ぼこっと一つ泡を吐き出して目を開けたときには、最近ようやく慣れてきた光景があった。

(来ちゃった……)

 栞はがっくりと肩を落とした。

 目の前には、体長十五センチほどの紙魚が一匹いるだけだ。

 でも題はいない。読人もいない。

「村瀬さん、帰ろうよ」

 綴り姫だけでは戦えない。自分たちは武器を持っていないのだから。しかしパヒナは拒んだ。

「あれくらいの紙魚、私にだって倒せるわ。この前はちょっとびっくりしただけよ」

 パヒナが祓串を袴にはさみ、ポケットを探る。ところが急に慌てだした。

「え、ない? どうして……持ってきたはずなのに」

 小袖の胸元から袴までパタパタさわっているパヒナに、何を持ってきたのかと栞は尋ねた。

「果物ナイフよ。スカートのポケットに入れておいたの」

 まさか家から武器を持参してきたのかと驚惑する栞の前で、パヒナはどんどん青ざめていく。

「嘘。どうしてないの?」

「……もしかして……」

 一つの可能性を栞は思いついた。書士が腰に下げている剣は現実世界で身につけているわけではない。衣装が変わることからも、あちらから物を持ち込むことはできないのかもしれない。

「村瀬さん、司書室に帰ろう」

 もう一度うながすと、さすがにパヒナもまずいと思ったのか素直に承知した。

「……そうね」

 しかし、栞とパヒナがブローチにさわって念じても脱出できなかった。

(えっ……!?)

「なんで帰れないの?」

 パヒナが動揺に声を震わせる。栞ははっと口を押さえた。

 文が言っていた。紙魚がいる本を開いて『行間』に入ったときは、その紙魚を退治しないと出られないのだ。

(どうしよう……)

 つと、周囲でざわめきを感じた。他の紙魚が栞たちに気づいたのだ。

 このままここにいたら、紙魚の群れに襲われてしまう。

 何とか目の前の紙魚を退治しなければ。でもどうやって?

(助けて、先輩)

 栞は文と続に呼びかけた。二人が図書室に来ていることを願って。

 でも二人とも現れない。パヒナと読人はしばらく仕事をしないだろうと考えて、図書室に寄らず下校してしまったのか。

 そのとき栞の視界の端で、細いものが揺れた。

 とっさに顔をかばった右腕に、ひきつるような痛みが走る。隣にいたパヒナが悲鳴とともに目を覆った。

 栞は血まみれになっている自分の腕を見た。本にとりついていた紙魚が攻撃してきたのだ。

 いつもなら書士が簡単に片付けてしまうくらいのサイズだが、今の栞たちに戦うすべはない。紙魚のほうも書士がいないのがわかっているのか、嬉しそうに触角を揺らしている。

「逃げなきゃ」

 栞はパヒナの手を取った。

「どこに逃げるの!?」

「わからないけど、向こうから他の紙魚もこっちに来てるの。だから……」

 そこで栞は呆然とした。さらに別の方角からも紙魚が近づいてきている。

 逃げ道はない。完全に、円を描くように囲まれていた。

「やだ……何これ」

 ようやくパヒナも紙魚の気配を察知したらしい。その場にへたり込み、パヒナは頭をかかえた。

「嫌よ。私たち、食べられちゃうの? そんなの嫌っ」

 紙魚に骨までバリバリとかじられるのを想像し、栞も恐怖に震えた。

(助けて……糸川先輩……)

 もう視認できるくらい、紙魚は迫っている。しかもびっしりとすきまなくつめているから、突破することは不可能だ。

 目の前の紙魚もササッとはってきた。振られた触角が袴からのぞく足を切り、血がすうっとにじむ。

 再度触角を持ち上げた紙魚に「嫌あっ」と叫んで栞が祓串を振り回すと、運よく当たった。棒の部分は意外と頑丈なのか折れることなく、吹っ飛ばされた紙魚がひっくり返ってもがく。だがそれが刺激となったのだろう、他の紙魚たちがいっせいに栞を目指して脚を速めた。

 パヒナが絶望の悲鳴を上げる。栞は祓串を紙魚たちのほうへ向けたまま、ぎゅっと目を閉じた。

(助けて――佐山くん!!)



 コロコロと足元に転がってきたボールにも気づかず、題は運動場から図書室のあるほうをぼんやり眺めていた。

「ダイ、何やってんだよーっ」

 一緒にサッカーをしていた戸坂省吾が、あきれ顔でせかす。

「あ、おう」

 題の放つシュートに備えてゴールでかまえていた友達も、いぶかしげにしている。題はとりあえずボールを蹴ったものの、勢いはなくあっさりキャッチされた。

 ちょっと寄るだけだと言っていたのに、栞はいっこうに姿を見せない。いくらなんでも遅すぎないかと、題はまた校舎を見やった。

「大きいのか? 小さいのか?」

「馬鹿、違うって」

 トイレと勘違いしたらしい友達に言い返す。

「悪い。ちょっと忘れ物を思い出した」

「とか言って、伊奈が気になってんじゃねえの?」

 手を挙げて離脱を告げた題に、省吾がにやにやした。

「お前ら最近、仲いいからなー」

「え、何? ダイ、伊奈が好きなのか?」

 その場にいる皆からひやかされ、題は赤面した。  

「うるせえよ。トイレだよ」

 ぷいっと背を向ける題に、「今、違うって言ったくせに」と省吾が笑う。

「まあ、何でもいいから早くすませてこいよ」

「おう」

「あんまり走ると漏れるぞーっ」

 飛んできたよけいな忠告に舌打ちしながら駆ける。

 自分がサッカーに夢中になっている間に、とっくに帰ってしまった……ということはないだろう。いつも運動場を横切っていく栞の姿を、見逃したことはないからだ。

 今日は読人とパヒナが紙魚退治をする日だが、まだけんか中だから仕事はしていないはずだ。

(いや、待てよ。ヨミだけが来てて、伊奈を無理やり引っ張っていったってことは……)

 そう考えると落ち着かなくなり、題は急いだ。

 性格に難はあるが、顔は読人のほうが断然よくてモテる。だから読人がパートナーのパヒナより先に栞のほうをあだ名で呼びだしたときは、本気であせった。栞は読人を怖がっていたし、読人も栞は好みではないはずと油断していたのだ。

(伊奈の奴、何だかんだいってヨミをありのまま受け入れそうだもんな……)

 おびえながらもこびようとはしない。それを読人は感じ取ったのかもしれない。さすがにパートナーを換えてみないかという提案には驚いたし、栞も断ったのでほっとしたが。

 本好きだから好きだと、栞には言われた。もちろん、自分だって本好きな人間のことは好きだ。

 でも、栞に対する『好き』の気持ちはもっと大きい。

 四年生で同じクラスになってから、ずっと気になっていたのだ。

 図書室で、教室で、静かに本を開いている栞のことが、いつも視界に入っていた。

 怖がりで、紙魚と戦うのを嫌がっていた栞にじっくりつきあって、やっと『安心して仕事ができる』という言葉をもらったのだ。それを横からさらわれてはたまらない。

 靴箱に着いて確認すると、栞の靴はあった。ということは、まだ校内にいるのだ。

(図書室をのぞいてみるか)

 何事もなければ省吾たちのもとに戻ればいい。そう思って靴を脱いだ題は、上履きも履かずに歩きだしたところで、どんっと胸に響いた叫び声に硬直した。

(何だ、今の――伊奈!?)

 呼ばれた、とはっきり感じた。題は猛ダッシュで階段を駆け上がった。角を曲がったとき、渡り廊下を走ってきた人物とあやうくぶつかりそうになる。

「うわっ……!!」

 もちまえの反射神経でかろうじてかわしたものの、勢いあまって題はつるっと滑った。

「ヨミ!? なんでここに――」

 読人も驚いた顔で題を見てから、また走っていく。向かう先は図書室だ。

 嫌な予感に、題もすぐ立ち上がって後を追った。そして同じように急いで来たらしい文と続が図書室のドアを開けるのを目にする。

「あなたたち、一緒じゃないの!?」

 ふり返った文の顔色が変わる。それで題も事態に気づいた。

(あの馬鹿! 綴り姫だけで『行間』に行きやがったなっ)

 四人はカウンターの後ろを通り、司書室へと駆け込んだ。部屋の真ん中あたりで、開かれたまま床に落ちている本がぼんやりと発光している。そしてその中で、赤と緑の光が点滅していた。

「どうやって入るんだ?」

 今まで後から参戦したことがない題が尋ねると、続が本を手に取ってパタンと閉じた。

「こうして、もう一回開くんだ。行くぞ」

 続が本を開く。まばゆい光に包まれながら、題たち四人は『行間』へと入った。 

「――なっ…………」

 入ると同時に剣を抜いた題は、目の前の状況に唖然とした。文も続も読人も立ちつくしている。

 周囲に金色の網がはりめぐらされていた。さらに中心にいる栞たちのそばでも、金色の網に包まれた何かがもごもご動いている。

「伊奈!!」

 祓串を両手でにぎりしめ、前に突き出したままかたまっていた栞が、題を見た。

 ふわりと安堵の笑みを浮かべて倒れる栞に、慌てて駆け寄って抱き起こす。栞は意識を失っていた。

「おい、伊奈、しっかりしろ。伊奈っ」

 腕や足から血が流れている。明らかに紙魚に切られた傷跡だった。

「何が起きているんだ?」

 続のつぶやきに、蒼白していた文が祓串を構えた。

「気持ちのいいものじゃないけど、見たいなら見せるわ」

 祓串が振られ、紙魚粉が散っていく。

「何だこれ!?」

 題は吐きそうになった。

 金色の網の向こうに、無数の紙魚が群がっていた。網にはばまれて近づけないため、ギシギシと触角を鳴らしている。

 また、栞の脇にある小さな網の中では、一匹の紙魚が弱々しく手足を動かしていた。

「庄司くん、その小さい紙魚を斬って」

 文の指示に、続がとまどいの表情を浮かべたまま剣を抜く。金色の網目から紙魚を貫くと、ぽろりと一文字がこぼれ出た。

 パヒナはまだ放心状態で座り込んでいるため、文が筆で文字を拾う。その間、周囲の紙魚たちは金色の網を食い破ろうとしていたが、網はびくともしなかった。

「回収、終了。すぐに帰るわよ」

 文の呼びかけに、題たちはそろってブローチに触れた。



 びりっとした痛みが右腕に走り、栞はうめいて目を覚ました。

「気がついた?」

 優しく静かな声に視線を動かすと、文が顔をのぞき込んでいた。

「薬をつけたからしみたのね。痛いけど、少し我慢して」

 文が大きなガーゼを栞の手に添えて、包帯で巻いていく。それから文はまた新しいガーゼにたっぷりと消毒液をふくませた。今度は足のほうで刺激を感じ、栞は歯をくいしばって悲鳴をこらえた。

「気分はどう? どこか、おかしなところはない?」

「大丈夫です……」

 栞は文に背中を支えられながら、ゆっくりと上体を起こした。

 まわりにある本棚を見て、ほっと息をつく。

「ここ、図書室ですよね。帰ってきたん――」

 栞はぎくりとした。椅子の背もたれで組んだ腕にあごを乗せ、題が栞をにらんでいたのだ。

「佐山くん……」

 ぴくりと題の眉がはね上がった。題は乱暴に椅子から下りると、栞の前にやってきて片膝をついた。

「この……馬鹿やろう!!」

 耳を引っ張られて怒鳴られる。身を縮めて逃げようとする栞の腕をつかまえて、題はガミガミと続けた。

「書士も連れずに行くなんて、何考えてんだお前は! 本についていた紙魚を退治しないと『行間』から出られないって、最初に注意されただろうがっ」

「ご、ごめんなさい……」

「あやまってすむか! もし誰も来なかったら、お前たちは向こうで紙魚に食われて終わってたんだぞ!?」

 ものすごい勢いで叱られ、顔がほてりだす。

 自分が悪いのだから反論できない。

 でも、題がこんなに怒るなんて……。

「ああもうむかつく。わかるまで何度でも言ってやるぞ、この馬鹿!」

 聞いているうちに目に涙がにじんできた。唇をきゅっとかんで小さくなっている栞に、カウンターにいた続が苦笑した。

「ダイ、そのへんでやめておかないと、伊奈さんがかわいそうだよ」

 題がぐっと言葉をのみ込む。それでもまだ言い足りないのだろう、ギリギリと歯ぎしりしている。

「伊奈さんは巻き込まれただけだから」

 続が寄ってきて、穏やかな笑顔を栞に向ける。

「だいたいの事情は村瀬さんから聞いたよ。大変な目にあったね。怖かっただろう?」

 抑えきれずに涙がこぼれた。とたん、それまでせきとめていた気持ちの波が一気にあふれる。

 怖かったのだ、本当に。もう助からないと思った。

 しゃくり上げる栞に、題が気まずそうに顔をそらした。

「紙魚のついた本の扱いについては、村瀬さんやヨミにももう一度きちんと説明しておくから、伊奈さんも今後は気をつけて。少なくとも、書士がいないときに間違って開くことのないようにね」

「はい……すみませんでした」

 栞は素直に頭を下げた。

「よし、帰るぞ」

 題が腰を浮かす。先に去るのかと思ったら、じっと栞を見下ろしているので、栞も立ち上がった。

「お疲れ様。今日はゆっくり休んでね」

「はい。さよなら」

 続と文に挨拶をして、栞は題と一緒に図書室を出た。

 もう陽はかげり、廊下は薄暗くなってきている。題の後ろをついて歩いていた栞は、渡り廊下にパヒナが立っているのに気づいた。

 うつろな目で外を眺めているパヒナに、題が話しかけた。

「ヨミは?」

「とっくに帰ったわ。佐山くんみたいに怒鳴りもせずに、どうでもいいって感じで知らん顔して」

 パヒナの顔にも涙のあとがあった。疲れ切った表情で一度視線を落としてから、パヒナは栞をかえりみた。

「迷惑かけて、悪かったわ」

 とっさにかける言葉が出てこず、栞はただかぶりを振った。

「私、図書委員をやめるわ」

 こんなみっともない失敗をして続けられないもの、とパヒナが言う。

「委員は一年間は変えられないんだぞ」

「だって……」

「お前さ、ヨミに助けを求めただろ?」

 題の指摘にパヒナは目をみはった。

「俺には伊奈の声が聞こえたんだ。それで図書室に向かったら、ヨミも同じように急いでた。ってことは、あいつにも村瀬の声が聞こえたんじゃないか?」

「嘘……」 

「本当にどうでもよかったら、あいつは無視するぞ。そのへん、すげえドライだから」

 パヒナの顔がくしゃりとゆがんだ。

 ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、パヒナは鼻をすすった。

「私……何やってるの……ほんと、馬鹿みたい」

「村瀬さん」

 ずっとパヒナに言いたかったことを、栞は口にした。

「本を、もっともっといっぱい読んだらいいと思うよ」

 パヒナがいぶかしげに眉をひそめる。

「いろんな本を読んで、楽しいとか、怖いとか、悲しいとか、ためになるとか、とにかくたくさん感じるの。そうしたら聞こえてくるよ――本の声が」

 今度は栞の言葉が届いたのか、パヒナの頬に赤みがさした。

「今からでも間に合う?」

「大丈夫だよ。あんなに本があるんだもん。私たちを待ってる本を、一緒に見つけていこうよ」

「……そうね」

 涙をふいて「ありがとう」と破顔し、パヒナは去っていった。

「村瀬さんと平野くん、何とかなりそうかな」

「まあ、この先もけんかはするだろうけどな」

「平野くん、けっこういい人かも」

 口は悪いし態度も荒いけれど、ちゃんとパートナーのことを気にしていたのだ。

「ああ。ヨミがあんなに全力で走ってるの、初めて見たな」

 運動会のリレーですら適当なのにと笑ってから、題が真顔になる。じっと見つめられ、栞は首をかしげた。

「佐山くん?」

「ん? ああ……けが、大丈夫か?」

「うん、そのうち血もとまると思うし」

「そっか」と題は視線をそらしてまた歩きだした。

 何か他のことを話したそうに見えたけれど、気のせいだったのだろうか。無言になった題の横に栞が並ぶと、やがて題がぼそりと言った。

「……なあ。もし俺がうっかり一人で『行間』に入ったとして、伊奈に助けを求めたら……俺の声、聞こえるのかな」

 題はまっすぐ前を向いている。まるで緊張しているかのように、その横顔はこわばっていた。

「聞こえるよ」

 栞ははっきりと答えた。

「佐山くんが呼んだら……どこにいても、絶対聞こえる」

 題のまなざしが栞をとらえる。

「あ、でも、私は佐山くんほど速く走れないから、できるだけ近いときにしてね」

「――ああ」

 くすりと笑い、題は安心したように瞳をやわらげた。

 それから栞と題はゆっくりと靴箱へ向かった。帰る方向が違うから、ここでさよならだ。そのとき、題がランドセルや荷物を持っていないことに栞は気づいた。

「佐山くん、一回家に帰ったの?」

「いや、省吾たちとサッカーしてたから――やべえ。ランドセル、運動場に放りっぱなしだった」

 題が顔をしかめて頭をかく。

「省吾たちにトイレに行くって言ってそのままだ。なげえクソしてるって思われたかな」

「明日どうすっかなあ」と言い訳を考えはじめた題に、栞はぷぷっと吹き出した。

 栞が運動場を通って帰るため、もう少しだけ二人は一緒に歩いた。図書室に新しく入った本のことを語りあい、けがの痛みも忘れるくらい上機嫌で家へ帰った栞は、机の上に飾ってある写真に視線を投げた。

 月曜日の係の紹介に載せるため、栞と文とパヒナの三人でとった写真だ。

 文とはもう仲良くなれた。これからはパヒナとも一緒に頑張っていけそうだと、栞は期待に胸をふくらませた。

 そして、机のマットにはさんでいる写真を手にする。

 水曜日用に題と二人だけで写った写真。栞の表情はぎこちないけれど、題は余裕の笑顔でピースをしている。

 本田先生から写真をもらったときは、思いがけないプレゼントに小躍りしそうになった。嬉しさが顔に出ないよう懸命にこらえて、大事に持って帰ったのだ。

 題の顔に指でハートを描いてから、栞は目を細めて微笑んだ。

 

 

「金色の網か……」

 栞と題が出ていった図書室で、文と続から『行間』での様子を聞いた司書の本田は、パソコンの前に座りながらぽつりとつぶやいた。

 いったい何の予兆だろう。まさか封印が解けかかっていて、後継者が現れた? 

『彼女』は今、どんな状態なのか。

 目をつぶり、こめかみを指でトントンとたたく。

『栞』は結末への道標だ。このまま進めば『彼女』のもとへたどり着けるかもしれない。

「……平野くんと村瀬さんがうまくいくようになったら、一度試してみようか」

 パソコンの電源を入れると、ウィィィンと機械音が響いた。

「ちょっと手強い本に、みんなで立ち向かってくれるかい?」

「大きな紙魚ですか?」

 続の質問に、本田はうなずいた。

「うん。しかも複数潜り込んでいる」

 続と文が顔を見あわせる。

「あと少しで鬼本になってしまう、かなり危険なものだ。でもそれくらいでないと、力を発揮できないかもしれないからね」

 さすがにすぐには承知しない二人に、本田は口角を上げた。

「君たちを大変な目にあわせることになるけど、もしかしたらとってもレアなものを見られるかもしれないよ」


 伝説の、金色(こんじき)の綴り姫を――。

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