(3)けんかしちゃった……
翌日の放課後から、栞は題と二人で『行間』へ入り、徐々に紙魚のサイズを大きくしながら経験を積んでいった。
もしかしたら題はもっと派手に剣を振るいたかったかもしれないけれど、それについて題がせかしたり注文をつけたりすることはなかった。
ペアを組んだのが題でよかった――栞が心からそう思ったのとは反対に、二人だけで戦うようになったパヒナと読人は、『行間』から帰還するたびに不機嫌な様子を見せるようになった。
そして五月も終わりに近づいたある日の放課後。パヒナと読人が紙魚退治に向かい、文と続が救援組として司書室でスタンバイしている隣の図書室で、題と本の整理をしていた栞は、不意に届いた悲鳴に肩をはね上げた。
「伊奈? 紙魚が見つかったのか?」
「ううん、違う……」
呼んでいるのは紙魚に食われている本ではない。これは――人の声。
(村瀬さん……!?)
栞が司書室をふり返ると同時に、司書室のほうがにわかに騒がしくなった。
「何だ? トラブルか?」
題も首をかしげる。まもなく、パヒナと読人の口論が聞こえてきた。
「ああもう、やってらんねえよっ」
「何よ、役立たずっ」
「役立たずはお前だ、馬鹿女っ」と怒鳴りながら、読人が乱暴にドアを開ける。
栞たちと目があった読人は、額からだらだらと血を流しながら、ふてくされたさまで去っていった。
次に、文に付き添われてパヒナも姿を見せた。司書室で手当てを受けたようで、パヒナは頬に大きな絆創膏をはっていた。腕や肩も服がざっくりと裂けている。そしてパヒナも栞たちを見ると、ぷいっと顔をそらして図書室を出ていった。
「ヅッくん、何があったんだ?」
「今日の本には紙魚が複数いて、ヨミだけで対処しきれなかったみたいだ」
司書室から現れた続が、くしゃりと髪をかいてため息をつく。
三匹を一度に相手取ることはできず、読人はまず大きいほうに狙いを定めた。その間に小さい二匹がパヒナに向かったが、二十センチほどのサイズだったため、それくらいなら祓串で対抗できると読人は思ったらしい。しかし初めて紙魚の攻撃を受けたパヒナはパニックになり、悲鳴を聞いた文と続がすぐ『行間』に入って手を貸したのだという。
この戦闘でパヒナはもちろん、パヒナの叫び声に驚いた読人も大きな紙魚の触角をよけそびれてけがをしてしまい、互いにののしりあう二人をうながして文と続が現実世界へ帰ってきたと聞き、栞は青ざめた。
今まで複数の紙魚と同時に戦ったことはない。いくら小さくても、もし書士が手一杯だから自分でしのげと言われたら、怖くてその場に縮こまってしまうだろう。
「本についてる紙魚の数って、事前に把握できないのか?」
題の質問に、「正確な数まではわからないけど、一匹じゃないっていうくらいなら何となくは」と栞は答えた。
「さすがね。でも伊奈さんほど感覚が鋭くなくても、経験を重ねればそれなりに感じ取れるようになるわ」
「つまり、村瀬にはまだ無理だったと」
文の付け足しに、題がなるほどと納得する。
「数が多くて厳しいと判断した時点で、すぐ呼んでくれればよかったんだけどね。あの二人はこのところ、戦い方をめぐってよくけんかになっていたみたいだし、お互い弱気を見せられず意地になったのかも」
続が眉間をもみほぐす。
「自分の力を過信した結果よ。必要な壁だわ」と文の口調もそっけない。
「俺たち、また四人で組んだほうがいい?」
題の問いに、続はかぶりを振った。
「いや、あの二人はしばらく戦えないだろう。冷却期間をおかないと、二人とも頭に血がのぼっている。パートナーを信じていない状態で戦うのは危険だし、ダイと伊奈さんのリズムまで乱してしまう」
君たち二人はせっかくうまくいっているんだから、と続が微笑む。
「あの二人のことは気にせず、ダイたちはいつもどおり本の修復を頼むよ。伊奈さんは感知能力が高いうえに慎重だから心配ないだろうけど、十分に気をつけて。まずいと思ったらすぐ応援を呼ぶんだよ」
続の言葉に、栞と題は神妙な面持ちでうなずいた。
今日はこのまま下校することになり、二人で階段を下りていると、ドアの開閉音が響いた。
保健室から出てきた読人は額にガーゼをはっている。痛々しくはあるものの、病院に行くほどの大けがではなかったと知り、栞はほっとした。
「ヨミ、大丈夫か?」
「たいしたことねえよ。顔ってちょっと切っただけでも血が出やすいじゃん」
読人はむすっとしたまま答えた。
「まったく、ひでえ目にあったぜ。なんであんなちっちぇー紙魚二匹くらい、一人で追い払えねえんだよ」
「……祓串では倒せないから、二匹も来たら小さくても怖いよ」
「ああ? じゃあ複数の紙魚が潜り込んでる本に入らなきゃいいだろうが。あの本を選んだのはあいつだぞ? 自分が紙魚の数に気づかなかったくせに、俺を責めたんだぜ、あのやろう」
パヒナをフォローしたことで読人ににらまれ、栞は身をすくませた。
「だいたい、俺たちは綴り姫の家来じゃねえよ。体はって紙魚退治してんだ。それなのにさっさと倒せだのなんだの、文句ばっかり垂れやがって。安全なところでのほほんと見物してるお前らに、なんでえらそうなこと言われなきゃならねえんだよ? 助けてほしいならそれ相応の態度をとりやがれっ」
「言いすぎだぞ、ヨミ。それに伊奈はえらそうなことは言ってない」
やつあたりをいさめる題に、読人は舌打ちして横を向いた。
栞は反論できなかった。書士がいなければ、自分たちは身を守ることができないのは確かだ。
どうにかならないのだろうか。綴り姫と書士が協力して戦う方法は他にないのか。
黙って考え込んでいた栞は、視線を感じて読人を見た。
「なあ、ペア換えてみないか?」
読人の提案に、栞と題は目をむいた。
「え……!?」
「はあ!?」
「イナゲも頼りねえけど、能力はあいつより高いんだろ? どれだけ違うか、ちょっと試してみてえし」
複雑な表情で題が栞をかえりみる。口を開きかけた題に、栞はぷるぷると首を横に振って題の服をつかんだ。
「い、嫌っ」
するりと本音が出てしまい、栞は慌てて口を押さえた。題がぷっと吹き出す。
「だとさ」
得意げに読人に笑いかける題に、読人があきらかにむっとした。
「はっきり言うじゃねえか、イナゲ。何がそんなに嫌なんだよ」
すごまれて、栞は題の後ろに身を隠した。
「お前が変にこいつをびびらせるからだろ」
題があきれ顔で代わりに答える。
「書士としての腕はダイキチと変わんねえぞ。むしろやたらと突っ込んでいくこいつより確実にやる。絶対損はさせねえ」
「そ、損とか得とかじゃないよ。信頼できるかどうかだもん。私は、佐山くんとなら安心して自分の仕事ができるの。だから――」
読人がドカッと壁を蹴った。びくっと縮こまった栞は、「ああ、そうかよ。どいつもこいつも、くそつまんねえ」と吐き捨てて去っていく読人を見送った。
(……傷つけちゃった)
読人の顔に一瞬ちらりと浮かんだ弱々しさに、栞は悔み落ち込んだ。あんな言い方では、読人は信用できないと非難したようなものだ。
きっと初めての失敗で、額のけが以上に心を痛めたに違いないのに。
「気にすることねえぞ。だいたい、ヨミも村瀬も勝手なんだよ。パートナーばっか責めたってどうしようもねえのに」
題は口をとがらせてから、にやりとした。
「それに、伊奈はいつもヨミにけなされてんだから、たまには言い返したってかまわねえよ」
「でも平野くん、絶対怒ったよね」
心配する栞に、題は「平気だって」と手をひらひらさせた。
「伊奈はヨミにあだ名つけられてるから大丈夫」
栞は首をかしげた。題が靴箱へと歩きだす。
「あいつなあ、甘ったれてんだよ。こいつなら少々体当たりしてもいけそうだって判断したら、相手がどう思っていようがあだ名で呼びだすから、わかりやすいんだ。まあ、伊奈があだ名つけられてたときはびっくりしたけど。ヨミと伊奈って対等っていうより、見た目は完全にいじめっ子といじめられっ子の関係じゃん」
自分でもそう思うと、栞はへこみながらうなずいた。
「あいつは、あだ名をつけていない相手になれなれしくされると異常なくらい反発するけど、つけてる奴に対してはどれだけけんかしても根にもたない。だからヨミのテリトリーに受け入れられた伊奈は、言いたいことを遠慮せずぶつけていけばいい」
なぐさめではなく、どうやら本当にそうらしい。
まさか読人のあだ名にそんな深い意味があったとは。不安はあるものの、栞は題の言葉を信じることにした。
「じゃあ、あだ名も頼んだら変えてもらえる?」
「あー、いや、それはけっこう難しいかも。でも確かに、イナゲはねえよな」
題がくくっと笑う。
「……佐山くんは……」
(ペア交代、どう思ったの?)
聞きたかったけれど、栞は言葉をのみ込んだ。もし自分が嫌だと言わなかったら、題は承知したのだろうか。
「何だ?」
「ううん、何でもない」
靴箱に着いたので、栞は上履きを脱いで入れ、運動靴を出してかがんで履いた。
「もっと、何かできればいいのに」
栞のつぶやきに、題が「うん?」と尋ね返した。
「佐山くんたちだけを戦わせるんじゃなくて、私たちももっと役に立てればいいのに」
そうすれば、もう少し距離が縮まるかもしれない。
今のままでは書士の負担が大きすぎる。
「役割を分担するのは、別に悪いことじゃないと俺は思うけどな」
同じように靴を履きかえた題が空を見やる。
「伊奈が俺と一緒に武器を振り回してるのって、なんか想像つかねえし。かといって魔法とかでさくっと紙魚退治されたら、俺の出番ねえじゃん」
「こういうときくらい、いいカッコさせろよ」とニカッとする題に、栞も笑みをこぼした。
(佐山くん、十分カッコいいよ……)
先に帰っていく題の背中を見つめながら、栞は心の中でぽつりと漏らした。
それから数日がたったけれど、読人とパヒナは紙魚退治に向かわなかった。放課後も栞と題、続と文の姿しかなく、毎日終礼後にパヒナと読人が栞たちの教室の前を通って別々に下校していくのを、栞は落胆しつつ見送った。
「二人とも当番の仕事はきちんとやってるんだよね。そこだけはさぼらず妙にまじめなのがかえっておかしくて」
カウンターで返却の手続きを手伝いながら、続が苦笑する。
今日は水曜日。当番として図書室に顔を出した栞と題より先に来ていた続から、読人とパヒナの様子を聞き、題があきれ顔になった。
「ほんと意地っ張りだなあ、あの二人」
「赤と黒だからね」
続の言葉に栞は首を傾けた。題も不思議そうにしている。
「向こうでの衣装、みんな色が違うのは気にならなかった?」
続がおもしろそうに瞳を細める。
「あれって、どうやらその人の心の色みたいなんだ。たとえば糸川は紫だ。色の心理について書かれた本なんかを読むと、紫はちょっとミステリアスなところがある、繊細な感覚の持ち主なんだそうだ。芯は強いけれど表面は静かっていうか」
「へえー」と題が目をみはる。
「ダイのオレンジは、明るくてにぎやかな雰囲気が好きな人。よくしゃべるし、わりとみんなの中心になりやすいんだけど、おおらかなわりに意外と人のこともよく見ていて、気づかうところがある」
(当たってる……)
栞は感心した。
「伊奈さんは緑だね。争い事を好まないから、ついつい人に対していい顔をしてしまうところがあるけど、周囲のバランスを考えられる優しい人だから、グループには必要な存在だよ」
「あー、なんかわかる」
題が栞を見てにやっとする。気恥ずかしくなり、栞はもじもじと下を向いた。
「赤はいろんなことに欲張りな自己主張が強いタイプ。くどくどしたことが面倒で、どちらかといえば派手なものを好む人だ。トップを目指そうという気持ちがすごくある。そして黒は、フィーリング重視というか、感覚でものごとを判断する人だね。一見怖そうだけど、実は意外と本人のほうが人を怖がっているところがあって、理解者以外をよせつけない。そのわりにみんなの前でカッコつけたがる面もあって、なかなか扱いが難しい」
題が天井をあおいでため息をついた。
「てことは、あの二人が協力しあうってのは無理じゃねえか?」
「できないことはないけど、衝突は多いだろうな。これがたとえばダイと村瀬さん、伊奈さんとヨミだったら、ここまで大げんかになることはなかったと思う。まあ、伊奈さんがちょっとしんどいかもしれないけど」
続が肩をすくめる。
「糸川先輩だったら? 冷静だし、戦闘経験も豊富だし、ヨミを適当にやらせて、しめるところはびしっとしめてくれそうだけど」
「糸川は……今年は少し楽をさせてやりたい、かな」
「へ? 去年何かあったのか?」
題に追及され、続は少しの間、口をつぐんだ。
「去年の六年生とあんまりうまくいかなくてね」
もう卒業してしまったからここにはいないはずなのに、続はまるでその人物がいるかのように図書室内をざっと見回した。
去年の六年生も図書委員は二人だけだった。そして女子の実力はパヒナと同じくらいで、後から参加してきた文の能力が高いことに嫉妬したのだ。
「最初に一回一緒に戦っただけで、あとは手伝うどころか、救援待機すらしてくれなかった。だから僕と糸川は先輩のアドバイスを受けられないまま、毎回ほとんど手探りで戦ったんだ。おかげで僕も慣れるまでけっこう傷だらけになったし、糸川を危険な目にあわせたことも何度もある」
それでも、六年生の女子図書委員は冷ややかだった。
「感知能力が高いんだから、私の助けなんかいらないでしょ」と、鼻で嗤って背を向けたのだ。
六年生の男子図書委員が文に気があるそぶりを見せたのも、原因だったのかもしれない。
「糸川はそんなに愛想がいいわけじゃないから、誤解されることも多くてね」
結局文に手を貸そうとしていた男子図書委員のほうも、六年生女子に遠慮して頼れなかった文を「生意気だ」と嫌うようになってしまった。
「そんなわけで去年は本当に大変だったんだ。まあ、結果として鍛えられたけど」
「ヅッくんたち、苦労したんだな」
題がしみじみとした調子で同情する。
「だから、今年は僕も糸川も喜んだんだよ。ダイに書士の素質があるとわかって嬉しかったし、伊奈さんが入ってくるのを糸川はすごく楽しみにしてたんだ」
「今年はうまくやっていけそう」と文が語っていたと知り、栞は目頭が熱くなった。
「糸川ならヨミの口の悪さにもびくともしないだろうけど、できればむだな苦労はさせたくないな。まあ、ヨミと組んでもいいと糸川本人が希望すれば反対はしないけど」
「何気にひでえこと言ってるぞ、ヅッくん」
確かに、これでは読人と組む綴り姫がみんな苦労するみたいだ。
題のツッコミに、続は涼しい顔で話題を変えた。
「そういえば、糸川に対して『アヤさん』っていうヨミのあれは、初めてのパターンだな。あの距離感はどうだろう」
「俺も気になってた。ヅッくんのことは『ゾウさん』って呼んでるから、年上には一応さんづけしてるのかと思ったけど、なんか普通すぎて違和感があるんだよな。あいつなら糸川先輩のこと、『ブンタ』とか『ブンブンブン』とか呼びそうなのに……こいつなんてイナゲだし」
「ああ、イナゲは……あんまりだよね」
続から気の毒そうなまなざしを受け、栞はずうんと落ち込んだ。
やっぱりあだ名を変えてほしい。少なくとも女の子につけるあだ名ではないと思う。
文にだって『ブンタ』も『ブンブンブン』も似合わない。そう考え、栞は疑問をもった。
「庄司先輩はどうして『ゾウさん』なんですか?」
「僕の名前は『ゾク』とも読むからね。最初はヨミに『ゾクゾクさん』って呼ばれてたんだけど、だんだん変わって『ゾウさん』で落ち着いたみたいだよ」
(なるほど……)
ということは、読人とペアを組んでいるパヒナだけがまだあだ名をつけられていないのか。
もし読人がパヒナをあだ名で呼ぶなら、どんな感じになるのだろう。
パフィーとかだとかわいいけれど、読人の中にその選択肢はないような気がする。
(パピプペポ、とか?)
言いにくいなあと心の中でぼやいてから、栞は首を横に振った。いつのまにか、読人の影響を変に受けてしまっている。
(佐山くんなら……ダイくん、ダイちゃん……ううん、イッくんかな)
呼べるわけがないのに想像し、栞はドキドキした。
同じ図書委員になるまでまともに話したことがなかった題と、こんな近くにいられるようになっただけでもすごいことだ。
パヒナのことも、あだ名で呼ぶくらいになったらうまくやっていけそうなのに、読人はまだパヒナに対しては『あいつ』『こいつ』『お前』と、名字すら呼んでいない。
そのとき司書室のドアが開いて、パヒナが出てきた。本田先生と話をしていたらしい。
パヒナが来ていたことに栞は驚いたが、その表情が暗く沈んでいたので胸がざわついた。
何を言われたのだろう。そろそろ読人と仲直りしろとでも注意を受けたのだろうか。
パヒナはカウンターに目を向けることなく図書室を出ていき、栞はダイと顔を見あわせた。
題がぼりぼりと髪をかく。栞もパヒナについて口にできず、当番の仕事に集中した。