聖女様が降臨されました
こんにちは。初めましての方もお久しぶりの方もよろしくお願いします。
始まりの鐘がなった。私、アルティナ・リミ・ミストラント公爵令嬢が許嫁であったヴィオラム・レン・リンドル国王陛下に嫁ぐための鐘だ。
「陛下、ただいま参ります」
私は浮き立つ心を抑えるために、息を大きく吐いた。
禊ぎをすませ、真っ白な薄衣を何枚も重ねた衣装を身につけて神官の訪れを待っている。花嫁衣装というには地味なドレス。真っ白でサラサラとした生地が何枚も重ねられた儀式のためのものだ。侍女達が私の髪を金色にキラキラ輝くように梳かしてくれて、緑の瞳が映えるようにと肌をもちもちのプルプルに整えてくれているからこうやって何とか平然と微笑んでいられるが、心のうちは嵐の海にも負けないくらいうねっている。
私が陛下にお会いして、その優しい笑顔に胸が打ち抜かれたのはいつだっただろう。それからずっと恋心は育っている。
「アルティナ様」
神官長の補佐であるリスルが入ってきたことにも気付かなかった。背後の気配に気付いて振り向くとリスルが私を見ていた。
この場所には儀式の進行に関係のある神官しか入ることができない。お妃教育の過程で知り合ったリスルがいてくれて心細さが僅かに減った。
「お迎えありがとうございます」
「いえ、どうぞお手を――」
差し出された手をとることはせず、首を傾げた。確かここから彼の先導で陛下の待つ泉へいくはず。結婚の儀式への情熱は止まることをしらず、手順は全て暗記している。
「あっ、申し訳ございません。あまりの美しさに手順をすっかり忘れておりました」
「まぁ」
優秀な彼は間違ったことが恥ずかしかったようだ。頬を赤らめて私を褒めてくれた。真面目でお固い気質の神官が多いけれど、彼はいつも穏やかだ。きっとそのうち立派な神官長になるだろう。
リスルの先導で、ゆっくり陛下の元へ向かった。普段は人の入ることのない神域だ。木々が茂っているアーチを抜け中央に泉がある広場のような場所についた。厳かな空気を感じた。立っているだけで身が引き締まっていく。
「アルティナ。美しい――」
結婚の儀式は神事のため、宝石もつけていない。化粧もなく髪を整髪料でととのえることもできないから、麗しい美姫を見慣れた陛下にガッカリされたらどうしようと思っていたけれど、杞憂だったようだ。いつも冷静な国王陛下、ヴィオラム様は満足したように微笑まれた。
男らしい笑顔に心臓が早鐘のように鳴った。彼にまで聞こえるのではないかと心配になりながら、丁寧な所作を心がけてお辞儀をした。
「陛下、お待たせいたしました」
「アルティナ、今日より我が片翼となるそなたには名を呼んでもらいたい」
「……っ! ヴィオラム様」
どれほど望んでいたことだろう。尊いその身が恨めしかった。婚約者なら普通は名前を呼ぶはずなのに、陛下は『王太子』であり『国王陛下』だったから。何度も練習していたのに、噛みそうになったけれど、ヴィオラム様は気にせず手を握って、その手の甲に口づけた。
「ははっ、そなたは本当に可愛らしい」
「ヴィオラム様」
いつものように可愛らしいと言われて、嬉しさともどかしさが同時に胸を苦しくさせた。
婚約が決まったのは五年も前だ。十三歳の時、両親が事故で亡くなり、不安になった祖父が当時の国王陛下に私の後見を願った。年老いた祖父の願いを無碍にできず、前国王陛下は自分の息子、王太子ヴィオラム様の婚約者の地位を与えてくれた。
十歳も離れた私が彼の婚約者になるなんて誰が思っただろう。
二十三歳には見えない当時から落ち着いて見えたヴィオラム様は時に兄のように、父のように私の相手をしてくれた。嬉しく思いながらも歯がゆかった。未熟な身体に幼い顔立ち、女としてみてもらえていないことは明白だったからだ。けれどヴィオラム様は焦らなくていいとおっしゃって、実際に婚約を決めた前国王陛下が崩御された後も私のことは婚約者として遇してくれた。
私は立派な淑女となってヴィオラム様が見惚れるような貴婦人を目指して奮起した。
王妃となるべく数々の勉強に教養、そして美しく見えるようにと努力は惜しまなかった。
どれほど頑張っても身長がやや伸びなかったことだけが悔やまれる。身長が伸びるとされる山羊の乳も牛の乳も飲んだけれどお腹を壊したり、木に登って逆さ吊りになったりもしたのに伸びなかった。木から落ちて、ヴィオラム様に禁止されたので木に登ったりしていないけれど続けていれば……。いや、身長よりも大事なものがある。そう思ったところで、ヴィオラム様が手を差し伸べた。
「アルティナ、おいで――」
ヴィオラム様は身長が高いので、かなり見上げなければ視線が合わない。近すぎると私の旋毛しかヴィオラム様には見えないだろう。
スッキリとした短く黒い髪は私と同じように整えることができないからか後ろに撫でつけず自然な感じで、いつもよりも年若く見えた。青い瞳が私に微笑みかける。
「はい、ヴィオラム様」
これから聖域の泉の水を二人で飲んで、永遠を誓う。それが王家の結婚の儀式だった。
透き通っているのに底の見えない泉。この泉は神聖な水が枯れることなく湧いている。
二人で屈んで手を水につけようとした瞬間だった。
「ギャー!」
怪鳥の鳴き声かと思った。
上空から悲鳴が聞こえて、身構えたヴィオラム様が私を庇おうと前に出た。
どこから落ちてきたのか激しい水しぶきを上げながら人が泉の中に沈んでいくのが僅かに見えた。
「アルティナ大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
水浸しになったヴィオラム様と違って、庇われた私は水一滴かかっていない。
「空から?」
ここにいるのは神官長様とリスルと私達だけ。警護の騎士もいない。
不審者は意識を失ってプカリと浮かびあがった。
「死んでいるのか?」
庇われた時にくじいた足が徐々に熱さを増していく。けれどそれを訴える雰囲気ではなかった。我慢できない痛みでもないので私は静かに見守った。
楽しんでいただけたら嬉しいです。