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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

不遇の令嬢がタイムリープで幸せを掴むまで

 

 一人の令嬢がアルセス王国の教会を尋ねた。彼女の名はアグネス・キャンベル。迷う事なく祭壇に近付いていくと、鋭い双眸そうぼう虚空こくうに漂う神を睨み付ける。


「私はあの人たちを許さない」 


 アグネスがそう叫んでも、誰も彼女を追い出しはしない。太陽が真上に昇るこの時間、こんな小さな教会には神父はおろか敬虔けいけんな信者さえいないのだ。だから、アグネスはいくらでも神を罵り、恨み事や呪いの言葉を吐ける。


「私は三回も耐えたのよ。でも、アルセス王国の神は私を救わなかった。いつも私に試練を与え、チャンスを与えてくれたのはアルトゥール王国の女神、ヘシュナよ……」


 アグネスの魂には、辿ってきた記憶の全てが刻まれていた。

 

 先ほどまでのアグネスには分からないことがあったが、今は違う。

 なぜ繰り返されるのか。なぜ終わらないのか――。アグネスは、その答えに気付いてしまった。

 この三回全てに()()()から、ヘシュナは試練を与え続けたのではないか、と。


 耐える事が美徳だとは思わないが、心の底では思っていたのかもしれない。だから今日は決意表明のため、それから心を強く持つためにも、アグネスは神に喧嘩を売らなければいけないのだ。


「祈りは捧げない。加護も求めない。だから、私に何もしなかったように、最後まで手出しはしないで。あの人たちの性根を叩き直すまでは!」



 ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆



 アグネス・キャンベルは十七歳の伯爵令嬢だ。


 日焼け一つしていない白い肌に淡い蜂蜜色の髪は、生まれてから絡まった事がなかった。空を映した海色の瞳は、同性異性問わずに引き込んでしまう不思議な魅力がある。


 服装にも気を遣っていて、ワンピースやドレス、夜着までアグネスらしい物を選び取っていた。例えば、ふんわりとしていて控えめな女性らしい服や、露出が控えめな服でも地味に見えない細やかな刺繍が施されていたり、リボンやレースが付いていたりと工夫された服だ。


「アグネス様は服選びのセンスがある」とキャンベル家のメイドたちは口を揃えて言った。


 そんなアグネスの性格は内気で人見知り。幅広く付き合うタイプではなく、狭く深く付き合うタイプだった。

 社交性がないアグネスを憂いた家庭教師は、アグネスに“聞く事”と“微笑む事”の重要性を説いた。


 そのおかげで、アグネスは話し下手という短所を逆手に取り、聞き上手で微笑みを絶やさない令嬢として、一部の男性から人気を得るまでになる。

 まるでフリージアの花のような柔らかい微笑みだ、と領地に住んでいる農夫は度々口にした。アグネスはアルトゥール王国の女神ヘシュナのように美しいと評判も良かったのである。



 その日は突然やって来た。元々病弱だったアグネスの母カディアは、風邪を悪化させて肺を悪くし、帰らぬ人となってしまったのだ。食事も水分も取れず、熱に浮かされるカディアをアグネスは献身的に看病したが、どうにもならない。

 医者もアグネスもメイドも出来る事は全てやり、手を尽くした結果だ。


 カディアが亡くなった日、アグネスはカディアの傍から離れようとしなかった。朝も昼も寝台に寄り添い、細い肩を震わせて幾度か嗚咽を上げる。メイドが引き離そうとしても、寝台にしがみ付き動かなかった。

 最初は心配していたアグネスの父トリスタンも、アグネスの落ち込みように「いい加減にしなさい」と窘めた程。


 夜も深まる頃、家政婦長であるサネルマの懇切丁寧な説得で、やっとアグネスはカディアの部屋から出た。

 サネルマはこの屋敷で働く者の中で、一番長くキャンベル家に仕えている女性だ。カディアやアグネスの事はもちろん良く知っていて、長年培われてきた洞察力で物事の底まで見通している、と噂される程の人物でもあった。


 そんなサネルマの言う事だから、アグネスも聞く耳を持ったと言える。



 次の日、カディアは四角い箱に入れられて、冷たい地面の下に埋められた。

 トリスタンが墓地に添えた花は、カディアの好きな花ではなかった。


 (父は、母の好きな花を忘れてしまったのかしら)


 そんな疑問がアグネスの心に一点の染みを作る。

 長年連れ添った伴侶に対して、あまりによそよそしいトリスタンの態度は、アグネスに不信感を与えた。そして、夫婦としての愛情はもうないのだと悟ったアグネスは、母の死と同じくらい悲しくなってしまった。



 カディアの死後、アグネスは変わった。


 身なりに気を遣う事もなく、虚ろな目をして怠惰に過ごす。社交界にも一切顔を出さなかった。

 人目に曝される事がない毎日は、アグネスを小汚くする。肌は乾燥し、自慢の蜂蜜色の髪も艶やかさを失った。

 空を映した海色の瞳が曇天色に見えるのは、目の下にできたクマのせいかもしれない。


 服装も丈の長い地味な服を重ね着して、腰回りを引き締めただけの服装に変わった。後姿は平民にさえ見える、と言ったのは年若いメイドだ。


 カディアの葬儀もうに終わり、屋敷を覆っていた“白い”ベールが剥がされ、段々と屋敷の中が以前のような明るさを取り戻した頃。

 やっとアグネスも気持ちを立ち直らせて、一歩を踏み出そうとしていた。


 以前のような陰鬱さはなくなっていたが、長い事放っておいたアグネスの身体は、美しさを取り戻すまで、時間はかかる。

 瑞々しい肌も、髪の艶も、身体の曲線美も、長い時間かけて築き上げられた美しさなのだ。食生活はもちろん、選び取る物や肌に触れる物にさえ、気を遣い続けなければいけない。

 そのようにして手に入れられる貴族の美は当然、一日にして成らず、だ。


 しかし、屋敷で働く人々は、アグネスの美しさが以前のように戻らないと嘆くよりも、前を向いてくれた事に大層喜んでいた。

 人生における大事な転換期が「今」だと言ったのは、家政婦長のサネルマだったか。




 そんな繊細な時期に絶妙なタイミングで、トリスタンは男爵家の未亡人であるシャーリーンとの再婚話を打ち明けた。朝食時に出された野菜スープを、アグネスが口に運ぼうとしていた時の事である。

 立ち直ったばかりのアグネスは背後から頭を叩き割られたような衝撃を受けたが、何とかスプーンを口に入れ、スープを飲み込んだ。


 心臓の音がバクバクと激しくなる中、薄暗い室内と外から聞こえる雨音は、アグネスに味方する。


「再婚って……。そんな話、聞いていません。いつしたのですか?」

「先週だ」

「先週!? ……どうして再婚する前に話してくれなかったのですか?」

「反対するだろう。アグネスはカディアに似て変に意固地だから、部屋に閉じこもられると厄介だ」

「母の……、母の事はもう愛していないのですか?」

「いつまでもその話をするな! 死者は死者だ。私たちはまだ生きているんだぞ! 自由を謳歌して何が悪い!」


 トリスタンはそう言って、最後のスープを飲み干した。

 実父であるトリスタンの言っている事が何一つ分からなかったアグネスは、開きかけた心の扉をそっと閉める。


 その後もトリスタンは、シャーリーンにアグネスより一つ年下の娘がいる事や、今度この屋敷に引っ越してくる事などを報告した。

 耳を疑うような報告と心の中に生まれた怨嗟の声が混ざり合う。それを雨音が掻き消してくれた事で、何とか平静を保っていられた。



 再婚相手とその娘が引っ越してくる日。


 使用人たちは珍しく床をパタパタと歩いていた。

 広い屋敷の通常業務は、分刻みで仕事をしなければ終わらない。それに加え、今日から家族が増えるのだ。使用人は泣き言も言わず、玄関扉と部屋を何往復もし、大小様々な荷物を運び、その傍らいつもの業務をこなしていく。


 そんな慌ただしい中、アグネスは豪奢な玄関扉の前で、父の背後にいる二つの人影を見ていた。

 沸々と生まれる感情を胸に仕舞うには、アグネスの心はあまりに脆く小さい。しかし、何とか挨拶だけはしてみせた。


「アグネス、今日からこの屋敷で一緒に暮らすシャーリーンとその娘のシンシアだ。アグネス、後でシンシアに部屋を案内してあげなさい」

「はい」


 紹介されたシャーリーンはカディアとは違い、派手な女性だった。

 本来なら地味に見える暗褐色の瞳を化粧で目立たせたり、赤毛の髪を鳥の巣のような奇抜な髪型にすることで、派手に見える工夫がしてある。

 華美な服装は露出が多く、再婚という事を抜きにしても歳相応の服装とは言い難かった。


 一方、娘のシンシアはシャーリーンと似ていて、気の強そうな顔立ちをしている。

 シンシアは母親と同じ暗褐色の瞳で、アグネスを十秒程睨み続けた後、アグネスが視線を外すタイミングで勝ち誇った顔をした。


 シンシアみたいな令嬢は意外と多い。

 淑女教育として女学院に通っていたアグネスは、シンシアみたいな傲慢さを持っている勝ち気な令嬢を何人も知っていた。

 水面下での彼女たちは、時に人として行き過ぎた行為をする事がある。陰口を叩き、罪を擦り付け、名誉を傷付けるなどの行為だ。

 それでも、彼女たちの嫌がらせは、女学院に通っている間だけ我慢すれば良かった事だ。シンシアのように、一緒に住む相手となってしまえば別問題だろう。


 アグネスは想像しただけで眩暈がした。シンシアの性格をまだよく知りもしないのに、酷く恐れている。


「あら、随分良いお屋敷ね。ねぇ、トリスタン。約束、覚えているかしら? カディアの宝石や宝飾品、ドレスは貰っても良いのよね?」

「好きにすると良い」

「娘にはまだ早いわ。時期が来たら譲るから、それまでは私のよ」

「あ、お母さまずるーい!」


 シャーリーンは口元に手を当てて、上品とも言えない顔で笑っている。


 アグネスが茫然と突っ立っている間に、トリスタンとシャーリーンは奥の部屋へ行ってしまった。


「何をぼさっとしているの? 早く案内しなさいよ!」

「え、ええ……」

「それにしても、本当にアンタには勿体ないお屋敷ね。そうだ! 私にもこのお屋敷の物を貰う権利があるのよね? お母さまも言っていたし。アンタのおさがりで許してあげるから、宝飾品を寄こしなさい」


 図々しい。そんなたった一言が言えないから、アグネスの心はどんどん弱っていく。言い返したら、きっとシンシアも負けずに言い返すだろう。でも、頷く事はしたくない。アグネスの部屋にある宝飾品や服や調度品などは、母カディアから貰った物がほとんどだ。


 トリスタンはアルセス王国出身で、カディアはアルトゥール王国出身だ。二人は王立学院時代に出会った。隣国から留学生として学びに来ていたカディアに、トリスタンが一目惚れしたのだ。結婚に至った理由は、小手先の技術テクニックを一切使わず押しに押したトリスタンに、カディアが根負けしたから。


 カディアの持ち物は、結婚時に祖国からわざわざ運んで来た物ばかり。運べなかった物は、アルトゥール王国とアルセス王国を行き来する商人から購入し揃えた。


 キャンベル家が一際豪華に見えるのも、アルセス王国にはない珍しい品々が飾ってあるからだろう。アグネスがしている髪飾り一つとっても、アルセス王国の物とは全然違う。華やかで美しい女神、ヘシュナに愛されたと言うに相応しい品々だ。


「シンシアの部屋は二階にあるわ。貴女のためにメイドが部屋を綺麗にしたから、きっと気に入ると思うの」


 アグネスはシンシアの気を逸らそうと必死に話しかける。赤い絨毯が敷いてある大階段を半分まで上がると、何も言わないシンシアを不思議に思い、後ろを振り向いた。


「あ……!」


 一段下の真後ろに立つシンシアに驚いて、思わず声を上げる。


「ねぇ、その髪飾り素敵ね。ちょうだい」


 アグネスが何か言うより先に、一つ段を上ったシンシアが髪飾りに手を伸ばす。


 シンシアがその髪飾りに魅入られてしまったのには、理由があった。空を映した海色の瞳を持つアグネスと同じ色の宝石が使われているのだ。形の良い大粒の宝石が三つ程付いている。値段もそれなりにした筈だが、本当の値段はアグネスも知らない。


 その髪飾りはまだアグネスが小さかった頃、母に欲しいと何度も何度もお願いして貰った大切な物なのだ。『()()()()()()()()()だから、大切に使いなさい』という母の教えを守り、それ以来ずっと使い続けてきた。思い入れがある分、実際の値段以上の価値がある。


 それゆえ、思わずシンシアの手を叩いてしまった。


「酷い! アグネスが私を叩いた!」

「あ……、ごめんなさい。吃驚して思わず……」

「アグネスが意地悪した!」


 周囲の注意を引こうと喚くシンシアに、アグネスは動揺を隠せなかった。

 その隙を狙い、シンシアはアグネスの髪飾りを強引に引き千切った。ブチブチッと髪の毛は抜け、髪飾りにはめ込んである宝石が零れ落ちる。


 落ちていった宝石に向けて伸ばしたアグネスの手をシンシアは力強く引っ張った。


「さようなら、お馬鹿さん」


 もの凄い勢いで頭から階段へ転げ落ちる。聞いた事がない音がして首が曲がった。折れたかもしれない。自分の身体なのにどうする事もできない状態で放り出されて、最後は階段下端にあるローテーブルの脚に頭がぶつかった。

 身体中が擦れて捻じれて痛い筈なのに、どういう訳か痛みを感じない。身体が動かなかった。


「素直に髪飾りを渡さないアンタが悪いのよ」


 息ができなくて苦しむアグネスの耳にそんな声が聞こえてくる。シンシアは階段下まで降りてくると、大きく息を吸った。


「きゃああぁぁ、アグネスお姉さまが階段から落ちてしまったわあぁぁ! 私はただお姉さまの髪飾りを見せてもらいたかっただけなのに、怒ったお姉さまが足を滑らせ真っ逆さま!! 誰か、誰か医者を呼んでええー!!」


 視界は霞んでいるのに、その声だけははっきり聞こえる。


(シンシアは罪を隠すつもりなのね。私が大切にしていた物全てを奪って……)



 そう思うと悔しくて堪らないが、アグネスの意識はもう閉じかけている。

 こちらに向かって駆けてくる足跡を聞いた後、アグネスは目を閉じた。



 ◆



「ねぇ、聞いてる?」


 アグネスの顔を覗き見るのは、シンシアだ。玄関扉の前でシンシアはアグネスがちっとも動かない事に首を傾げ、アグネスに顔を近付けていた。


「ひぃッ!」


 アグネスは思わず後ろに顔を引く。その青ざめたアグネスの顔と様子を見て、シンシアは眉を顰めた。

 シンシアのその怒りの前触れのような顔も恐ろしいのだが、アグネスがより恐れたのは、大階段からアグネスを落として、それを堂々と隠蔽しようとしたその本性だ。

 シンシアの本性は、女学院にいたどの令嬢よりも異質で凶悪で、理解し難いものだった。


 シンシアと目が合わないように、アグネスは空中に視線を彷徨わせる。怯えて逃げ出したい気持ちが支配する中で、今の状況を把握するために、頭をフル回転させた。

 それから、震える両手を持ち上げてそっと首を触る。身体が動く事や息ができる事、外傷の有無を一つ一つ確認すると、アグネスはまた怖くなって唇をぎゅっと噛み締めた。


 (……さっきのは夢だったの?)


 夢だとしたら、あまりにもリアルな白昼夢だ。シンシアの本性などまだ良く知らないが、信じてしまうくらいアグネスには衝撃的な夢だった。しかも、アグネスの身体にはまだ落ちた時の身体の動きや音が感覚として残っている。

 まだ冥府行きの方がマシだと思えた。



「何をぼさっとしているの? 早く案内しなさいよ!」

「……え?」

「それにしても、本当にアンタには勿体ないお屋敷ね。そうだ! 私にもこのお屋敷の物を貰う権利があるのよね? お母さまも言っていたし。アンタのおさがりで許してあげるから、宝飾品を寄こしなさい」


 先程も聞いたその言葉はアグネスに一つの可能性を示し、同時に絶望へと突き落とす。


 (……これは白昼夢なんかじゃない。時間が戻っているのよ)


 理屈では説明できない何らかの力が作用している、とアグネスは考えた。

 普通だったら信じられない事も、この状況下では不思議と信じられた。それに、カディアの祖国、アルトゥール王国には色々な逸話が語り継がれている。不思議な現象が起こる原因の全てが、女神ヘシュナによる力だと言われているのだ。


 まだ幼かった頃、その逸話をカディアから聞いていたアグネスは、わくわくしながらその話に想像を巡らせた。まさか自分が逸話のような摩訶不思議な体験をするなんて、夢にも思わなかったが。


 ただ、今の現象がアルトゥール王国に伝わる逸話と同じ不思議な現象ならば、この後の悲劇は避けなければいけない事は理解できる。同じ事を繰り返す程、アグネスは馬鹿ではないし、強心臓の持ち主でもない。


 アグネスは俯きながらもシンシアに言った。


「貴女の部屋は、大階段を上がって東側、一つ目の部屋よ」


 その後、振り返りもせず大階段を駆け上がると、自室に閉じこもり内鍵をかけた。逃げるが勝ち。

 そんな態度を取れば、シンシアを怒らせてしまう。そんな事は、アグネスにも分かっている。

 今後、シンシアがアグネスに対してもっと酷い仕打ちをする事なども分かっていたが、今のアグネスにはそれしか方法がなかった。


「今日は大人しく部屋にいよう」


 寝台に横たわると、精神的にも肉体的にも疲れてしまったアグネスはひと眠りする。



 ◆



 それから数日後。


 アグネスは度重なる嫌がらせを受けながらも、懸命に日々を生きていた。食事がない日もあれば、でっち上げられた話を父に責められる日もある。あまりの理不尽さに叫び出したくなる時もあったが、何とか耐えていた。


 カディアの物をシャーリーンとシンシアに奪われ、要らない物は容赦なく捨てられる。部屋の中にある物が日に日に無くなる事をトリスタンに告げても、何もしてくれない。そんなトリスタンにアグネスは絶望し、次第に諦観した表情でシャーリーンたちの悪行を飲み込んでいくようになった。


 (メイドだって気付いているのに。シャーリーンとシンシアによる虐めを父が気付いていないだなんて。そんな事って……)


 意地でもお継母さまと呼びたくないアグネスは、涙で敷布を濡らしながら毎日を寂しく過ごす。


 それでも飲み込めない怒りと悲しみは、家政婦長であるサネルマに話を聞いてもらう事で心を落ち着けた。サネルマはアグネスの手をそっと握ると、まるで母親のような優しい笑みを浮かべる。


「アグネスお嬢様、大丈夫ですよ。私からあるじ、トリスタン様にお願いしてみましょうか? それと、シンシアお嬢様にもそれとなく伝えておきましょう」

「ありがとう、サネルマ!」


 今のアグネスにはサネルマだけが頼りだった。年若いメイドはシャーリーンとシンシアを恐れて、アグネスには近寄らない。むしろ、シャーリーン派ではないかと思う時があるくらい、彼女たちは発言権を持つ者に素直だった。


 なぜ年若いメイドたちがシャーリーンやシンシアに媚び、アグネスには冷たくなってしまったのか。理由は三日後に分かった。いつもは近寄らないメイドがその日に限り、親切に教えてくれたのである。

 それを聞いたアグネスはすぐに大階段を駆け下り、玄関扉の前で大荷物を持っているサネルマの元へ駆け付けた。


「やめて、どうしてなの!? 行かないで……」


 サネルマの横にはトリスタンがいた。周りには、カディアが嫁いだ時からずっと一緒だった使用人数名もいる。彼らもまた、アグネスの心強い味方だった。顔を合わせれば挨拶をしてくれたし、表立って庇う事はしなかったが、連係プレーで嫌がらせを緩和させてくれた人たちでもある。


 シャーリーンからの指示で食事が用意されていなかった時は、残り物を夜食としてアグネスの部屋まで持って来てくれた。カディアの物をシャーリーンがゴミ箱に捨てれば、それを拾う係、綺麗に洗う係、保管する係に分かれて、彼らは行動した。


 シャーリーンやシンシアの悪行全部を阻止する事はできなかったが、その気持ちだけでアグネスは救われていたのだ。



「お父さま、どうして皆をクビにしたの!?」

「もう充分働いてくれたし、心機一転してメンバーを入れ替えただけだ」

「お母さまがいた時から仕えてくれた人たちを全員クビだなんて、酷いわ!」

「アグネス! 彼らには新しい仕事場を紹介したり、今までキャンベル家に長年仕えてくれた事への慰労金まで出している。急な事だが、今まで仕事ばかりだった彼らにとっても、思わぬ暇時間ができたと思えば悪い話ではない」


 シャーリーンもシンシアも父も、母の時代からあった「不必要な人や物」を捨て去りたいのだとアグネスは思った。アグネスにとっては大切な人や物であるのに、彼らにはとってはそうではない。


 呆然と立ち尽くしていると、サネルマがやってくる。


「お嬢様、お元気で。心を強く持って生き抜いてくださいね」


 サネルマの後に続いて、屋敷を去る使用人たちもアグネスに別れを告げた。それが終わると、トリスタンに急かされるような形で皆、屋敷を出て行く。

 その後ろ姿をアグネスは黙って見送った。


(父に言っても何も変わらない。それでも……、例えダメだとしても、父に縋って皆を引き留めたい。大声で泣き叫び、我が儘の一つでも言いたいのに……)


 心の中ではそう思っていたアグネスがそれをしなかったのは、大階段上からシンシアが監視しているからだ。アグネスは唇を噛んで、耐えるしかなかった。



 ◆



 アグネスを気遣う使用人がいなくなってから、本格的に虐めは酷くなった。もう誰もアグネスを庇う人はいない。アグネスの自慢の髪も容姿も、随分みすぼらしくなってしまった。


「この屋敷から飛び出して、どこか遠くへ行きたいわ」


 自室に閉じこもり、妄想に浸る。お腹がぐぅと鳴ったが、唾を飲んで我慢する。窓の外を見て、妄想で空腹を満たして、アグネスは星が瞬く世界へ意識だけを飛び立たせた。星空の下で踊る自分の姿を想像する。


「そうだわ。私がここから出て行けばいいのよ。社交界に顔を出し、良いお相手を見つけて、さっさとこの屋敷から逃げてしまえば……」


 デビュタントを終えてからは、一度だけ社交界に顔を出した。家庭教師のアドバイス通りに行動すると、聞き上手で微笑みを絶やさない令嬢として時の人になった事もある。


 姿見を覗き込む。


 今のアグネスの姿は、あの頃の面影すらない。聞き上手と言われた耳は、悪口を聞きたくなくて両手で塞ぐ毎日だ。微笑みを絶やさないと言われた令嬢に、笑みはない。死人のような顔付きをしている。それでも、社交界に出ても恥ずかしくないように努力する事はできる、と自分自身を奮い立たせた。


「父をどうにか説得しないと……」


 小さな胸に希望を灯す。寝台に横になると、アグネスは今後の予定を立てながら眠りについた。





 それから一か月後。


 アグネスは今、夜会に出席している。


 トリスタンに「社交界で結婚相手を探したい」と正直に願い出ると、意外にも快くアグネスの提案は受け入れられた。それには従兄のアルヴィンとシンシアを連れて行く事が条件だったが、アグネスはその条件にむしろほっとした。


 アグネスの読み通り、シンシアの眼はアグネスではなく周りに向いている。今日この時間だけは虐められる事もない。

 シンシアはクルフ公爵家の子息に狙いを定めると、アグネスから離れていった。思わず安堵の溜め息が漏れる。やっと安心して、婚約相手を探す事ができるという訳だ。


 会場内をざっと見渡していると、シンシアの言葉が脳裏を掠めた。


「アグネスが一番目立っているわね」


 会場内に入るや否や、シンシアにそう嫌味を言われた。それはつまり、アグネスが一番みすぼらしいという意味だ。


 アグネスのドレスや装飾品は新品ではなく、使い古しの物を使用している。流行ではないドレスは悪目立ちし、野暮ったく見えた。自信がなさそうな気の弱さを感じる表情も加えると、煌びやかとはとても言い難い。

 素材の美しさもあるにはあるが、今の環境では肌や髪の手入れも満足にはできなかった。しかし、これでも知恵を絞り工夫して、だいぶ見れた姿ものになったのだ。


 隣にいるアルヴィンは、アグネスに対して思う所があったのか、声をかけてくる。


「アグネス、シンシアと何かあった?」

「……いいえ、大丈夫よ。アルヴィンが気にするような事は何も……。ただ新しい環境に慣れなくて」

「そうか、僕が手助けできるような事があれば言って。アグネスのためなら何でもする。僕の気持ち、気付いているよね?」


 そう問われて、素直に頷けるアグネスではない。アルヴィンに対する恋慕の情はなかった。


 (でも、最悪アルヴィンが私を拾ってくれるなら……)


 それ程、アグネスは追い込まれている。

 恋心と屋敷から出ていく事を天秤にかけると、どうしても屋敷から出ていく事に天秤が傾いた。恋心なんてものは、アグネスが平穏に生きていくためには、少しの価値もない。そう切り捨てるしかなかったのだ。


「ありがとう、アルヴィン」

「良かった……。僕とダンスを踊ってくれる?」

「ええ」


 嬉しそうに目を細めて笑うアルヴィンとは対照的に、アグネスの顔はそこまで柔らかくはない。他人の眼が気になり、アグネスはダンスには集中できなかった。

 それでも、二曲ダンスを踊り切ると、久し振りに達成感のようなものを感じ、嬉しくなった。

 

 そんな時間も束の間。アグネスの予想通り、アルヴィンはシンシアに呼ばれて席を外す。


(まさかシンシアは()()()()()()狙ってる?)


 嫌な予感がしたアグネスは、人目を避けるように庭園に出た。薄暗い庭園にぼうっと浮かび上がる花々に癒される。夜会が終わるまで庭園にいようと決めたアグネスは、さらに奥へと進んでいった。


「あ……!」


 思わず手で口を塞ぐ。暗がりに慣れた瞳が、この世のものとは思えない美しさを纏った中性的な人間を捉えた。その人間は花をついばんだかと思うと、花を丸ごと食したのである。


(食用花……。ううん、そんな事よりここから早く離れないと……)


 食用花とはいえ、夜会の最中に庭園で花を食べる人間はどう見ても怪しい。アグネスは離れようとしたが、遅かった。後ろからがっちりと身動きできない力で抱き留められている。


「何で逃げるの?」

「え、いえ、その……。花を食べていたから?」

「これは食用花だよ」

「ええ、知っています。元々はアルトゥールの植物です。貴方も……」

「僕? うん、良く知っているね。僕もアルトゥール人だ。友人に会いに来たんだが、どこの国の夜会もやっぱりつまらない。花を食していた方がマシだ」

「ええと……」


(それには少しだけ賛同できるかも……)


 シンシアに虐められる日々よりも、楽しくもない夜会で適当な結婚相手を探すよりも、花を食していた方がマシだとアグネス自身も言いたかった。


「ふふ、面白い方ですね。でも、その花を食べてしまいたくなる気持ちは分かります」

「あ、やっと笑ったね」


 目を細めて嬉しそうに笑う男性の笑顔に、アグネスは暫し見惚れてしまった。心の奥底でじんじんと熱くなるものが身体を駆け巡り、熱を移していく。


 その熱の正体を知りたいと思ったアグネスは、逃げる事を諦め、その男性と向き合った。


 暗がりでも薄っすら光って見えるアルトゥール人特有の眼は、アグネスのそれと同じだ。長い髪は後ろで纏めているが、そこから金糸のような髪が零れ落ちていて、艶めかしい。社交界用の正装はアルセス王国の落ち着いた服とは違い、華美で暗闇にも映えていた。


 そんな男性と並ぶと、いかに不釣り合いか身に染みるが、アグネスがその男性と話をしてみたいと思ったのは、アグネスを見てみすぼらしいなど等の感情をおくびにも出さなかったからだ。好感が持てた。


 外見で判断しない男性だと判断して、アグネスは気を許して話しかける。


「私も昔はよく、この花を食べていました。美味しくて……」

「アルトゥール王国では、子供のおやつにも出るからね」

「ええ。他にも食用花のサラダの美しさや繊細さは、アルトゥール王国ならではのものです。見て癒され、食べても美味しいなんて、ときめいてしまいます」

「ハハッ、キミは僕よりアルトゥール人みたいだ」

「まぁ、半分は……。ハーフですから」

「ああ、だからか。キミを見てると故郷を思い出す」


 他愛もない話から始まり、アルトゥール王国の話まで話題は広がった。気付けば相手が異性である事も忘れて、古い友人のように話している。


 まだまだ話し足りないアグネスだったが、自分の名を呼ぶシンシアの声がして眉根を下げた。


「私、もう行かなくちゃ……」 

「夜会から庭園に逃げてきたのに、もう行くの? 残念だな」

「…………」

「僕の名は、ウルフラム・エヴァンス。キミは?」

「アグネス・キャンベルと申します」

「また会える?」

「ええ、貴方が諦めない限り……。それでは、また……」


 思わせ振りな事を言ったのは、無にも等しい確率だと知っての気まぐれだった。名残惜しいのはアグネスの方。

 しかし、逃げるようにアグネスはそこから去らなければいけない。シンシアに見つかってしまえば、全部奪われてしまうからだ。


(この夢のようだった時間おもいでだけは、シンシアに奪われたくない)


 耳に這うシンシアの声がアグネスを焦らせる。息を切らしながら、アグネスはシンシアの元へ戻った。



「ごめんなさい、シンシア。庭園の花を見ていたの」

「変なアグネス。社交界に出たいと我が儘を言ったのはアンタなのに、庭園にいたって? ま、いいわ。私、今日は機嫌が良いのよ。近い内に婚約されちゃうかも」

「……そう、良かったわね」


 上機嫌に話すシンシアの声と表情は、屋敷にいる時のそれとはまるで別人のようだったが、それさえもアグネスにとっては好都合だ。

 自分が見初められなくても、シンシアが見初められるのなら、それでいいとアグネスは軽く考えていたのである。



 ◆



 しかし、いくら日にちが経とうとも、シンシアに婚約書が届く事はなかった。その代わり、アグネス宛てにアルヴィンから手紙と婚約書が届く。トリスタンからその事を聞いたアグネスは、胸がざわついて仕方なかった。

 屋敷から逃げ出す口実を手に入れたはずが、不穏の種も同時に手に入れてしまった事に今更ながらに気付いたのだ。


(ああ、これは悪手だったかもしれない)


 シンシアの反応を見てそう思っても、それを覆す策はない。激怒したシンシアを宥める術もなかった。

 クルフ公爵家の子息に見初められなかった事や、シンシアを出し抜いてアグネスが先に婚約書を貰った事。シンシアが腹を立てるには充分な理由は思い付くが、鎮める方法は思い付かない。


 シンシアは子供のように駄々をこね続けたが、トリスタンやシャーリーンは特に反対しなかった。むしろ、厄介者のアグネスを追い出せる理由ができたと喜んでいる。



 その日を境に、シンシアはより強くアグネスに当たり散らすようになった。次の日も次の日もそれは治まる事はなく、むしろ二人の関係は完全に膿んでしまったかのように酷くなる。


「前にくず野菜を食べたのはいつだったかしら?」


 思い出そうにも、十分な栄養が取れていないから頭が働かない。外鍵で扉をロックされているため部屋から出ることは叶わず、筋力は落ちる一方だ。

 一階へ降り、こそこそと食べ物を漁る事も、もうできない。ひもじくて死にそうなのに、タイミング良く『くず野菜入りのスープ』が与えられる。ギリギリで繋がれている命だった。


「痛いっ」


(まだ腫れが……)


 不健康に痩せた右足のくるぶし付近が腫れ、赤くなっていた。少し前にシンシアの足に躓いて、大階段を転げ落ちたのだ。最初の「死」を連想させるその出来事は、数日経っても震えが止まらない程だった。痛みが引く気配もない。


 それでも、目を逸らしてしまいたい現実の中で正気を保っていられるのは、夜会の時のささやかな時間おもいでのおかげだ。婚約書もアグネスの逃げ道としては大いに役立つが、アグネスの心を揺さぶるような事はなかった。


 アグネスはたった一回会い、会話しただけのアルトゥール人のウルフラムに恋とも愛とも言えない複雑な感情を抱いていた。もし、再び会う機会があるのなら、その時にこの感情の名前が分かるのだろうと確信を抱いてはいたが。


(アルヴィンには悪いけど、密かに想わせて……)


 罪悪感のようなものが雪のように積もっていく。しかし、アグネスのように、結婚相手とは別の男性を想いながら結婚をする令嬢は、意外と多かった。


 貴族社会の結婚とは、家と家同士でするものだ。そこに本人の意志は関係ない。アルヴィンがどれだけアグネスに好意を持とうが、婚約書は届かないのだ。両家にとって利をもたらすものでなければ、家長の許可は下りない。


 今回、アグネスに婚約書が届いたのも、家格を見た互いの家長が総合的に判断した結果だ。シンシアではなくアグネスが選ばれたのは、アルヴィンが家長に「アグネスがいい」と願い出たから。「家格が同じなら、どちらの令嬢でも構わない」と二人の家長は、アルヴィンの願いを聞き入れた。


 貴族の令嬢たちが気持ちを押し殺して並んだ列に、アグネスもまた例外なく並び、結婚をする。そこに疑問を持ってしまっては、罪悪感以上の感情に飲まれてしまうだろう。だから、そっと目を瞑るに限るのだ。


 利をもたらす結婚を粛々と……。アグネスはアルヴィンとの結婚を逃げ道だと考えているのだから、もしアルヴィンに愛人ができても、許そうと腹を括った。




 結婚の日取りが決まった日。


 アグネスは部屋の外鍵が外されている事に気付いた。シンシアがメイドに鍵を閉めるよう、指示をし忘れたのだと思い、アグネスは部屋から顔を覗かせる。

 すると、いつもいる見張り役のメイドがいなかった。


(今日は何か予定があったかしら?)


 食べ物を探そうと大階段近くへ行くと、声が聞こえてくる。大階段を挟んで反対側にあるシンシアの部屋から、男女の歓談する声が聞こえた。

 シンシアの声とアグネスが良く知る人物の声だ。引き寄せられるように近付いていくと、パン一個分程の隙間が開いている。


 アグネスはそっと覗いた。


「……酷いのよ。アグネスったら私を虐めるの。あまりに酷いから、今は部屋に外鍵を付けられているわ。軟禁状態って言えば分かるかしら。お父さまが“躾されていない動物”はこうした方が良いって」

「そ、そうか……。勘違いしてごめん。僕はてっきり……」

「あら、嫌だわ。アルヴィンったら、私がそんな野蛮な事するように見える?」

「見えない……。ねぇ、シンシア。少し距離が近いような……?」

「ふふ、当たり前じゃない。私、前からアルヴィンの事……。最後まで言わなくても分かるわよね?」

「積極的な令嬢は、魅力的で好きだよ。キミに触れても良いかな?」

「好きにして……? 私から全てを奪ったアグネスなんだから、アグネスから私を奪っても罰は当たらないわ」

「……ああ、今までキミの魅力に気付かなかったなんて、馬鹿だな僕は」


(うっ…………)


 アグネスは吐き気と眩暈に襲われた。アルヴィンがシンシアに騙されて裏切る場面を見てしまったアグネスは、思い切り顔を歪めその場を離れる。


 昂る感情に呼応して、心臓は激しく音を立てた。悲しくもないのに、涙も溢れ出す。


 シンシアとアルヴィンが婚約者であるアグネスに秘密で口付けをしようとも、アグネスにはそれを止める権利がない。アグネス自身も行動には移していないが、ウルフラムを密かに想う裏切りはしているのだ。


 そもそもアグネスは、アルヴィンの事を異性として見てはいない。屋敷を出る口実を与えてくれたアルヴィンに感謝こそすれ、愛はなかった。だから、アルヴィンがアグネスに内緒で何をしていようとも、お互い様だと自身に言い聞かせていた筈だ。


(だったら、この涙は……)


 思い当たる理由が幾つかある。シンシアの言葉を疑う事なく信じたアルヴィンに失望した涙。それから、簡単にシンシアに絆されたアルヴィンの想いの軽さに嘆いた涙だ。そして、こんなに簡単に流されるような人を逃げ道として、都合よく扱った自身の愚かさに対しての涙でもある。


 アグネス自身、いかに自分が身勝手な考え方をしているか分かっていたが、どこまでも不条理で不平等で、自分と同じくらい身勝手な現実を前にすると、自分の考えだけを改めようとは思えなかった。


 覚束ない足取りで、何とか部屋まで辿り着く。


「ふぅ……、ああっ!」


 足が縺れてバランスを崩すと、アグネスはそのまま前方へ倒れてしまった。衰えた筋力では反射的に受け身が取れず、派手に転ぶ。しかし、尖った鼻先や擦れた顔面、打ち付けた身体が痛いと感じるだけで、死に直結するような怪我はしなかった。

 すぐに起き上がる力はなかったが、少し休めば回復すると判断して、アグネスは目を閉じる。


(疲れたわ……。はしたないけれど、もう少しこのまま……)


 アグネスの記憶はそこで途切れた。



 ◆



 次にアグネスが目を覚ました時には、背景は私室ではなく玄関扉だった。


「ねぇ、聞いてる?」


 それを聞くのは二回目だ。アグネスの顔を覗き込むシンシアを前にしても、アグネスは微動だにしなかった。状況を把握するために頭を働かせて、沈黙を貫く。


(転んだだけで、死んだの……? どうして?)


 結び目がちっとも解けない時のようなもどかしさを感じながら、アグネスは自身の手足を見た。程良く筋力の付いた手足は陶器のように白いが力強さがあり、思う通りに動かせる。弱々しさや儚さなど微塵も感じない。


(栄養も取れていなかったし、筋力も弱っているあの身体では、ただ転んだだけでも引き金となり死んでしまうんだわ。人間って簡単に死ぬのね)


 こんな状況下でなければ知り得なかった事をアグネスは一つ学んだ。込み上げてくる皮肉めいた笑いが喉を突き抜け漏れ出る。


「ねぇ、笑ってないで答えなさいよ! 聞いてるの!?」

「ええ、聞いているわ」


 しかめっ面のシンシアに対し、アグネスは微笑みを添えて淡々と返した。


「何をぼさっとしているの? 早く案内しなさいよ!」

「…………」

「それにしても、本当にアンタには勿体ないお屋敷ね。そうだ! 私にもこのお屋敷の物を貰う権利があるのよね? お母さまも言っていたし。アンタのおさがりで許してあげるから、宝飾品を寄こしなさい」

「部屋の案内は、メイドに頼んで……。私は用事があるから」

「はぁ? ちょっと待ちなさいよ」


 呼び止めるシンシアに背を向けて、アグネスはそそくさと私室へ戻る。内鍵をしっかり閉め背中を向けると、扉にもたれかかった。が、すぐに力が抜けて、身体が崩れ落ちる。床の上で小さく丸まったアグネスの身体は、虚勢から解放されて、微かに震えていた。


 何もしなければ同じように進んでいく。違うアクションを起こせば、未来は変わっていく。それに気付いても、アグネスにはまだ分からない事があった。


 それは、死ぬ度に同じ時間に戻る事。


 あと、何十回、何百回と繰り返せば、このループする摩訶不思議な現象は終わるのか。それとも、終わらせるための条件が別にあるのか。肝心な事は、何一つまだ分かってはいない。


 アルトゥール王国の女神ヘシュナがもたらしたと思われるこの現象は、アグネスに課せられた試練だ。それは断言できる。今まで二回死んだが、いずれも耐えた。ただ、耐え切れはしなかった。


 (それなら、絶えて、躱して、天寿を全うすれば、時間は正常に戻るのでは?)


 そんな根拠のない結論を無理にでも捻り出し、目標を立てなければ、アグネスはもう前を向けない程、弱っている。



 ◆



 それから約一か月半後。


 アグネスは前回と同じ夜会に出席していた。従兄のアルヴィンやシンシアが同行しているのは前回と一緒だが、この夜会に来た目的が違っている。今回はウルフラムに会いたいという明確な理由があった。


 今日までの間、アグネスは前回と同じように三人の悪行に耐えた。いや、躱した方が多いかもしれない。シャーリーンやシンシア、そしてトリスタンの行いは、前回とほぼ同じだ。アグネスが余程、道から外れた行動をしない限り、前回と同じように彼らは動くため、予測がしやすく躱せたと言える。


 しかも、そんな悪行に耐える日々は、今日で一区切りが付く。明日からアグネスは、領地内だが僻地にある別荘で一生涯を過ごす、とトリスタンと約束していた。

 疎ましいと思われるくらいなら、カディアの時代から屋敷に仕えてくれた使用人と共に、自ら姿を消そう、と考えたのだ。

 アグネスは先手を打ち、トリスタンに願い出る。そしてそれは、トリスタンに承諾されたのだ。


(だから、今日は心置きなく夜会を楽しめるわ)


 アグネスの瞳には、シンシアとクルフ公爵家の令息が親し気に話す姿が映っている。隣にいたアルヴィンがアグネスに話しかけてきたが、アグネスは適当に答えて、ダンスの誘いはきっぱり断った。

 断られると思っていなかったアルヴィンは、ぽかんと口を開けて間抜け面を晒している。


 その隙に人目を忍んで、アグネスは庭園へと移動した。奥へ奥へと進んでいくと、花を食すウルフラムの姿が見える。アグネスはその懐かしい姿を取り零さないよう目に焼き付けた。


「……キミも食べる?」

「え!? ええと……」


 前回のアグネスはその場から逃げ去ろうとしたが、今回のアグネスに逃げ出す気はさらさらない。すると、ウルフラムの行動も変わった。

 今、アグネスの胸は高鳴っている。ウルフラムの次の行動が予測できない事が嬉しいのだ。


「これは食用花だよ。蟲が付かない植物だけど、洗った方が令嬢には良いかな……?」

「生野菜は綺麗に洗ってもお腹を壊す事がありますが、この食用花はその心配もなく、アルトゥール人の子供ならそのまま取って食べますね」

「……そうだね。僕も子供の頃はそのまま食べていた。しかし、大人になってそれをすると、付き人が煩くてね。今はその付き人も席を外していていないから、童心に帰って花を食した訳だけど……。この事は秘密にしておいてくれるかな?」

「ふふっ、もちろんです。私にも一つ花をいただけますか?」

「ああ、良いよ。それはそうと、キミはアルトゥール人の血が流れたヘシュナの子だね」


 ウルフラムから差し出された花を受け取ろうとしたが、アグネスはその手を止めた。ウルフラムの言葉が引っかかり、ウルフラムを見上げる。


(確か、アルトゥール人の女性は皆、女神ヘシュナの子供と言われていたかしら……)


「私にも半分、アルトゥール人の血が流れていると気付いたのですか?」

「まぁ、アルトゥール王国に詳しそうだったし、僕と同じ色のそのを見たらね」


 アグネスは納得して、花を受け取った。

 それから、アグネスはウルフラムと話をする。前回とは違う事をアグネスは聞きたがったが、ウルフラムは嫌がる事なく話してくれた。


 ウルフラムが公爵家の子息である事や、留学中でアルセス王国に滞在中である事。今日の夜会でアルセス王国の友人に会うのは、両国の友好を確固たるものにするためでもある事を教えてくれた。

 あまりに退屈だったらしく、挨拶もそこそこに済ませて庭園へ逃げた、というおまけの話付きで。


 ウルフラムの身分が高いとは露知らずに接していたアグネスは、急に恥ずかしくなり俯いた。


(ウルフラム様の気分を害していないと良いけれど……)


「そんな難しい顔しないで。僕が何者であろうと、気軽に話して欲しい」

「は、はい」


 ウルフラムはアグネスの表情を読んだような言葉がけをした。その瞬間、アグネスとウルフラムの間には、蜜よりも甘い空気が漂い始める。惹かれ合うように互いを見つめるが、シンシアの声がするとアグネスは我に返った。

 名残惜しそうにウルフラムから離れると、泣きそうな顔でウルフラムに別れを告げる。


「私、もう行かなくちゃ……」 

「夜会から庭園に逃げてきたのに、もう行くの? 残念だな」

「また、どこかでお会いできると良いですね、ウルフラム・エヴァンス様」

「……どうして僕の名前を?」

「さようなら。楽しい時間をありがとう」


 ウルフラムの言葉に応える事もせず、アグネスは背中を向けて走り出した。ウルフラムの言葉が遠ざかり、もう何を言っているのか分からない。


(最後の最後に、失礼な事をしてしまったけれど……。もう会う事もない)


 滲み出る涙をそっと手で押さえて、息を整える。


「ごめんなさい、シンシア。庭園の花を見ていたの」

「変なアグネス。社交界に出たいと我が儘を言ったのはアンタなのに。庭園にいたですって? ま、いいわ。私、今日は機嫌が良いのよ。近い内に婚約されちゃうかも」

「……そう、良かったわね」


 再び社交の舞台に戻ったアグネスは、シンシアの指示通り、付き人のように後ろをついていく。アグネスの隣にシンシアが立つ事で、よりシンシアの華やかさが引き立つと思われている事をアグネスは分かっていた。が、これも今日で最後だと思うと心が軽い。



 ◆



 それから十年も月日は流れた。


 孤独な僻地で、今日もアグネスはひっそりと暮らしている。不自由な暮らしではあったが、生きるための食料はあった。

 気候が崩れると僻地にあるこの場所に食料が届かない事もあるが、アグネスも使用人と同じように働く。保存食を作り、自給自足の生活をして、時にアルトゥール王国の知恵を使い窮地を脱した。


 そんな貴重な経験は、アグネスを肉体的にも精神的にも逞しくする。信頼のおける使用人たちと共に過ごせる事が何より嬉しくて、それが心の薬になったのだ。


 たまにシャーリーンとシンシアが嫌味を言いに来る事はあるが、一週間くらい泊まるとあまりの不自由さに滞在期間を縮めて逃げて行くので、アグネスにはありがたい環境だった。


 そんな中、たまにウルフラムを想う。


「きっと、もう別の人と結婚しているわね」


 保存食を棚に並べながら、アグネスはそう呟いた。


 ウルフラムから最後の手紙が届いたのは、もう八年も前の事だ。「気持ちが残っているなら、一週間後に開催されるクルフ公爵家の夜会に顔を出して欲しい」と綴られた手紙が来た。まるで、ラブレターのような手紙はアグネスの頬を真っ赤に染めたが、アグネスがその誘いに乗る事はなかった。


 表舞台に顔を出すという事は、シャーリーンやシンシアの怒りに触れる可能性があるという事だ。もうアグネスにはそんな恐ろしい事をする勇気がない。だから、最後の最後までアグネスは礼儀知らずな令嬢を貫いた。


 手紙の返事を書く事はしなかった。どこまでもウルフラムに背を向けた。



 そんなある日、一通の手紙が届く。


「誰かしら? 名前が書いていないわ」

「この手紙を持ってきた使用人と思われる男性も、名乗る事はありませんでした。ですが、何か事情を抱えておられるようでしたので、取り次いだ次第です。お嬢様、どうぞ中身のご確認を」


 サネルマはそう言うとペーパーナイフで封を切り、中身をアグネスに手渡した。アグネスが手紙を確認する。


 (これは、アンドレアス・ブラウン男爵家の使用人が書いた手紙だわ)


 『アンドレアス・ブラウン』という名は、アグネスにも聞いた事があった。シャーリーンの亡き夫がそのような名前だったと、朧気ながらに思い出す。


「で、お嬢様。手紙の内容はいかがでしたか?」

「アンドレアス・ブラウン家に仕えている使用人の独白、とも言える手紙ね」

「独白ですか。良心の呵責に苛まれるような事でも起こったのでしょうかね?」

「そうみたい……。ブラウン男爵の死は、仕組まれた死だと書いてあるから」

「それは物騒ですね。一体誰に仕組まれたと書いてありましたか?」

「シャーリーンよ」

「それは……、大事おおごとですね」


 サネルマは身震いして、両腕を擦った。


「シャーリーンは、心優しいブラウン男爵に暴言を吐き、我が儘を言い、散財させ、矜持を踏み躙ったと書いてあるの。具体的にどういう事かしら?」

「具体的に書いていないのは、ブラウン男爵様の名誉を守っての事でしょう」

「これは、信じても良いと思う? 貴族社会において、女性が男性を虐げるなど考えにくいわ」

「もし、シャーリーン様のこの行いをシンシア様が見ていたとしたら、シンシア様がお嬢様に対してこのような振る舞いをするのにも納得がいきます」

「サネルマ……、仕事以外の用事を頼まれてくれるかしら……?」

「今更、遠慮はいりませんよ。このサネルマ、一度ブラウン家に足を運び、事情を聞いてきましょう」

「ありがとう」


 それからアグネスは真相を探るべく、サネルマに暇時間を与えた。表向きは暇時間だが、実際にはお使いだ。サネルマはアグネスの書いた手紙の返事と共に、何日もかけてこの僻地の別荘とブラウン家を往復する事になった。



 ◇



 サネルマの報告を待つ間にも天候は崩れ、吹雪く日が続く。最初は元気だったアグネスの身体も、次第に寒さで冷えていった。ついには風邪をひき、アグネスは高熱を出してしまう。風がおさまり、雪が溶けて、陽が射し込んでも、アグネスの熱は下がらなかった。


(胸が痛い。呼吸が苦しい。まるで死ぬ前の母のよう……)


 すっかり気が弱くなってしまったアグネスの頭は、幾度となく死が過ぎる。

 そんな時、死神が別荘を訪れた。


「いけません、シンシア様。お嬢様の体調は悪く、とても面会できる状況では……」

「あら、死にそうなの? それなら最後くらい看取ってあげなくちゃ」


 使用人の止める声も虚しく、シンシアはアグネスの部屋の扉を開けて、ずかずかとやって来た。


「顔色悪いわね。死んでいくアンタに向けて、二つ報告があるわ」

「ハァハァ……。それ……は、な…………に……?」

「私の父は、アンドレアス・ブラウンなんかじゃないのよ。私の父は、アンタと同じ。トリスタン・キャンベルよ」

「え……?」


(嘘よ、じゃあずっと前から父は母を裏切っていたの?)


「私は異母妹って事。だから、もちろん私とお母さまにはキャンベル家の物を貰う権利がある」

「……ゴホゴホッ…………ッハァ」

「汚い咳ね……。それからもう一つ、私とお母さまの事を嗅ぎ回っているねずみがいるみたいだけど、迷惑よ。ほら、鼠って病気や菌を持っていそうだし、処分するに限ると思わない?」


(待って、処分……? まさかサネルマを……!?)


 アグネスは何とか伸ばした手で、シンシアのスカートを掴んだ。


「やめて、汚らわしい!」


 すぐに叩かれてしまったが、アグネスの眼はシンシアから離さない。


「サネルマも……ブラウン男爵……様と……ゴホゴホッ……ハァ。同じように……殺し……た?」

「何の証拠もない。言いがかりよ」

「私は……もう死ぬ……わ…………。せめて、最後くらい……本当の事を……言いなさい!」


 アグネスは力を振り絞り上半身を起こすと、シンシアの腕に手跡が付くくらいの力で掴む。アグネスの形相を見たシンシアの顔が恐怖で歪んだ。


「あ……ああっ、離して、離してよ! 気持ち悪い!」


(離すものですか! 死人にはもう話す事も、涙を流す事もできないの。その人たちのためにも、私は……)


「ああ、もう! 言うから! アンドレアス・ブラウンは事故死よ。確かにお母さまが毎日つらく当たり散らしていたけど、直接手は下していない。勝手に弱って死んだのよ。サネルマには「手を引かないと、大事な人に危害を加える」と言って、脅したわ。だって、使用人如きが貴族の過去を嗅ぎ回るなんて、可笑しいでしょ?」


 安堵した瞬間、アグネスの感覚が閉じていく。

 シンシアはまだ何かを話していたが、アグネスの身体にはもう力が入らなかった。最後にか細い咳をして、アグネスは目を閉じる。



 それから二日後、アグネスは奇跡的に意識を取り戻した。メイドの献身的な看病と医者の的確な指示、またアグネスの生命力により、一命をとりとめたのである。


 サネルマもその後、無事に戻ってきた。「シャーリーン様が雇ったと思われるならず者の脅しにより、真相は掴めませんでした」と申し訳なさそうにサネルマは言ったが、むしろアグネスはサネルマの無事を喜んだ。


 それ以来、アグネスはこの別荘で一際大人しく過ごす。アンドレアス・ブラウンの死を明確にする事はせず、使用人たちと一緒に余生を過ごした。サネルマ含め、アグネスよりも一回り年上の使用人は早々に引退したが、彼らの仕事を若い者が引き継いだ。


 そうした中で、アグネス・キャンベルは天寿を全うした。病気も怪我もなく、ただ食欲が落ち、寝る時間が多くなったアグネスの生涯は、享年四十五歳で幕を閉じる。アルセス王国では長生きした方であった。



 ◆◆



「ねぇ、聞いてる?」


 三度目のそれを聞くや否や、アグネスの脆い部分が鉄のように固まった。


(天寿を全うしても、ダメだった。時間は戻り、繰り返す。それなら私は……)


「ちょっと、アグネス。どこへ行くのよ!?」


 シンシアの声を無視して、アグネスは外へ出た。目と鼻の先にある厩舎に向かって走る。アグネスの愛馬はロードと言う名前で、見事な青鹿毛あおかげだった。まだカディアが生きていた時にアグネスに与えられた牝馬だ。トリスタンは「女が馬を扱うなどはしたない!」と吐き捨てたが、馬を与えたカディアは「やがて時代は動くわ」と笑い流した。


 病弱なカディアでさえ、幼い頃は馬に乗った。


 この時代、確かに女性が馬に乗る事は“はしたない”事だと思われていたが、カディアやアグネスみたいな例外は一定数いる。馬を手懐け、馬を乗りこなし、騎乗熱に突き動かされた自由を夢見る女性たちが――――。


 アグネスも社交性はあまりないが、根はカディアと似て負けず嫌いなのだ。


 シャーリーンやシンシアに繰り返し踏み躙られていた心の弱い部分ばかりが目立って、アグネス自身もそれをすっかり忘れていた。本来の自分は逆境を乗り越える力があった事を……。


「もう、耐えない!」


 馬丁に頼み、愛馬にサイドサドルを付けてもらう。またがる必要もなく、ロングスカートのまま騎乗できるサイドサドルに腰かけると、アグネスは教会を目指した。

 自然豊かな風景が流れる。整備があまりされていない土の上を馬と一体になって駆けると、自由な身であると肌で感じた。


 教会に着くとアグネスは裏側に回り、壁にある馬をつなぐ道具に紐をかける。ロードを優しく撫でた後、表側にある重々しい教会の扉を開け放った。

 祭壇に向かって歩くアグネスの肉体は、怒りで滾っている。



「私はあの人たちを許さない」 


 アグネスは思いのままに叫んだ。


「私は三回も耐えたのよ。でも、アルセス王国の神は私を救わなかった。いつも私に試練を与え、チャンスを与えてくれたのはアルトゥール王国の女神、ヘシュナよ……」


 静まり返った教会にアグネスの声が響く。


「祈りは捧げない。加護も求めない。だから、私に何もしなかったように、最後まで手出しはしないで。あの人たちの性根を叩き直すまでは!」


 そこまで言い切ると、アグネスの背後から拍手が飛んできた。神の怒りに触れたと思ったアグネスは、ビクッと肩を震わせて振り返る。視線の先に見える人影を見てもう一度肩を揺らし、目を瞬かせた。


(信じられない……。どうして? 何が起こっているの?)


 疑問符だらけの頭を抱えながら、アグネスはその場に立ち尽くした。



 ◆



 アグネスが教会から帰ってきたのは日が傾いた頃だった。教会で強力なパートナーを得たアグネスの地盤は、付け入る隙がない程、頑丈になった。だが、それに気付かないトリスタンは、アグネスの事情も聞かずに怒号を浴びせる。


「部屋にシンシアを案内しろと言った筈だ! どこへ行っていた?」

愛馬ロードに乗って、教会へ……」

「ハッ、私の言葉まで分からなくなったか? しかも、女が馬を使うなど、はしたないと前にも言った筈だ。暫く外出は禁止する。罰として部屋から出るな。伯爵家の令嬢が正気でないと知れたら、外聞が悪い」

「……はい」


 これは始まりだった。過去と同じ、許しがたい悪の所業の始まり。


 耳が痛くなる暴言の数々を聞いた後、アグネスは私室へ入った。扉を閉める時に聞こえた声は、トリスタンがアグネスの部屋に外鍵を付けるようメイドに指示をしていた声だ。

 だが、アグネスが気にしていたのはそんな事ではない。


(どうしてこんなにも、運命が変わったのかしら……? 説明されても、いまだに信じられない。もう耐えないと誓った途端、女神ヘシュナが最後の審判を下したというの?)


 身体の奥から零れた熱が頬に移る。姿見を映した自分の姿を確認すると、アグネスは気合を入れ直した。これからやる事はたくさんあるのだ。




 それから数十日間、アグネスは忙しい毎日を過ごした。

 まず、カディアの遺品や大事な私物を盗られたり捨てられないようにするために、アグネスは手を打った。


「サネルマ、母の時代から仕えてくれている使用人たちだけに、今から言う事を徹底させて欲しいわ」

「それは何でしょう? お嬢様」

「私の大事にしている私物と母の遺品を皆で協力して、ここに届けて欲しいの。もちろん、父やシャーリーン、シンシア、それからまだここに来て日の浅い使用人には内緒で」


 アグネスは場所が書かれた紙切れをサネルマに渡した。その紙切れを受け取ったサネルマは、物事を見通すような目付きで紙切れを見つめる。


「シャーリーン様やシンシア様は欺けましょう。しかし、わたくしたちは主であるトリスタン様にお給金をいただいている身分です。トリスタン様に言われたら、正直にお答えせねばなりません」

「私はただ……、シャーリーンやシンシアに私の大事な物を盗られたり捨てられたりしたくないのよ。もちろん、あなたたちも」

「トリスタン様は私たちを見捨てると仰りたいのですか? お嬢様」

「ええ、そうよ」


 アグネスがそう言い切っても、サネルマの表情は変わらない。


「薄々、そのような気がしておりました」

「もし、サネルマたちがクビになっても、父の言う事は聞かないで」

「と言いますと?」

「父はきっと新しい職場を紹介したり、慰労金を出すと言って、クビにするわ。でも、それは悪夢の始まり。新しい職場は今よりもずっと少ないお給金で、キツイ仕事よ」

「どうして分かるのです?」

「私には半分、アルトゥール人の血が混じってる。それに、女神ヘシュナによって引き合わせられたパートナーが付いているの。それで情報を……」

「まあ、それは素敵ですね」


 アグネスは良い淀んだが、サネルマはそんなアグネスを見てにっこり笑った。


「カディア様もよく言っておられました。アルトゥール人により心を込めて作られた品は、稀に女神ヘシュナの神力が宿っていると。その神力の効果は摩訶不思議な運命を引き寄せたり、人を試したりするそうです。お嬢様のその髪飾りもその類だったのでしょうかね」

「それは……、分からないけれど……」

「このサネルマ、カディア様時代から仕えている使用人にも声をかけ、お嬢様を助けましょう」

「ありがとう。もし仕事をクビになっても、皆の居場所は()()()が用意するわ」

「ふふ、それは心強いですね」


 アグネスの言葉はサネルマへ、サネルマの言葉はカディア時代から働く使用人たちへと伝わった。

 使用人たちは、なるべく目立たないように物を運ぶ。彼らはなるべくアグネスとの接触を控え、どうしても必要な接触は秘密裏に行った。


 アグネスやサネルマたちが水面下で忙しくなると、どういう訳かトリスタンやシャーリーンやシンシアの外出も多くなる。

 その隙を狙ったように、タイミング良く荷馬車が門へやって来た。サネルマが年若く日の浅いメイドたちに仕事を与え、忙しくさせてる内に、仲間の使用人とアグネスはその荷馬車に荷物をこっそり載せた。


 カディアやアグネスの物は次第に屋敷から荷馬車へ移されていくが、物が減った感じはしない。シャーリーンやシンシアは外出する度にドレスや宝飾品を買うので、屋敷は物で溢れている。数日経っても気付かれる事はなかった。


 しかし、屋敷の中にあったアルトゥール王国の品々やカディアが愛用していた遺品が半分も消えると、アルセス王国色が一気に強くなり、屋敷の雰囲気ががらりと変わる。

 最初の内は誤魔化せていたが、さすがのシャーリーンやシンシアも異変に気付き、野太い声で囀り回った。


「ちょっと、私が気に入っていたカディアのドレス、どこいったのよ?」

「アグネスから()()()宝飾品がないわ! きっとメイドが盗んだのよ! お父さまに言い付けてやるんだから」


 シャーリーンやシンシアが異変に気付き騒ぎ立てると、すぐにトリスタンにも伝わった。怒りに戦慄わななくトリスタンが取った行動は一つ。

 アグネスとサネルマを呼び、横柄な態度で圧力をかけた。


「この屋敷の物は誰の物だ? この広大な領地を治めているのは誰だ? 私だよな、アグネス」


 トリスタンは挑発的な言葉をかけたが、アグネスは口を固く結んでいる。


「私の許可なく屋敷の物をどこへ隠した? それとも使用人をたらし込み、盗ませたのか? 本当に卑しい奴だな」


 アグネスがだんまりを決め込むので、痺れを切らしたトリスタンは片足で力強く地面を蹴る。その瞬間、空気にも緊張感が伝わり、時間が止まったように凍り付いた。



 ピィキィィィ――――……。



 悲し気な鷹の鳴き声が部屋の中まで聞こえてくると、窓の外を見ていたアグネスの眼がトリスタンへ向く。憐憫の眼差しでトリスタンを一瞥すると、アグネスは口角を上げてふっと笑った。


 慌てた様子で、メイドがドアを叩く。


「お取込み中、申し訳ありません。クルフ公爵閣下がお見えになられました」

「何!?」

「どうなさいますか?」

「お通ししろ。チッ、こんな時に……。用件は?」

「それがその……。あ、クルフ公爵閣下、おまちください!」


『入るぞ』


 トリスタンと同年代のクルフ公爵が執事を連れて、一切の遠慮なしに部屋に入ってくる。公爵は髪を後ろに撫で付けた髪型で、精悍な顔をした背の高い男だった。



「お、お急ぎの要件ですか? 閣下」

「いや、暇潰しに隣の領地を視察しようと思ってな。ついでに雷を落としてやろう」

「なっ!」

「驚く事でもないと思うが? お前もやっているだろう。実の娘と使用人に……フンッ」


 トリスタンの顔が青ざめる。


「誤解があるようだが、これは躾だ!」

「相変わらず嘘が下手だな、トリスタン。まあいい、連れてこい」


 クルフ公爵は自分の執事にそう指示をすると、ソファに勢いよく座った。アグネスに座るよう顎で指示をする。

 アグネスは素直に座り、サネルマは使用人という立場をわきまえて、アグネスの後方に控えた。


 クルフ公爵の執事がシャーリーンとシンシアを連れてくる。文句をグダグダ言う二人に対し、公爵の執事は毅然とした態度で「黙ってください」と一言告げる。その後も睨むような視線で二人に圧力をかけ、口を封じていた。


 シャーリーンとシンシアが仕方なくソファに腰かけると、トリスタンも続いて座る。


「さて、面白い話をしてやろう。アンドレアス・ブラウン男爵という憐れな男の話をな」

「「なっ!」」


 シャーリーンとトリスタンの声が重なった。


(どういうこと? シャーリーンだけでなく、父も反応した!? 真相を知っていたの?)


 今の状況は、教会で打ち合わせした通りに事が運んでいる。だが、それでもアグネスにはまだ知らない真相があった。

 アグネスはクルフ公爵の言葉に耳を傾ける。


「シャーリーン、お前のした事は許しがたい事だ。アンドレアスは俺と付き合いの深い男だった。そんな男の死因が()()で正しいかどうか調べて欲しいと()()()から頼まれた時、眉唾な話だと思った。その情報元がこれまた若いアグネス嬢だったからな!」


「「「え……!」」」


 今度はトリスタン、シャーリーン、シンシアの声が重なった。


「アグネス、どうして知っている? いや、どこまで知って……」

「シンシアが異母妹という事も知っています」

「……まさか、カディアも知っていたのか?」

「それは分かりません。ですが、母は恨んでいるでしょうね」


(本当なら、私は大階段から落ちて死んでいる身……。私が過去をやり直せているのも、母のおかげでもあるわ)


 アグネスの視線は氷のように冷たい。


「領地内の揉め事は領主が裁く。だが、領主自身の揉め事はどうする? 特権を持つ俺が代わりに裁いてやろうか。公平性を期すためにな」

「……異論は、ない」


 表情に悔しさを滲ませるも、トリスタンはクルフ公爵にそう言わざるを得ない。


 トリスタンが経営する領地はクルフ公爵が経営する領地と接していて、その半分が公爵領に囲まれている。領主である彼は警戒心が強く、隣接している領地にも目を光らせている男だった。何か事件が起きれば、遅かれ早かれ彼の耳に入る。

 不都合なことが知られれば、ここぞとばかりに特権を使い、手も口も出す審判者のような男だ。


 しかも、保有する領土を含めた資産の総額は、アルセス王国のそれより多く、また王家と強い繋がりを持っている公爵家は、伯爵家よりも立場が格段に上。

 当然、トリスタンに拒否権はない。


「アンドレアスの死は、私もずっと気にしていたが……。情けない事に、友の死を受け入れられずにぼんやりと過ごしていたのだ。真相というものがあるなら、ぜひ暴きたい」

「そういう事でしたら、何も疑わしい事などありませんわ。確かに私は貴族の令嬢としての誇りと矜持を保つために、それなりの我が儘をアンドレアスに言いましたけど」


 シャーリーンの振る舞いは堂々たるものだ。トリスタンは俯いているが、シャーリーンには事実を偽るくらいの余裕がある。


「ああ、俺もその時はそう思っていたさ。友人からそれを聞くまではな」


 クルフ公爵はそう言うと、アグネスの方を見た。


「ええ、確かにその話を()()()()()()()()()()に教えたのは私です。使用人が真実を知っています。閣下がここに来たという事は、その裏付けが取れたという事ですか?」

「ああ、簡単にな」

「ちょっと待て。それでアンドレアスの死が解明された訳だとしても、何の罪になると言うんだ!」


 トリスタンが口を挟む。


「何の罪だろうな、名前を付けるなら……。シャーリーンは日頃からアンドレアスを罵り、散財させ、矜持を踏み躙っていたそうだ」

「大げさだ。そのくらい貴族なら皆、よくある事だろう」

「同じ貴族に対してもか? それにシャーリーンは、アンドレアスの食事に少量の毒を入れ続けていたらしいな。その毒を彼女に手渡したのは、お前だそうだ。トリスタン?」


 クルフ公爵の言葉にサネルマや執事だけでなく、アグネスも顔色を変えなかった。三人の腐った性根は嫌という程、アグネスは知っている。今更、驚かない。


「それなら、()()()()()の罪は貴族としての尊厳を奪った罪と、毒殺したという罪ですわね」


 初めてお継母さまと呼んだアグネスは、ふわりとした微笑みを浮かべて言った。


「そうだな。トリスタンの罪は、殺人を幇助ほうじょした罪だ。それから、アグネスへの虐待及びそれを黙認した罪、いや、助長させた罪か?」

「そんな罪名、聞いた事がない」

「今考えたからな」

「そもそも、私もトリスタンもそんな殺人まがいの事、していないわ! 嘘よ! 誰が証言したか言ってみなさいよ! どうせ卑しい使用人でしょう。貴族でもない者の言葉なんて、信憑性がないわ。大体、私は悪くない!」


 シャーリーンの喚き方は、シンシアにそっくりだった。いや、シンシアがシャーリーンの振る舞いを見て、学んだのだ。「この親にしてこの子あり」とはまさにシャーリーンたちのための言葉だ。


 クルフ公爵は深い溜め息を吐いた。それを見たアグネスが私感を伝える。


「あの……、お継母さまは嘘がバレそうになると、口がよく回るように思います。逆に、父は無口になり顔が真っ青になる……」

「なる程……、アグネス嬢はよく人を見ているな。トリスタンとシャーリーン、お前たちは自分のした事を誰にも見られていないと思っていたようだが、異変に気付いていた使用人は多い。俺はアグネス嬢を始めとするその者たちの言葉を信じる」

「あ、ありがたく存じます」


 アグネスがクルフ公爵に向けて頭を下げる。娘に向けるような優しい表情で、公爵は頷いた。それから一変。トリスタンたちには冷酷無比な表情で睨み付ける。観念したようにトリスタンは項垂れ、シャーリーンは子供のようにギシギシと爪を噛んだ。




「ねぇ、私は罰を受けるような事は、まだ何もしていないわよ」


 今まで黙っていたシンシアがとぼけた声を上げる。両親がそんな状況に追い込まれても、シンシア自身はダメージを受けていないのか、余裕があった。


「……まだ何も? 母の遺品や私の物を奪っておいて? 被害がこの程度で済んでいるのは、私が手を打ったからよ」

「あら、()()()()()()だけじゃない。アグネスお姉さま?」

「物は言いようね。私は満足にご飯を与えてもらえない事もあったのに……。荷馬車で大事な物を運び出し、保管先を変えて本当に良かったわ」

「一々大げさね。それと、お父さまの実の娘であるのは、私も同じよ。だから、私の物でもあるのよね。さっさと物を屋敷に戻して」

「それだけじゃない。私もブラウン男爵と同じ、尊厳を奪われた身よ。シンシアに足を引っかけられて捻った右足は、まだ治っていないの。貴女は私を殺しかけた」


 アグネスがクルフにくるぶしをそっと見せる。


「酷いな、腫れているじゃないか」

「私もその様子を見ていましたよ。あれは偶然ではありません。シンシア様は故意に足をアグネス様の前に出しました」


 サネルマがアグネスを擁護した。


「……ふん、うるさいわね。わざとじゃないってば! アグネスの息がかかった使用人の言う事なんて、信じるに値しないわ」


 シンシアはシャーリーンのように振舞う。


(シンシアの本性は恐ろしいわ。この怪我だって、わざと躱さなかった訳じゃない……)


 過去を繰り返す事で、シンシアの行動パターンを読めていたアグネスだが、シンシアの攻撃を()()()()()ため、シンシアの反感を買ってしまったのだ。

 そのため、シンシアは早い段階から残虐な本性を現わした。


 アグネスが大階段前を通る時を狙い、シンシアはアグネスの足を引っかけて転ばせる。その攻撃は注意深く見ていないと分からない程、さりげないやり方だ。


 シンシアによる嫌がらせが「物を奪う」程度の攻撃だったため、アグネスはすっかり気を抜いていた。やるべき事に頭を働かせていて、シンシアの残虐性をはかり間違えたのもある。

 結果、死を連想させる大階段からの転落をやり直し前も含め、三回もする事になったのだ。


(言い逃れは許さない。大階段で転げ落ちた事を思い出せば、未だに手は震えて……)



 ピィキィィィ――――……。



 アグネスは両手をぎゅっと握りしめ、窓の外を見た。

 同時に、メイドが扉を叩く。


「あの、トリスタン様。もう一人お客様がお見えです……」

「取り込み中だ、待っててもらえ」

「それが、その……」

「待っててもらえと言っ――……」


『悪いけど、僕はもう()()()()よ』


 爽やかな笑顔と不釣り合いな鋭い双眸に、トリスタンは押し黙った。その様子を見て、クルフ公爵はくつくつと笑う。


「誰だ、お前は……?」

「ウルフラム・エヴァンスだ」

「ウルフラム?」


 アグネスはそっと席を立ち、ウルフラムが隣に来るのを待った。ウルフラムがアグネスを見付けると、顔を綻ばせて近付いていく。


「密偵がマシューに合図を送ったのを見てすぐに来たんだけど、クルフ公爵の方が先に着いたみたいだね。遅くなってごめん」

「いいえ、お待ちしておりました」


 アグネスとウルフラムは数秒間見つめ合った後、着席した。

 ウルフラムの品の良さそうな姿を見たシンシアが目を輝かせて、アグネスにつめ寄る。


「ねぇ、お姉さま。ウルフラム様について、もう少し詳しい紹介をしてくれない?」

「……ええ、もちろん。ウルフラム様はアルトゥール王国出身で、公爵家のご子息です。留学中のためアルセス王国に来たそうよ」

「へぇ、むしろいつ出会ったのよ。社交界にもずっと顔を出していないお姉さまがいつ他国の公爵家と出会う機会が? ずっと屋敷にこもっていて、そんな時間もないのに?」

「ええと……」


(困ったわ、それは考えてなかった)


 返答に思いあぐねたアグネスが目線を泳がせていると、ウルフラムが代弁し始めた。


「僕がアグネスを知っていた。前に彼女を見た事があってね。もう二度と会えないと思っていたけど、この前教会を訪れたら偶然にもまた会えたんだ。その時はじっくり話もした」

「ふぅん」

「それから、彼女にはまだ伝えていないけど、僕はアグネスに結婚を申し込むつもりだ」


 眉間にシワを寄せたシンシアの顔がさらに酷くなった。


「ちょっと、意味が分からないわ! 何で隣国の公爵家子息が、貧相で魅力もないアグネスを選ぶのよ! 私の方が相応しいと思うけど?」

『馬鹿が……』


 ウルフラムがボソッと呟く。


「僕の眼にはアグネスしか映っていないよ。虫ケラとは話したくもない……」

「虫ケラ? それって私の事?」

「ああ」


 シンシアは絶句した。ウルフラムの言葉もショックだったが、それ以上にウルフラムが虫も殺さないような笑顔でその言葉を言った事に、シンシアは心を抉られた。怒りに唇を震わせる。


「な、何よアンタ……。隣国の公爵家子息だか何だか知らないけど、失礼だわ! さっさとこいつを追い出して!」


 シンシアはウルフラムを指差して、メイドを呼び付けようとした。

 すると、それまでずっとくつくつと笑っていたクルフ公爵の笑いが、ぴたりと止まる。


「シンシア嬢、それはやめておいた方が良い」

「止めても無駄よ! お父さまもお母さまも、黙っていないで何か言い返して! 私の事を悪く言われているのよ!」


 シャーリーンは自分の事で頭がいっぱいなのか、爪をガリガリ噛んで上の空だ。トリスタンは辛うじて正気を保っていたが、ブツブツと何かを言っていた。

 それを見たシンシアは癇癪かんしゃくを起こし、暴れ出す。クルフの執事がそれを素早く取り押さえた。


 丁度時間が作れたとばかりに、ウルフラムがアグネスの耳元でこそっと話をし始める。


「アグネス、教会で話した時から今日までの間、この三人にされた事を全部教えて欲しい」

「はい、ウルフラム様」


 異様な光景の中で、アグネスとウルフラムは淡々と話を進めていく。何度かウルフラムの顔に苦痛の表情が刻まれたが、アグネスは自分の事を他人事のように報告した。


「証拠や証言を掴むのに時間がかかってしまった。本当にすまない」

「いいえ、今の状況は私にとって幸運そのものです。教会でウルフラム様に出会ってから、私はずっと救われています」

「この前も言ったけど、最後まで手伝わせて欲しい」

「はい、喜んで」


 アグネスとウルフラムの話す内容が少しだけ聞こえたのか、シンシアが足を踏み鳴らした。


「アグネスなんて嫌い! 死んじゃえ!」


 シンシアの口から言ってはいけない言葉が吐き出される。その瞬間、ウルフラムとクルフ公爵が勢いよく立ち上がったが、それよりも先に動いたのはトリスタンだった。

 愛娘シンシアの頬を思い切り引っ叩く。


「お父……さま、何で? アグネスじゃなくて、私を叩いた?」

「落ち着け、シンシア。この男は公爵家の子息なんかじゃない。ウルフラム・エヴァンス王太子だ。アルトゥール王国のな」

「へ? う、そ……」

「私も先程、その名を思い出した。私が叩かなければ、お前は王太子が結婚しようとしているアグネス(相手)を侮辱し続けていたのだぞ。それがどういう意味か分かるか?」

「あ、何で、本当に? 王太……子……?」

「侮辱が止まったところで、僕もアグネスもキミら三人を許す気はないけどね」


 シンシアの顔にやっと焦りが広がる一方で、アグネスの顔にもシンシアとは違う焦りが生じていた。


(ウルフラム様がアルトゥール王国の王太子? でも、確かに公爵家のご子息だと聞いたわ。死ぬ前に参加した夜会で)


 アグネスはそっとウルフラムを見て、教会で話し合った事を思い出す。




『僕もどうやら、アグネスが引き寄せた運命の歯車に、巻き込まれているようなんだ』 


 偶然にも再会したウルフラムは、アグネスにそう言った。最初はどういう意味か分からなかったアグネスも、ウルフラムの話を聞くにつれ表情が強張っていく。

 アグネス自身、まさか自分の運命に巻き込まれて、一緒に時を遡っていた人がいるとは夢にも思わなかったのだ。


 アグネスと出会ってから、ウルフラムは突拍子もなく時を遡る体験を二回した。

 ウルフラムは、この摩訶不思議な体験をすぐに理解できたらしい。巻き込まれていると気付いたのは、食事中だろうが会話中だろうが、時を選ぶ事なく強制的に時間が戻るからだと言っていた。


 その原因を探ろうとしたウルフラムは、二回目も一回目と同じ行動を取る。その中で、アグネスの行動だけが一回目と二回目で違っていたため、すぐに気付いたのだと屈託のない笑顔で言った。



『アグネスと話すのは、楽しくて嬉しくて、悲しい。花の一生のように生きるキミの傍にいたい』


 ひんやり冷たい空気が漂う教会で、ウルフラムはアグネスに熱を帯びた言葉も伝えていた。

 遠回しな表現でも理解できたのは、二人の気持ちは同じだから。

 しかし、お互いの想いを再確認しても、アグネスは素直に喜べない。アグネスには復讐という名のやるべき事があるのだ。


 そんなアグネスを見て、ウルフラムは

『アグネスの運命に巻き込まれたのは、偶然ではなく必然』だと言い張った。


 初めてアグネスに会った時、ウルフラムは自分の中で淡い恋心が芽生えているのに気付いていたが、アグネスに直接コンタクトを取る事はしなかった。一回目のウルフラムは、再びアグネスに会える事を夢見て待っていたのだ。

 だが、会える事もなく、時間は過去へ戻る。


 二回目の夜会の後も、ウルフラムはアグネスに対し、直接会いに来る事はしなかった。立場的にできなかったのもあるが、公爵家の子息であると咄嗟の嘘を言ってしまった事もあり、後ろめたかったのだ。

 しかし、ただ待っていた一回目とは違い、二回目はアグネスの情報を徹底的に探ったという違いはある。


 その時に、アグネスの周りで起きている事を知ったウルフラムだが、留学期間の延長はもうできないと悟り、アグネスに手紙だけ送って泣く泣くアルトゥール王国へ帰還。

 その後、アルトゥール王国の王座に就くが、正妃も側妃も拒み続ける異例の王となった。

 結局、数年後に王座を弟に譲り、ウルフラムはひっそりと隠居生活をする。


 教会でアグネスにそう打ち明けるウルフラムの仄暗い顔は、アグネスの顔とよく似ていた。アグネスの周りで起きた事を突き止めたウルフラムもまた、怒りの炎を静かに燃やしている。


『だから、僕はもう待たない。待っているだけで何もしなかった愚かな自分とは決別する。そして、アグネスに起きている事を解決して、キミを幸せにすると誓う。そのために教会に来たんだ。それに、巻き戻る場所はいつも教会ここの近くなんだよ、偶然にも』

『……意外と近い場所にいらっしゃったんですね』

『ああ……。こんなにもアグネスは近くにいたのに、何もしなかったなんて情けない。待っていても幸せはやって来ないのに……。本当、自分が腹立たしいよ』

『ウルフラム様……。それは私も同じです。耐えていたら、いつかは報われるって思っていた過去の自分の愚かさを笑いたい気分です。何より、三人が赦せない……』

『そうだね、三人には死よりもつらい制裁を科さなくては』



 ◇



(そう言って私に協力してくれた人が、アルトゥール王国の王太子だった……?)


 そんな会話を思い出したが、アグネスは再び表情を凍らせた。


「アグネス。キミはこの三人をどうしたい?」

「それは……」

「もちろん、慈悲はあるでしょう? アグネス」


 シンシアが縋るような視線を寄越す。


「私はお前の父親だぞ!」


 トリスタンはクルフ公爵とウルフラム王太子の視線を気にしながらも、厚かましく父親という言葉を盾にした。


「わ、私は何も、していないわぁあああ!」


 ボロボロになった爪を噛むのをやめて、シャーリーンは大げさに取り乱す。


 この三人に共通している事は、同じだ。罰せられる事に恐怖を抱きながらも、心の底では反省はしていない。なぜなら、性根が腐っているからだ。アグネスはそれを誰より痛感している。

 当然、慈悲を与えるつもりはない。


「私は父に裏切られ、シャーリーンに奪われ、シンシアに()()()殺された」

「殺してないわ!」

「違うの。()()()()今回は死ななかっただけ。運が悪ければ死んでいたという行為は全て、殺人と同等の行為だと思うわ?」


 アグネスはそう言って、穏やかな表情を浮かべる。


一月ひとつきに一回、様子を見に行きます。運が良ければ、生きて会える。たまたま、死ななかっただけだから」

「やだ……こわい。どんな罰なのよ。死ぬの……こあいいぃ~」


 シンシアは泣き始め、トリスタンは手で口元を押さえて、ガタガタと震えた。シャーリーンは瞬きもしないで目を見開き、黙っている。

 しかし、アグネスは同情しない。


「三角刑に処す事を望みます」

「同意する」

「同意する」


 クルフ公爵もウルフラム王太子も声を揃えて賛同する。


「待って、アグネス! 三角刑って何なのよ! ねぇ……!」

「断頭台で首を切断するのは、意外と優しい処刑方法です。斧の方が中々首が切れずに、苦しむみたい」

「イヤよ! そんな死に方、イヤ!」

「そうよね、殺すのは簡単。反省もしていないのに殺すだなんて、そんな()()()()のはもうしたくないの」

「…………えっ?」


 アグネスはその唇に笑みを乗せて、そして、今から伝える言葉に悪意と呪いを込めて、話し始めた。


「三角刑とは文字通り、三角形の形をした幽閉塔の事。三つの頂点にそれぞれが繋がれて、お互いの顔を見ながら、死の恐怖に怯えるのよ。そこで、死ぬまで考えて? 生きる事は、死ぬ事より難しいの。贅沢もできない、望みもない毎日を死んだように生きる。寒さに凍える日もあれば、灼熱地獄の日もある。空腹の日もあれば、毒を喰らう日もある。鼠に身体を齧られる事も……。場合によっては、死に至るかもしれないけれど、中々上手に死にきれない。死と隣り合わせの塔生活をぜひ、楽しんで」


 淡々と語るアグネスに、シンシアは一瞬言葉を失う。


「アンドレアスとアグネスにした事を思えば、当然だな」

「クソッ」


 トリスタンが吐き捨てると、シンシアがハッとして噛み付いた。


「そ、そんなの、アルセス王国の国王陛下が許可しない! 貴族なんだから、お金を払えば助かるわよ!」

「愚かだね……。お前たちのした事は、全財産を支払っても足りない。それに、アルセス王国とアルトゥール王国は友好協定を結んでいる。王も馬鹿な判断はしないだろう。捕らえろ!」


 ウルフラムの命令で、隠れて待機していた護衛が動いた。マシューも開いている窓から部屋に侵入して三人を威嚇した後、ウルフラムの肩に乗り、大きな翼を閉じる。機嫌が良いのか一鳴きした。



「……なさ……い。ごめ……さいっ」


 連行される時、小さな声でシンシアが謝罪する。アグネスはシンシアをチラッと見ただけで、声はかけなかった。


(シンシアの本性を知る前なら、その謝罪で騙されていたかもしれない。でも、今の私は違う。人間の性根を叩き直す事がどれだけ時間がかかり、難しい事かを知っている。せいぜい絶望と共にゆっくり堕ちて、苦しみなさい)


 アグネスは三人の背中を見つめながら、ふぅと溜め息を吐く。


「本当に、時間がかかる……」

「何か言った?」

「いいえ? 何も……。ただ、今後どうしようかと……」

「僕を頼れば良い」

「……ありがとうございます、ウルフラムでん、きゃあ」


 アグネスは感謝の意を表すために頭を下げようとしたが、ウルフラム王太子に優しく抱かれて、身動きができない。不意を突かれたアグネスは、そっと頬を紅く染めた。

 開いた窓から領地をそよぐ風が二人を祝福する。



 そうして、アグネスの復讐は幕を閉じた。


 その日から、慌ただしい毎日が続く。アグネスは事後処理に追われる日々の傍ら、ウルフラム王太子との愛を深めた。

 しかし、そうした日々に埋もれないように、一ヶ月に一度は三人の様子を見に幽閉塔を訪れる。

 彼らは会う度に威勢が弱くなり、尖っていた部分が丸くなった。いや、脆弱になったのだろう。

 そんな三人を見たアグネスは今、少しだけ救われている。


(良かった。これでもう悪夢にうなされる事はなさそう……)


 時間はかかったが、アグネスは以前のような自信と明るさを取り戻していた。フリージアの花のような柔らかい微笑みを浮かべる姿は、女神ヘシュナのように美しいと言われていた頃に時間が戻ったようだ。


 瑞々しい肌、髪の艶、身体の曲線美は文句の付けようがないくらい完璧に手入れが行き届いている。毎日バランスの良い食事を取り、適度な運動をし、質の良い睡眠をとった結果だ。何より、ストレスの元凶がなくなった事が大きい。


 生まれ変わったアグネスを見て、一番驚いていたのはシンシアだった。

 アグネスが訪れる度に、みすぼらしい自分と見比べてはショックを受けているのだ。アグネスは気付いていないが、シンシアは今、自身がしてきた事をアグネスに仕返しされている最中――。

終わり。


初短編です。評価等していただけると嬉しいです。

いつかアルトゥール王国編も書いてみたいです。


7、8月も短編や中編を投稿していくので、見ていただけると嬉しいです。

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[一言] 兎に角親父が最低だな。
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