第五十八話 フランケンシュタイン
ドリフト。
車両の旋回中、サイドブレーキを操作して後輪にブレーキを掛ける、もしくはエンジンパワーを多く伝達するなどして、後輪を滑らせる現象のことを言う。
日常の運転の中では絶対に使用しない技術だが、俺はといえば現在進行系でそれを実践している。正確には、実践せざるを得ない状況にある。
モスクワ市街。
現在交差点を右折中。車体の後方が滑る感覚と引力に歯を食いしばる。キュキュキュキュ!! というタイヤの悲鳴を無視して、勢いよくアクセルを踏み込んだ。
「おおー。お上手ですね、九条哲人」
隣から大げさな拍手が聞こえてくる。
エンジンの回転数の上昇と共に、こちらの緊張と興奮も高まっていく。
「うっせえ!! 後ろ見ろ!! どんな感じだ!?」
「どんどん距離を詰めてきてますね。さすがスポーツセダンです」
「こっちは普通のセダンだからな、そもそもスペックでボロ負けしてんだよ!! クソ!!」
ドアミラーを確認する余裕が今の俺には一切ない。トップスピードで前方車を右へ左へ抜いていく。速度は既に80キロオーバーだ。ロシアの警察に見つかって追い回されれば、状況はさらにややこしくなるだろう。
「九条哲人。免停ですよ」
「法定速度で殺し屋から逃げろってか。なにそれどこのロマンチックなカーチェイスだよ。妹ちゃんに提案してこい」
「あらら。ちょっと余裕がない感じですね」
「当たり前だふざけんなどうにかしろやお前も!!」
「随分とイライラしてますねー」
この野郎、俺は確かに付き合うとは言ったが、お前もなんかしろや。助手席でのんびりくつろいでいるだけじゃないか。エカチェリーナに怨嗟の念を送る。彼女はぽんと手を叩くと、俺の胸ポケットをゴソゴソとあさりだした。
「おタバコをどうぞ」
「ニコチン切れてイライラしてるんじゃねーよ!! ―――火!!」
「とか言いつつ吸うんですね。あなたは面白いです」
エカチェリーナの差し出したタバコをくわえると、ライターで火をつけてもらう。煙のあがったタバコをくわえたまま運転席の窓を下ろす。逃げ切れないことを確信した俺は、サイドブレーキを使って再びドリフト旋回する。
交差点のド真ん中で停車。窓からタバコを放り投げる。
「ポイ捨ては感心しませんね」
「まったくだ。罪の意識に苛まれてるよ」
エカチェリーナに適当な言葉を返して、俺は立てた人差し指を窓から突き出した。宙を舞うタバコが、迫ってくるスポーツセダンのボディに重なった。
その瞬間、物質Nを放射する。
タバコを火種に炎が噴射される。スポーツセダンに火炎放射が直撃し、車体が炎に包まれて歪み、勢いよく爆散した。
俺は即座にアクセルペダルを踏み込んで大通りから離れていく。細めの路地をぐんぐん突き進み、とにかくアンナから距離を取る。
「お見事です」
「そりゃどーも」
「街中でも結構ふつーに追ってきましたね。しかし、やはり能力の使用は躊躇しているようでした」
「だな。だが、俺がさっき物質Nを使ったんだ。向こうも本気になったら―――」
ガン、とボンネットが揺れる。目の前には、拳銃を握ったアンナが火傷を負った顔で忌々しげに俺を見下ろしていた。
「お元気そうで!!」
叫び、ブレーキを踏み込む。急減速と共に、前方に吹っ飛んだアンナを確認する。人気のない場所では、向こうも極超音速機の力を使ってくることは分かった。やはり大通りから離れるわけにはいかない。
急いで車をバックさせて、大通りに戻る。再び前へ走り出そうとしたところで、銃声が轟いた。ペダルを踏み込んでも車が進まない。また何発か銃声が響くと、ボンネットから火があがった。
先ほどの路地裏から、拳銃を突きつけて歩いてくるアンナの姿が浮かび上がった。
「九条哲人」
名前を呼ばれ、エカチェリーナに手を引かれる。助手席のドアから引きずり出された直後、車が爆発して爆風で道路を転がっていく。
跳ねるように飛び上がると、隣に立っているエカチェリーナが口を開いた。
「どうやら、誘い込まれたようですね」
「あ?」
「モスクワ市街の大通りですよ。なのに、人の気配が一切ありません」
「……」
見渡せば、車や歩行者の往来が一切なかった。事前にこのような状況を用意していたとしたら、俺たちは重要なことを見落としていたということになる。
アンナ一人で、ここまではできない。
間違いなく、組織が動いている。
「あいつ、拳銃を持っていたな。ファーストに撃ち落とされたはずの拳銃を」
「ええ。モスクワに降りた後、仲間から改めて用意されたものでしょう」
「モスクワ市街に奴の仲間が事前に待機していたってことになるな」
「だとしたら、ここまで誘導されたことも納得ですね。あらかじめ街中にアンナの仲間が散らばって、私たちがここまで逃げるように車を配置、運転などしていたなら……」
エカチェリーナの言葉が途切れた。大通りの前後を塞ぐようにして、ミニバンやセダン車などが大量に停車する。ぶかぶかのつなぎに身を包んだ連中だった。それぞれが車から降り立ち、つなぎを脱ぎ捨てると、感嘆しそうなほど充実した戦闘服が顕になった。
アサルトライフル、ショットガン、めいめいの役割をこなすための武器を手に、そいつらは銃口をこちらに向けてくる。
「……『方舟』じゃねえな。霊人じゃなさそうだ」
「霊石の匂いも感じませんね。『殺戮機械少女』でもない。ただの人間ですかね」
「ああ―――いや、違うわ」
「はい?」
「霊人でも『殺戮機械少女』でも人間でもない奴が一人」
冗談だろう。
どうして、ここでお前がやってくる。前方の武装集団を押しのけて、ニヤニヤと楽しげに笑いながら出てきた大男がいた。彫りの深い顔をした、短い金髪をオールバックにしていて、ハリウッド映画にでもいそうな大男である。革ジャンとジーンズに身を包んだそいつは、首の骨をゴキゴキと鳴らしてから俺を見て言った。
「ちゃんと鍛えているか、マイ・ブラザー」
循環状態に入る。
拳を握って、物質Nを発動する準備を整える。
ウラン兵器型『殺戮機械男子』―――義兄・九条竜次に対して、俺は正直な気持ちを明らかにした。
「ふざけんなよ、なんであんたが、ここで出てくるんだ」
「それは、俺もこいつら『フランケンシュタイン』の一員だからだ。弟よ、まさかお前もいたとは予想外だったぜ。なるほど、来て正解だったな」
「なぜエカチェリーナを狙う」
「エカチェリーナ、とは横の女か」
竜次から指をさされたエカチェリーナは、俺と竜次の顔を視線で行ったり来たりしていた。
「なんだよ」
「いえ。似てないご兄弟だなと」
「そいつは嬉しいね、涙が出てくる」
エカチェリーナは俺から竜次に顔を向けると、丁寧にお辞儀を披露した。本当に緊張感のない奴だ。
「どうも。アンナの味方をされているんですね。妹がお世話になっております」
「黙れ。俺が貴様に聞きたいことは一つだけだ」
「なんでしょう」
「―――貴様はマッチョか」
ぱちぱちとまばたきを繰り返したエカチェリーナは、俺を一瞥してから得心いった様子で竜次を眺めていた。
「……マッチョ、ですか。ふむ、前言撤回。よく似たご兄弟ですね。初対面の相手に聞くことが、どちらもたいへん奇妙です」
「ふざけんな。なんでだよ、俺はあんなにおかしくねえ」
「初対面の女性に、ベトナムが好きか尋ねてから殺しにかかるあなたも大概かと思います」
「タイプの女にしか聞かない」
「むしろあなたの方が狂気を感じますね」
ゴホン、と咳払いが聞こえた。俺とエカチェリーナの会話に我慢できなくなったのか、竜次が苛立った様子で口を開いた。
「さっさと筋肉を示せ。安心しろ。その間は誰にも手出しはさせん」
竜次に睨まれたエカチェリーナは、苦笑を浮かべて俺を見つめてきた。恥ずかしい。例えるなら、自分の兄が頭のおかしい奴で、家に連れてきた彼女が迷惑をかけられているような、そんな感覚である。
羞恥心に眉根を寄せながら、俺はエカチェリーナに首を縦に振る。引きつった笑みを浮かべたエカチェリーナは、黒スーツのジャケットを脱いでシャツの袖を限界までまくって右腕を見せた。
結果、竜次も俺も驚愕した。
「……えっと、どうですか。マッチョですか、私」
そわそわしているエカチェリーナを無視して、俺は引き締まって筋肉質な右腕に触れる。うわ、すげえ、肉がない。思わず、エカチェリーナの肩や背中、腹部を指先でちょんちょん突いてみる。
「ひあ、ちょ、九条哲人」
「お前すげえな。スポーツかなんかやってんの」
「い、いえ、極超音速機は、高速で移動ばかりしていると筋肉痛になるので、それで多分……」
「運動しているのと同じわけか。へぇー」
「あの、触るの、やめて頂きたい、のですが……」
くすぐったそうな声を上げるエカチェリーナを無視して、今度はふくらはぎあたりを突いてみる。俺は感嘆の息を漏らした。細身なのは間違いないのだが、限りなく引き締まったスポーツ選手のような身体だった。細マッチョじゃないか、エカチェリーナ。
予想はつくが、一応、竜次の様子を確認する。
膝をつき、呆然とした様子でエカチェリーナを見つめる竜次は、震える瞳から涙を溢れさせて呟いた。
「う、美しい……戦えない……」
「帰れよ。何しにきたんだよ」
「俺に、あれほど引き締まった美しい体を……傷つけるなんて……できない……」
「解さーん。はい解散。お疲れ様」
「ぐ、ぐぅ……!! クソ、予定と違う。マッチョでないなら殺すと言って襲いかかるはずが……こんな……こんなことに……」
「マッチョを傷つけるなんて、あんたらしくもないぜ。ほらエカチェリーナ、腹筋見せてやれ腹筋。触ったけどカチカチじゃん。うっすらと割れてるだろ」
「やめろ、やめろ哲人!! 俺は、俺はアンナのサポートを……そこの美しい女を殺さなくては……ならないのに……」
アンナのサポート、か。やはり竜次はアンナの味方をするつもりらしい。
ため息を吐いた俺は、立ち上がった竜次に問いかける。
「で、あんたはなんでエカチェリーナを狙うんだ」
「アンナと博士の契約上、アンナが姉を殺すのに全面協力するという約束が博士にはあった。博士から指示されて、俺はアンナのサポートにきた」
契約、博士とはなんだ。眉を潜めた俺に、竜次は続けて語ってくれた。
「『フランケンシュタイン』は、『殺戮機械少女』を最初に作った博士によって組織されたものだ。陸上兵器型も、光学兵器型も、化学兵器型も、この俺―――核兵器型さえも、博士は作ることに成功した。『殺戮機械少女』の生みの親、というわけだ」
「……」
「その博士は、昔から極超音速機型の改良実験に挑戦している。より速く、遠くへ移動できる最速の機体を作ろうとしているんだ。その被験者の一人がアンナだ。アンナは実験を受ける代わりに、姉のエカチェリーナを殺すサポートを博士に要求した」
「……なんで極超音速機を改良するんだ。そして、なぜあんたは『フランケンシュタイン』に協力する」
「ふむ。教えてやってもいい。そろそろお前には、俺とダディの真実を伝えるべきだとは思っている」
九条竜次と九条零次の真実。気にしたことはない、なんてわけがない。九条竜次は、アメリカで発見された最初に霊石の適合した男。その男の父親が、俺の伯父にして育ての親でもある九条零次。
竜次は国連に認知されていない、非公式の兵器である。また、今回、エカチェリーナを狙っているアンナも国連から認知されていない。
九条竜次やアンナを作った、国連とは無関係の陰の組織―――それが『フランケンシュタイン』ということだろう。
「だが、そう簡単に教えてはつまらん」
真っ白な歯を剥き出しにして、竜次は笑顔を作った。着用していた革ジャンを脱ぎ捨てると、長袖の白シャツの袖をまくりあげながら言葉をこぼす。
「弟よ、はじめて会った時のお前はマッチョでこそあれ、強いとは言えぬレベルだった。本来ならば、連れて帰って俺が鍛えてやる予定だったんだ。しかし、お前を保護して連れて帰るという選択を取らなかったのは、前に言ったように『アルカサル』という環境でもお前は強くなれると信じたからだ」
この組織と博士という人物が、親父に関係していることは疑う余地はない。竜次から事の真相を聞き出したい気持ちはある。しかし、どうやらこの脳筋変態ブラコン野郎は思うように行動してくれないらしい。
「ファースト、光学兵器、あれだけの実力者に囲まれたお前には成長のチャンスが十分にあるはず。俺はそう信じていた」
「……あそ」
「だが、お前は俺の予想を遥か彼方に置き去りにしてみせた!! まずは自重トレーニングからかと思ったのに、いきなり重々しいバーベルを上げきってくれたんだ!!」
「意味わからん」
「照れるなよ、マイ・スイート・ブラザー。国連の『殺戮機械少女』を壊滅に追い込み、Sクラスまで撃破してみせた!! 霊石解放を使ったとはいえ、お前は相当な場数を短期間で踏み越え、そして今ここで生きている!! お前は強くなったはずだ、俺の想像を超えるほどに。置き去りにするほどに」
「……だったらなんだよ」
「俺を倒せ。さすれば、俺とダディの真実を伝えよう。なーに、お前はマッチョだ。マッチョにできぬことはない」
瞬間、竜次の身体が泡でも弾けるように消える。そして、視界が真っ暗になる。循環状態を使って迫ってきた竜次が、大きな右拳を顔面に打ち込んできたのだ。
「―――筋肉を解き放て、弟よ」
「っ」
さすがに早い。油断していた、間違いなく避けられない。避けられないならば、せめて食らいつくしかない。
竜次の拳が額に着弾した瞬間、俺の右拳も竜次の顔のド真ん中を射抜いていた。ゴガァッッ!! と、骨から響いた痛々しい轟音を合図に、俺たちは同じように行動を取っていた。フラフラと後ろにふらつくと、どちらも拳を握って一歩前に踏み込んでいたのだ。
物質Nで拳の温度を高めていく。竜次もまた、核エネルギーを拳に溜め込んでいることが分かった。光り輝く大きな右拳を前に、俺はもう一度挑みかかる。
お互いの拳がお互いの拳に着弾する。ドオッッッッッ!! と熱波が周囲を駆け抜けると、『フランケンシュタイン』の部隊員のほとんどが熱さから逃げるように退避していった。
拳をぶつけ合って押し返し合いながら、竜次は満足げに口の端を釣り上げる。
「循環状態を維持した上で、物質Nを扱えている。循環状態の効果も高まっているな。格段にスピードと筋力がついている。強くなったな」
「あんたとやりたくねえ」
「構わんが、俺を止めなければ俺はアンナのサポートに回るぞ。そこの極超音速機を殺すために。いいのか」
「そいつはよくないな。よくねーよ」
竜次の右拳と押し合っている自分の右拳を開いた。竜次の右手首を引っ掴むと、左拳を使って頬を撃ち抜く。最高のパンチが決まった。しかし、竜次は口から血を吐き出して、俺からの挑戦を受け取ったことを示した。
「俺はお兄ちゃんだ。弟に負けるなどあってはならん」
竜次もまた、左拳を握り締める。そして、それを俺の頬に放ってきた。
歯を食いしばる。それでも、意識に白い靄がかかる。痛いくらいに左拳を握って、意識を繋ぎ止めた。再び俺から殴打をプレゼントしてやる。
殴り、殴られ、殴り、殴られ、その応酬が続く。お互い顔を血で真っ赤に染めていきながら、どちらかが倒れるまで殴打の音楽は続いていく―――
「―――とか思ってんだろ、脳筋兄貴」
「っ!?」
俺は竜次の顔に振り抜いた左拳を開いた。大きな顔を鷲掴みすると、指先の全てから物質Nを放出する。不可視の熱放射に空間が歪む。竜次を蹴り飛ばし、果物屋に突っ込んだ巨漢に絶えず熱放射をあて続ける。ゴシック様式の店がドロドロに溶解していき、ガスボンベでもあったのか、最後は大爆発を炸裂させる。
「脳筋が。まじで永遠に殴り続ける気かよ」
「出血がひどいですよ。九条哲人」
傍によって来たエカチェリーナが顔を見上げてくる。俺はそれを無視して、竜次のいるだろう炎に包まれた店へと歩き出した。
「愚兄は任せろ。というか、それしかできない。エカなんとか、まあ死んだら骨は拾ってやるよ」
「お願いしますね」
エカチェリーナは、路地裏から完全に姿を現した妹と向き合った。俺はそれを一瞥すると、炎の中から胸を張って歩いてくる堂々たる巨漢にため息を吐いた。
「はあ……。この化け物が」
「マッチョと言えよ、マイ・ブラザー」