第五十六話 秩序の蹂躪
父と母は、いつも仲良しだった。ティーンエージャーになった私は、二人とも裏で愛人を作っていることを知った。楽しそうに背の高い男とバーへ入っていく母親。ホテル街に若い女性を連れて行っていた父親。私は彼らの秘密を、神様のいたずらなのか、偶然にも知る運命にあった。ショックと言えばショックだったが、私が何よりも動揺し恐怖したのは、もっと先にあるもの―――そんな父と母が、いつでも私たち子供に笑顔を向けてくること。
笑顔が怖い。
なぜ笑っているのか、分からなかった。父と母が、何を考えて家族をやり続けているのか、分からなかった。家族を捨てればいい。壊せばいい。別れてしまえばいい。お互いに思いを寄せる相手がいるなら、このような足枷でしかない家族関係など不必要極まりない。
どうして、そこまでして家族でいようとする。休日は家族とショッピングより、愛人と遊びたいだろう。家庭にお金を入れるくらいなら、愛人に貢ぎたいだろう。
だって、愛人と密会している時の父と母の笑顔は、私に見せる笑顔よりも、よっぽど笑顔だったから。幸せそうで、気持ちよさそうだったから。
私は四つ下の妹のアンナに真実を伝えた。アンナがこの歪な家族関係にヒビを入れてくれるかもしれない、そう思ったからだ。アンナが憤れば、悲しめば、私は正々堂々と両親に立ち向かえる。気持ち悪いと、この胸に広がり続ける感情を突きつけることができる。
それなのに、妹は父と母の不貞を知って尚、私にひどい呪いをかけた。今でも覚えている。アンナを連れて父の密会を尾行し、愛人を連れてホテルに入っていく背中を眺めていた時だ。
アンナは、笑ってこう言った。
家族でいられるならいいや。忘れよう、お姉様。
頭が真っ白になった。私がおかしいのか、本気でそう考えた。家族であるならば、両親の不貞を受け入れられることが当然なのか。妹のアンナも笑顔だった。
アンナは、笑って言ったのだ。本当に気にしていないのか、本当になんとも思っていないのか。妹が何を考え、何を思っているのか、気になって怖くて仕方なくなった。
それ以来、私は妹のことをよく見るようになった。
そして、妹がなぜ両親を受け入れられたのか、理解した。
妹は整ったものが好きだった。綺麗に並べられた本棚、一定の車間を作って止まる車列、軍隊の揃えられた行進や敬礼。あらゆる秩序が大好きだった。多くが集まり、それらが乱れることのないよう、互いに迷惑や損害を与えないよう配慮するための秩序。アンナが秩序に魅了されていることを知った時、私もまた秩序立ったものに敏感になるようになった。
私は秩序が嫌いだった。
感触があるのだ。学校で一列になって座るとき、飲食店でドリンクバーを利用する時に並んでいるとき。私は必ず、ある感触を知る。そして、次第にそれが見えるようになる。いや、本当に何かが見えるわけではない。ただ、一人一人異なる存在たる人間を、同じように行動させている、その秩序という奴を感覚的に理解する。そこには何かがあるのだと、見えないものを見ようとしてみる。すると、決して実体としては現れないが、必ずそこには秩序というものが居座っていることを確信する。そして、はっと気がついた。
こいつだ。
こいつが、私の歪な家族を生み出したのだ。
父親として、母親として、社会的な立場にある両親は、他の親と違わないように必死に親であり続けているのだ。親は子供を育てる。守る。そういう秩序が、常識が、ルールがあるから、破ったら大変な目にあうから必死に家族ごっこを続けているのだ。
そう理解した。家族のことを。
反吐が出そうになった。気持ち悪いと思った。私は、ますます両親のことが嫌いになった。家族というものが、おどろおどろしい怪物に見えるようになった。
対して、アンナは真逆だった。家族が壊れていなければ十分だった。両親双方の浮気に関して、アンナは彼らが死ぬその時まで、一度として言及したことはなかった。家族が好きだったのだろう。父も母も好きだった。私たち、つまり子供に対する表の顔が、親として、家族として、何も問題がなければそれでアンナは十分だったのだろう。
アンナは、家族という状態が大好きだった。父や母に対して、父や母以上の役割も役目も何も求めない。二人が、アンナの前で父や母らしくあればいいだけなので、アンナの見えないところで何をしていようと気にしないのだ。
私はだめだった。
父や母の笑顔が許せなかった。裏でああいうことをしておいて、私に笑ってくるのが気持ち悪かった。腹立たしかった。家族という状態、秩序を保つことだけしか意味の込められていない笑顔は、不気味な仮面にしか見えなかった。
私は恐怖した。
父や母の笑顔に。そんな笑顔に、心から嬉しそうな笑顔を返す妹に。
だから、チャンスだと思った。
爆撃で家の天井が崩れた。大戦の最中だ。死ぬ覚悟はしていたが、どうやら私は死ぬ運命にはなかったようだった。五体満足で傷も大して負わずに、瓦礫と瓦礫の間のスペースに転がっていた。
這い出ると、まずそこにはキッチンの変わり果てた姿があった。そして、一本のナイフが落ちていた。とりあえず手に取って拾い上げると、神様は私に余裕を与えず畳み掛けてきた。
目の前に、瓦礫で足を潰されている両親が転がっていた。うめき声を上げて、力ない瞳でお互いを見つめ合っていた。
私は膝を折ってしゃがんだ。
両親は揃って顔を上げた。私のことを見た。
安心したように笑みをこぼした母親が口を開いた。何かを私に言おうとしたのだ。だから、私はその喉にナイフを深く深く埋め込んでみた。
母親の笑顔が消えた。
ふっと無表情になると、ごぽごぽと血を口から溢れさせて、両手を泳ぐようにバタバタさせ始めた。そして、すぐに息絶えた。
それを見て、私は歓喜した―――大嫌いな笑顔が消える方法を見つけたから。
ドキドキと弾む心臓が、死体に刺さったままのナイフを抜き取るように命令してくる。言われるがまま、私はナイフを手に取って、握り直して、今度は父親に視線を移した。
父親は、呆気にとられた顔で死体を見つめていた。視線が泳いでいた。ようやく落ち着いたと思ったら、私を見上げて無理やり口角を上げてきた。
だから、同じようにナイフを刺してみた。
赤い湧水が地面に落ちていく。鮮血の水溜りができあがっていく。比例して、私の大嫌いな表情が消えていった。
私は笑った。
久々に笑った。笑い声も上げた。下品に、豪快に、腹の底からせり上がってくる興奮と安心と面白さを声にした。身をよじって笑った。地面をバンバン叩いて笑った。涙が出るほど、息が切れるほど笑った。
そして、離れた場所でこちらを見ている妹に気がついた。妹は珍しく笑顔じゃなかった。半開きになった口がアホらしくて、私はまたクスリと笑った。
口角が上がる。
上がったまま、ナイフを持って妹の傍に寄った。
瓦礫で右足が挟まって動けない様子だった。私は膝をついてアンナの頭を撫でた。すると、「なんで」と聞かれた。私は微笑みを返してやって、アンナの脇腹にナイフを突き刺した。
細い身体に、大きな刃は不似合いだった。
喉を刺した時より、ゆっくりと静かに血が溢れていく。アンナは傷口を見つめながら、迫る死を感じながら、「なんで」とばかり呟いていた。
私は立ち去った。
しばらくすると、軍人たちが現れた。彼らは生存者の保護にやってきた。しかし、私は私の家族が保護されることはありえないと知っていたため、ふらふらとあてもなく荒れ果てた街中を歩き続けた。
興奮と歓喜は消えていた。
残ったのは、張り付いたまま取り外せない、笑顔だけだった。