第五十三話 ラスコーリニコフ
『アイオワ』から帰宅中。
俺はあくびを噛み殺して、とりあえず隣の少女に声をかけた。
「……で、なんでお前もいるわけ」
「イヴァンさんを置いて帰るよう言われてしまったので、桜木アリスからの提案で送っていってもらうことになりました。イヴァンさんの飛行機を使ったら、イヴァンさんが帰って来れませんので」
『アルカサル』の小型飛行機の中には、コックピットにアリスとエマさん、三十人から四十人分の席が並んだ機内に俺、光、ファースト、そしてエカチェリーナが好きな椅子に座っていた。
ちなみに、俺は飛行機中心部の席に居座っているのだが、左を光、右をエカチェリーナに占拠されている。ファーストは一番後ろの隅の席に座っていた。あいつは千凪の意図を組んで、一番頑張ってくれた功労者だ。疲れて眠っているのではないだろうか。
千凪と言えば、未来からやって来た光速移動型兵器だと『アイオワ』で説明はしたが、納得のいく説明には時間がかかりすぎるので、アリスのレポートによって後日国連全体に理解を求める方針に決まった。アリスが監督するということで、国連からすれば謎だらけの機体である俺と千凪は『アルカサル』に押し付けられる形になったわけだ。
「つーかさ、エカなんとかは極超音速機なんだろ。自分の足で帰った方が早くないか。千凪みたいに」
千凪は光の速度で移動できる機体のため、わざわざ飛行機を使って何時間、何十時間というフライトに付き合うことは嫌がった。光の速さは、俗に秒速約三十万kmと言われる。これは一秒間に地球を七回り半もできるスピードだ。それは飛行機で帰りたがらないに決まっている。今頃、『アルカサル』の俺と光の個室でゆっくりしているんじゃないだろうか。
千凪に一人ずつ送迎してもらおうかとも考えたが、一日で何回も光速移動はできないらしい。負担も大きいという理由で、俺たちは大人しく飛行機を使っているわけだ。
「そうですね。私が本気を出したら三十分とかからずロシアに帰れますね」
「なんで帰らないの!? 飛行機じゃ何時間もかかるぞ」
「あなたのことをもっと聞いておくべきだと思いましてね。お話、したかったんです」
「……まあ、ならいいけど。暇だし」
左肘をつねられている。全力で無視する。視界の端っこに頬の膨らんだでかいハムスターがいたが、まあとりあえず無視する。
「しかし、三十分もかからないのか。アメリカからロシアだぞ。まじかよ、速すぎだろ」
「速いから、いち早くあなたのもとへ駆けつけられたんですよ」
「最高どれくらい出せるの。一応仲間になったんだ、教えてくれよ。超気になる」
今までに俺が体験した速度は高速道路で時速百キロちょいだ。それ以上の世界を俺は知らない。スピードには乗り物好きとして魅了されるものだ。
エカチェリーナは身を乗り出して尋ねた俺に驚いたのか、パチパチと何回かまばたきをした後に、頬に手を添えて宙を見上げた。
「んー、そうですね。限界、は分かりません。ただ、今までで出した最高速度はマッハ15ですね」
「なんかすごそう。時速でどれくらいなんだ」
「えー……うーん……18000キロくらいですかね」
「すげーなエカなんとか!! 時速18000キロ!?」
「なんだか嬉しそうですね。興奮しているような……。ご興味を持って頂けて嬉しいですが、そんなに面白いですか」
「俺はバイクやスポーツカー好きだからな。速さにはそれなりに魅力を感じるんだよ。しかし、すげーな。そんなに速く動けるのか……」
「ああ、なるほど。あんまり速すぎても面白くはないですよ。世界がゆっくりに見えてしまって退屈です」
「トルクは?」
「と、トルクですか。いよいよ乗り物として私を認知されていますね。さすがに計算したことはないですが、一秒でマッハ3までなら到達しますよ。時速は3600キロ超えですね」
「乗せて。運転したい」
「あの、バイクじゃないですから……。ああ、九条哲人。橘光の頬が限界です。痛そうですよ」
振り返ると全力で不機嫌アピールをしてくる光がいた。膨らんだ頬を指で突いて空気を抜いてやる。きっと俺を睨んできた顔から、バチバチと電気が飛んでいる。
「なんだよ、電撃ハムスター」
「レーザーもかっこいい。速い。エカチェリーナだけじゃないよ、テツヒト。私もすごい」
「いや、レーザーは別にかっこよくはない。お前はすごい強いと思うけど」
「むう。なんでエカチェリーナとばかり話すの。最近のテツヒトは私じゃない人とばかり喋る。ずるい」
「付き合いたての彼女面しないで欲しいんだが……」
「エマの彼氏面してるテツヒトに言われたくない」
「あぁ? 言ったろうが、脳内じゃ俺はエマさんと結婚して子供も生まれてるの。千凪が生まれてるの。彼氏面しても仕方ねーだろ」
「むう。言ったはず、脳内じゃテツヒトと結婚して千凪の子育ても終わってもう老後に入った。金婚式の予定を立ててる。彼女面じゃない、妻」
胸を張ってドヤ顔をする恋愛自己完結型光学兵器に、俺は恐怖すら覚えてなだめるように言った。
「ねえ光、老後まで入ったのは初耳だし、妄想を現実と分けられてないよね。俺がマシに見えるレベルでやばいよね。いい加減に落ち着こうぜ」
「―――マシには見えないわよ、馬鹿なの」
「そこ、うるさい」
後ろから聞こえた、いじめっ子型陸上兵器の誹りに言い返す。すると、俺たちの一連の流れを眺めていたエカチェリーナが、くすくすと口元を手で隠しながら笑いだした。
笑われる心当たりは十分にあるので、恥ずかしくなった俺も顔を手で隠す。
「……あれだ。あんまり笑うな、いや分かるけど。笑われると恥ずかしくなる」
「ふふふ。奇妙な羞恥心をお持ちなんですね。いや、三人の仲がよろしいようで、羨ましい限りです。ファーストも打ち解けているようですし、これはすごいことですよ」
「すごい……ことなのか……?」
「ええ、ええ。ファーストがあなたに協力したことで、ファーストは殺しの仕事を受けなくなった。ファーストを懐柔したことで救われる命、なくなった紛争は多いです。シャーロットたちも、あなたを生かしてファーストを大人しくさせることをメリットだと踏んだのでしょう」
「ボディガードを頼んだだけで、世界が平和になったなら良かったよ。懐柔はしちゃいねえ」
「……ここだけの話ですが、ファーストは『アルカサル』において管理、国連に協力するという形でシャーロットたちに認めてもらいました。あくまでもあなたの護衛を優先する、と強気にシャーロットに約束させていましたよ」
「……懐柔したな」
されてないわよ、と声が後ろから飛んできた。ついでに枕も飛んできた。俺の脳天へ正確に落ちてきた枕は、結構でかくて随分な衝撃になった。物質Nのオート防御を見越して、わざと痛くはない枕を選んで投げてきたな。
恐らく、睡眠用に使っていた枕を投げて来たのだろう。今頃ちょっと後悔しているはずだ。俺は頭に乗っている枕を引っ掴んで後ろに放り投げておく。こっそり話を聞いてないで、寝ていればいいのに。
「それで、どうしてファーストや橘光と出会うことになったんですか。―――なぜ兵器になったんですか」
「……あとでアリスさんのレポートを見て欲しいんだが。長くなる」
「だから、こうしてご一緒させてもらっているんですよ。とっくりと長く、丁寧にお話し下さい。あなたの口から聞きたくてここにいます」
「……敵対もしたが、助けてもくれた。分かった、まあ話すよ」
俺は一時間、いや二時間だろうか。その微笑みに向けて全てを語った。あの日、ナチス製化学兵器になった時の事から、これまでのことを全て。
言った通り長い時間だったはずだ。
それでも、エカチェリーナは微笑みを崩すことなく耳を傾けていた。
「そうですか。ということは、兵器としては一年すら経っていない、ということですかね」
「そうなるな」
「一つだけ聞いてもいいですか」
「なんでもいいぞ。やましいことはない」
「『方舟』のリーダー、九条蓮という男はあなたの父親に身体を乗っ取られている。その子供のあなたも危険だから殺したい。あなたを殺すために、あなたの心臓の霊石を反転させて超人にし、肉体を一から再生させて九条幸乃を復活させようとしている。つまり、あなたは存在を失って死ぬかもしれないんですよね」
「ああ」
「死ぬのは怖いですか」
「……」
聞いたことのある質問だ。いつだったか。どす黒い雲に覆われた空の下、命を奪われる覚悟を決めた時に、この少女から同じ質問を受けたような気がした。
そうだ。
寂しい笑顔だった。笑顔のくせに、それは何かを隠すために取り繕った笑顔で、寂しい少女だと強く印象に残っている。
あの時、俺は確か、こう答えたはずだ。
もう一度答えよう。
「死ぬの、ちょー怖いよ。絶対に生きてやる」
「―――感情は欲求と充足との間に生まれる、でしたか」
「……よく覚えてるな」
エカチェリーナの発言に身に覚えのあった俺は、頬をさすって恥ずかしく感じる引用文から意識をそらした。親父の影響だろうが、なんでもかんでも文学や哲学を引用する癖は直すべきだろう。相手に迷惑だ。
しかし、エカチェリーナは笑ったまま言った。
「オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』。読みましたよ」
「え、まじ」
「まじです。面白かったですよ。ああいう小説、嫌いじゃないです」
「ディストピアものの中では、ジョージ・オーウェルの『1984年』や『動物農場』ほど支配的じゃなく、かといってフィリップ・K・ディックほど混沌としていない、共感のまだできる世界観だと思ってる。あれ、結構好きだったんだよ」
「九条哲人は、小説がお好きなんですか」
「ああ、いや……親父の部屋に哲学や文学の書物が腐るほどあって、よく読まされたんだ。特別好きってわけじゃないが、よく知っているんだ」
「なるほど。教養を叩き込まれたようですね」
「本、読むの」
「ええ。まあ、ほどほどに。ドストエフスキーとか」
「ロシアつながりか。なにが好きなんだ」
「人間は凡人と非凡人に分けられる。弱者の凡人は法律を踏み越える権利をもたないが、非凡人は勝手に法律を踏み越える権利をもっているんですよね」
「……『罪と罰』か」
『罪と罰』の主人公は、ペテルブルグに住む貧しく孤独な青年ラスコーリニコフ。彼は、エカチェリーナが言ったような思想を持っており、自分こそ選ばれし「非凡人」だと過信して殺人を犯す。具体的には、貧乏人の生き血を吸うだけの弱者にあたる高利貸の老婆を殺しても罪にはならないと考え、貸主の老婆を殺害する。
しかし、またもや殺人を犯したことをきっかけに、罪の意識に苛まれ、愛する人の支えもあって最後は自首をすることになる。ラスコーリニコフの更生物語と言える作品だ。
人が人を殺してはいけない理由、その一つの答えを示してくれる良作だと個人的には思っている。
「……ラスコーリニコフの考え方は、きっと間違っています。私はそう感じています」
「だろうな」
「ですが、どうでしょう。ラスコーリニコフは、強者が弱者を蹂躪することは『正しい』と考えました。『正しい』か『正しくないか』という倫理観が残っていた。ならば、強者が弱者を蹂躪することをそもそも『当然』だと思えるだけの『力』があったらどうでしょう。『正しい』か『正しくないか』と考えられないほど、圧倒的な『力』を持っていれば、ラスコーリニコフみたいに破滅することなく蹂躪を続けられるのではないでしょうか」
「『力』ってのは、暴力か。権力か。金か」
「なんでもいいです。ふうと息を吐いて人がバタバタと死ぬような、圧倒的な『力』を持っていたとしたら、人の命を奪うことに倫理観は育つのでしょうか。私は、ラスコーリニコフは貧乏で弱者だったから、倫理観を持って更生する結末に至れたのだと思います」
「……極端な超人思想を、弱い人間が持つから破滅した。なら、そもそも圧倒的に強い存在なら、命への倫理観は宿らないのではないかと」
「ええ」
「……」
右胸に手を添える。しこりのような感覚に触れて、俺は黙りを決め込んだ。超人か。なるほど、あながち間違った名称ではないかもしれない。俺の中に息を潜める少女は、生まれながらの圧倒的な強者だ。
彼女に倫理観は必要ない。感情のままに、いつまでも純粋無垢な子供のまま生きている以外に道はない。なぜなら、そのままでいる以外に選択肢はないほど、圧倒的に強い生き物だから。
死ねない奴に、命の重さなど説いたところで意味もない。
強さとは無邪気な獣を生み出すのだ。人間らしくいたいならば、弱いからこそ強くなろうとするべきだ。弱さを種に強さの花を咲かせるべきだ。
エカチェリーナは、そういうことが言いたいのだろうか。
「お前はどうなの。いっぱい殺したんだろ。ラスコーリニコフみたいに後悔できたか」
「……後悔、ありますよ。三つだけ」
「三つ?」
「家族がいたんです。妹と、両親が。大戦中に死にました。私が強ければ、彼女たちを殺さずに済んだはずです。強ければ、守れたはずなんです」
「それは、戦争のせいだろ。お前のせいじゃない」
「いいえ。私のせいなんですよ」
「……家族を守れなかったから、兵器になったのか」
デリケートな話になったので、恐る恐る尋ねてみた。エカチェリーナは微笑みを絶やすことなく、語ってくれる。
「分からないんです。私だけ助かって、軍に保護されて、私の身内が死んでもういないことを知った当時の『トリグラフ』が私を霊石適合の実験にかけました。見事適性があったので、晴れて兵器デビューしました」
「進んで兵器になったわけじゃないのね、お前も。なんで戦ったんだ、ロシアのために」
「ロシアのためではありません。なんとなく、戦っていることが、落ち着いたんです。戦場にいると、忘れないで済むから」
「戦場で死んだ家族のことか」
「ええ」
「……」
俺は黙った。気づいたからだ。
エカチェリーナの話の、本当の意味に。
「死に場所、探してるわけ」
「あー、そうかもしれませんね。どこかで倒されて、死ねるのをのんびり待っているのかもしれません」
「死に場所は、戦場がいいと」
「ええ。家族と同じように、死ねればとは思います」
「……殺してやるよ」
微笑みに言ってやる。
こいつには助けられた。こいつを助けるくらい、なんてことはない。まさか、それだけ歪んだ過去に縛られているとは思いもしなかった。
いつもニコニコしているのは、なるほど忘れてしまったのだろう。笑い方を忘れたから、常に貼り付けているのだろう。
じっと俺を見つめてくるエカチェリーナに、改めて伝えてやる。
「殺してやる。死にたくて仕方なくなったら言え。殺してやるよ」
「……」
「『ぼくはナポレオンになろうと思った、だから殺したんだ』ってな。ナポレオンみたいな強者こそ自分だと疑わなかったラスコーリニコフは馬鹿野郎だ。―――自分が弱くて脆い人間だって自覚してないから破滅した。強いと思い込んで馬鹿やった、とんだ阿呆だよな」
「……」
エカチェリーナは視線を下に落とす。顔を見られたくないのか、長い前髪が垂れるように俯いた。
俺とエカチェリーナの間に静寂が生まれる。
話に置いていかれてご立腹の光を構う。『アルカサル』に着いたら、録画した映画を見ようと話した。何の映画を見るかで意見が分かれ、お互いに一歩も譲らず主張し合っていると、トントンと肩を叩かれる。
振り返ると、エカチェリーナがいつものように笑っていた。
そして、何度と聞いた台詞を口にされる。
「やはり、あなたは敬意を払うべき人です。どうもありがとう」
「今回はそうかもな。俺ってすげーだろ」
「ええ」
光がずいっとエカチェリーナと俺の間に身を乗り出す。頬を膨らませてエカチェリーナを威嚇している。
「エカチェリーナ、あなたはさんざんテツヒトと喋った。私の番」
「でしたら、私も話に混ぜてください。もっと仲良くなりましょう。橘光も、ぜひ」
「むう。もう変な話しないで。難しいのは苦手」
「ふふ。ただの本ですよ。橘光は、映画がお好きなんですか」
「ん」
「どういう映画がお好みなんですか。こうして話すことも今までありませんでした。せっかくです、聞かせてください」
俺は光と席を代わって、二人が話しやすいように隣同士にする。『トリグラフ』にエカチェリーナを届けて、一泊してから『アルカサル』に帰る予定だ。フライト続きで疲れも溜まるはず。俺もファーストのように眠るとしよう。
ゆっくりと、睡魔を呼び寄せて落ちていった。
(……どいつもこいつも、『殺戮機械少女』っていうのは報われない奴ばかりだな)