第四十九話 思いに花束を
―――自分のために生きるな。 死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ―――
原民喜『鎮魂歌』
勝利こそが全てだ。
いかなる状況にあっても、勝者は得るものはあっても失うものは何もない。敗者が何かを失うというシステムは、まったく平等に与えられた人類への呪いである。
私は、それをよく理解している。
妹はまだ、小さかった。
両親と妹は第一次世界大戦に巻き込まれて亡くなった。未だに、唐突だったと思う。家にいたとき、視界は暗転した。目を覚ますと、私は奇跡的に五体満足で転がっていた。生きていた。しばらくすると、軍人たちが現れた。彼らは生存者の保護にやってきた。しかし、私は私の家族が保護されることはありえないと知っていたため、ふらふらとあてもなく街中を歩き続けた。
私はうっすらと笑ってみた。笑えば楽しくなる気がした。面白おかしい喜劇になると思った。けれども、やはり目の前に広がる光景は悲劇のままだった。
生存者を発見した。老人だった。傍に近寄ってみると、生きてはいたが死に向かっている人であることが判明した。下半身が瓦礫で潰されていた。私のつま先に、綺麗な鮮血がキスをする。大きな血だまりが瓦礫を中心に出来上がっていた。
ぶつぶつと、その老人は神に祈りを捧げていた。両手を合わせて、必死になって祈っていた。助けてくれ、と。救ってくれ、と。世界宗教として名高いキリスト教の影響力は凄まじい。人は宗教で救われると言うが、あれは本当なのだろう。現に、目の前で死に向かっているこの老人は、キリストに助けを求める行為に集中できている。死の恐怖にあたふたするのではない。恐怖よりも、キリストへ祈る集中力が勝っているからだ。確かに、恐怖からは救われている。
空では神々しく輝く太陽があり、私の背中を照らしている。さぞ、私は神秘的なオーラを纏っていることだろう。私は老人に言った。救われますよ、すぐに痛みは消えて、あなたは救われます、と。すがるような両目が私を射抜く。しかし、見つめ合う時間は一瞬だった。瞳は生の色を失っていき、私を天使か何かだと信じ込んだまま老人は絶命に至った。
私は再び歩き出した。それが使命だとさえ思った。この皆が死に絶えた世界の中で、私だけがこうして生きている。地獄をもっと見るべきだ。この地獄を忘れてはならないように、今ここで、この凄惨さを肌に染み込ませろ。そんなことを、言われている気がした。私は死体を見て回った。悲しんだ。怒りを覚えた。それの繰り返しを延々とやった。気づけば、軍隊の手で確保され、すぐに病院へ送られた。あの老人は、救われたのだろうか。神様とかいうやつは、果たして本当に私たちを救ってくれたのだろうか。ぼんやりと、地獄の風景を思い返しながら、病院では検査を受けていた。
助かってよかった、そう医者は言ってくれた。私は笑った。心はそれに追い付かなかった。
今も、追いつくことはない。
私の心は、魂は、今もあの地獄の中を徘徊しているのだろうか。
「あら、寝坊。やらかしましたね」
心が、魂が、追いつくことは今日もない。
あの日、医者に浮かべた笑みをそのまま貼り付けて、今日もまた生きてみる。
ベッドを降りて、医務室から出ていった。
既に朝の九時を過ぎている。飛行甲板に、全員が集まっていることだろう。
「九条哲人」
彼の名を口ずさむ。
橘光を守り切った人。
あそこまでして、守り抜いた人。
「はてさて、どうなることやら」




