第四十七話 兄弟の行方
スウェーデン。ストックホルムの街から外れた、バルト海沿岸部に私はいた。すぐそこには、雄大なバルト海がある。星屑でも落ちて浮かんでいるのか、海面にはきらきらと輝く光の粒が見て取れた。何と神秘的な夜だろうか。風が吹く。追い風だ。私の動かす足が軽くなった。自然と、夜の闇に吸い込まれるように、溶け合うようにして海に向かって歩いていく。
海辺にたどり着くと、いつもの癖で妙なことを考えてしまった。
生きるとは、何だろうか。
私はあの子に、その答えを教えてやることはできなかった。哲学的な意味で、生きることの真実を与えることはできなかった。哲学とは、究極的な意味で「問う」ものだから。答えではなく、疑問を見出す学問だから。
あの子は苦悩するはずだ。
自分の在り方に、生きることに、誰よりも不安になるはずだ。しかし、私にはそれをどうこうすることはできなかった。答えを見つけて与えてやれなかった。だから、私はあの子に考え抜く力を与えた。問い続けて、考え続けて、一つの極論に至り縛られることのない可能性と柔軟性に長けた人間になるように育て上げた。それが、あの子に出来る精一杯のことだった。
「ダディ。準備はできた。次の町へ行こう」
「ああ。すまない」
星と海を見てぼうっとしていると、竜次が背中から声をかけてきた。大きなジープのハンドルを握って、こちらを眺めている。
竜次も、絶景を前に目を奪われたようだった。車から降りてきて、私の隣にやってくる。
「いやいい。ダディ、少し見ていこう。これは美しい」
「お前にも、そういう美的感覚があったのか。少しホッとしたよ」
「ロマンチストじゃなきゃ、筋肉を愛せないさ」
「なるほど。一理ある」
海。生命の母。
命の多くは、ここからやってくる。
「竜次。お前は、生きることに悩まないか」
「悩まん。俺は、ダディから与えられた命に無駄な拍動を許さない。その全てを筋肉に変えるまでだ」
「お前は大丈夫そうだ。変に私が育てなかったからだろうか」
「その口ぶりだと、なんだ。マイ・ブラザー哲人が心配なのか。確かに、弟は環境が変わりすぎた。普通の人間として生活していたのに、今では見る影もない」
「……そうだな。哲の環境は、大きく変わってしまったな。最初は私と二人、次は一人で生きてきたあの子に、今の兵器としての環境はどうなのだろうな」
環境。
人間を含めた生物にとって、環境とは絶えず進化・発展のきっかけを持って変化していく舞台だ。そのような進化・発展のチャンスを取りこぼさずに、環境変化に適応して生きていくことが「生存」の定義と言えよう。
「竜次。人間にとっての植物とは何か、説明できるか」
「できん。筋肉にとってタンパク質とは何かなら説明できる」
「ふむ。―――生物の環境において植物がその中心に位置している。それは植物が生態系の骨格に位置しているからだ。生態系を構成するのは生産者、消費者、分解者、非生物的環境の四要素だ。植物は生産者に分類される」
「なぜ植物が生態系の骨格に位置するんだ、ダディ」
「消費者や分解者は有機物を通して生存するため、唯一有機物を作ることのできる生産者が存在しなければ、その他の消費者や分解者も生存が不可能になるからだ」
「なるほど。タンパク質を取らなければ、筋肉が育たないことと同じだな。植物はタンパク質なわけだ」
「したがって、植物がいなければ人間を含めた多くの生物が死に絶え、生態系が成立しないことになる。また、植物が光合成を行うことで酸素が生まれ、人間を含めた多くの動物が生存している。人類の文明がここまで発達できたのも、植物があり、共に生きてきたからだと私は思う。人間を含めた多くの生物の環境には、必ず植物の存在が必要不可欠であると言えるだろう」
「いや、待てよ。人間が体外から植物の酸素を取り込むなら……。植物とはミネラルだな。体内では生産できない体外からの摂取が必要なミネラル。間違いない。勉強になったぜダディ」
「ふむ。哲と違って、人の話を素直に聞けないようだ。後に改善させるとしよう」
私が育てなかったら育てなかったで、竜次のように育つのならば問題があると言えよう。さすが私の妻だ。パワータイプに育ててくれている。
と、思った時だった。
竜次は腕を組むと、海を眺めながら話し出した。
「人間には植物が環境において必要だということは分かった。我が弟の環境に、果たして植物足り得る存在がいるのかどうか、不安ということだな。弟には木が、花が必要だというわけだ」
「……存外、理解しているから驚く」
「ダディの息子だ。遠回りな話は嫌いじゃないぜ。コミュニケーションにはユーモアが大事だ。筋トレだってそうだ」
「筋トレ?」
「筋肉とコミュニケーションするのが筋トレだ。筋トレはデートなんだよ。デート中にユーモアのない男はふられちまう。だから、絶えずユーモアを忘れない筋トレをせねばならない」
「具体的には」
「絶景スポットで腕立て巡り。美術展示を腹筋しながら鑑賞。ユーモアとインテリジェント溢れるデートだろう」
「その巨漢さゆえに警察を振り切っているな。ほどほどにするんだぞ、荒事は」
ため息を吐いた私に、竜次は自慢の上腕二頭筋を見せびらかしてくる。私とは全く逆のタイプに育ってしまった。重ねて思うが、全て彼女の育て方によるのだろう。
「弟の周りに木や花はあるさ。あの光学兵器は、きっと仲良くやってくれるはずだ。なかなかに弟を、いや仲間を思うことのできる機体のように見えた」
「橘光か。ああ、確かに彼女は哲の味方でいてくれるだろう。哲も相当思い入れがあるようだ。かなり前にあった、哲の暴走騒動で理解できる」
「弟は光学兵器に惚れたのかもしれんぞ、ダディ」
「かもしれないな」
「だが、篤史からファーストも助けて必死に戦っていたな。もしやファーストに惚れたか」
「かもしれないな」
「マッチョな方と付き合うべきだ。ダディもそう思うだろう」
「初恋は、男の一生を左右する」
「確かに。俺はこの背筋をガラス越しに見たときから、筋トレの虜になってしまったからな。一生この感情からは逃げられない」
「フランスの小説家の言葉だ。哲には、私のような人生は送って欲しくないものだ。実った初恋は一生を左右するどころじゃない。一生を決められてしまう」
「……」
「後悔はない。だが、緑がないと息苦しい。生きるには、自分だけの緑が必要だ。失ってはいけない」
「マミーは、俺たちを見ている。ずっと傍にいるさ」
竜次が肩に手を乗せてくる。
ヨレヨレの白衣のポケットに手を突っ込んで、私は踵を返した。
「すまない。弱いところを見せた」
「いいさ。俺たちは家族だ。弟も含め、ファミリーなんだから」
「立派な長男だ。頼りにしているよ」
ジープの前まで戻ってくると、助手席のドアノブに手をかけた。その時、道路の奥、闇の中から一人の男が現れた。
短めの黒髪をセンターパートにした日本人。アロハシャツにカラーレンズの丸メガネをかけた、チンピラ風の男。
「よお。我が愛らしくも素晴らしく憎らしい気に食わねえクソカスブラザー」
「なるほど。前半が全て嘘だということは分かった」
九条篤史。私の実兄。霊人一族九条において、最強の戦闘力を持った男だ。
右手には、霊石で出来た刀を持っている。
霊器だ。
「まだ、そんな刀を作れるほどの霊石を持っていたのか」
「大戦中に幸乃を『殺戮機械少女』から守って、さんざん倒したからな。霊石はけっこー持ってるぜ」
つーか、と汚い言葉で話を切り替えてくる。
篤史は獰猛に笑うと、刀の先で私を指し示した。
「てめえ、なぁーんで俺が刀をぶっ壊されたのを知ってんだぁーコラ。いつまですっとぼけてんだ。斬り殺すぞ、あぁ!?」
「恫喝。まさにチンピラだな。言っている意味も分からん」
「クソガキが起こした国連との戦争。あの時、俺の刀は『方舟』の超人に折られたんだ。俺の刀が折られたのを知っているのは、クソガキかファーストだけなんだよ。てめえ、なんで知ってる」
「……」
「近くにいやがったな。あの時。クソガキを助けもしないで、なにをやってやがった」
「……」
なるほど。思いの外、早めに篤史に勘付かれたようだ。私の隣に立った竜次は、篤史が攻撃的な姿勢であることを察知し、軽く拳を握って戦闘の準備をしていた。
「答えないか。まあいい」
「いいなら、去っていいかね」
「てめえだろ」
篤史は胸ポケットからタバコを取り出してくわえると、ライターで火をつけながら尋ねてきた。
煙を吐きながら、確信を持った瞳で睨んでくる。
「超人の封印を解いて、大戦前の世界中に霊石をばらまいたの、てめえだろ」
静寂が場を支配する。
吹き抜ける夜風に、私の白衣がバタバタと揺れた。
「……超人、とはなんだ。分からんな」
「はは、おいおいおい。ぶっ殺し確定コースだなこりゃ。『方舟』っていう九条一族の裏組織も知らないって言うつもりかよ」
「知らな―――」
「なぜクソガキを引き取って育てた」
篤史が言葉を被せてきた。
沈黙を返すと、タバコをくわえてこちらに歩き寄ってくる。
「お前は復讐にかられていた。ならば、私が育てる他はなかった」
「竜次っていう実の息子がいたのに、わざわざ甥っ子を一人で育てるか。九条家のどこかにやればよかったんだ。他の奴らも、てめえが育てることに反対しなかった。今更だが、なんかきな臭い」
「……甥っ子を育てることが、そんなにおかしいか」
「おかしいねえ。実の息子をアメリカに放っておいて、甥っ子を一人で育てる奴は鼻が曲がるほどきな臭いね」
「……」
「『方舟』の人間だろ、お前」
「……ああ」
端的に返事をする。篤史は私の目の前までやって来て立ち止まる。目と鼻の先まで顔を寄せてきて、とてつもない殺気のこもった目で見つめてくる。
「なぜクソガキを育てた」
「『方舟』は死産児を回収、迅速に封印活動を行う組織だ。哲は幸乃の霊石を埋めこまれたとはいえ、半死産児とでもいうべき状態だった。超人に寄った肉体に、幸乃の霊石がどう作用するか心配だったんだ」
「あのガキが超人化したら、『方舟』に持っていって封印するつもりだったんだろ」
「そうだな」
「いつからだ。いつから『方舟』に協力していた」
「大戦が始まる数年前からだ」
「なぜ超人の封印を解いて、霊石を世界にばらまいた!!」
篤史の激昂に、本気を感じた。容赦をしない男だとよく知っている。弟相手でも、やる時はやる兄だと自信を持って言える。
だから、私はポケットから手を出して答えた。
循環状態を発動する。
篤史も刀を握り直して、くわえていたタバコを私の胸に吐きつけてきた。目が本気だ。前回の一戦とは違い、本気でやり合うつもりだ。
拳を握った。
開戦の合図を送る。
「残念だが、答えるつもりのない質問だ」
「そうかい、そいつはサイコーに残念だ」