第四十五話 化け物に生まれて
闇の中にいた。
何も見えない世界で、俺は漂っていた。死んだのか。ならば、ここはあの世か。あの世ならば、天国か、地獄か。はたまた神のいる世界にでもやってきたか。
神。神か。
(神様は私たちに成功して欲しいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけ)
これは神の愛の宣教者会の創立者、マザー・テレサの言葉だ。俺はカトリック教会に所属しているわけではないが、彼女の神様という言葉を我々人間の創生者のような存在だと仮定して考えると、なるほど確かに納得できる。
成功したいという考えは、結果を得ることを重要視している。そうやって、結果主義に生きるのも悪ではない。これは俺の勝手な思想だが、人生について説明しろと言われれば、ただ一言、後ろ歩きだと答えるかもしれない。俺たちはいつだって、昔のことを振り返られる。それは歴史書や文化として残されていたり、写真や記憶に生きている。そう、俺たちは過去のことは、後ろのことは視界に映っているというのに、未来のことだけはほとんど分からない。それはまるで、後ろ歩きだ。後ろ向きに進んで行く中で、踏みしめてきた足跡を見ることは出来るが、決して背中側の景色は分からない。時には躓き、時には転ぶ。怪我をするのである。
しかし、だからと言って怖気づいてしまう理由にはならない。成功や結果を約束されていなければ歩けない。背中の先が見えないと歩けない。そんな人間は、ひどく弱い。もしも神が俺たちを創ったとして、俺たちに成功を期待するならば、人間には未来を見通す能力があっていいはずだ。神がそういう機能を組み込んでいるはずだ。
しかし、それはない。
俺たちは後ろ歩きするように創られている。未来に怯えながら未来に進むことを強いられている。だが、神は代わりに勇気という能力を俺たちに組み込んでいる。それは後ろ歩きという危険な生き方を行うための原動力だ。
とすれば、こうは考えられないだろうか。神は俺たちに成功は望んでいない。だから成功するような能力は与えなかった。しかし、俺たちには勇気がある。後ろ歩きをするための力が、勇気がある。つまり、神は俺たちに勇気をもって後ろ歩きすること、挑戦することを望んでいるのだ。
そうして、俺たち人間を創ったのだ―――
「―――なんて、無理無理。思えねえよ馬鹿らしい」
そうやって聖人の言葉を飲み込んでも、やはり吐き戻してしまう自分がいた。
「神なんていない。神は死んだ」
勇気とは人間の第一の資質である。ソクラテスの言葉だそうだが、今の俺を動かしているのは、果たして立派な勇気だと言えるのだろうか。俺に人間としての資質が宿っているのだろうか。
「勇気。人間の、第一の資質」
「―――ゆうき? なにそれ」
真っ暗闇の中で思考と一人事に夢中になっていると、後ろから声が聞こえてきた。
振り向いた瞬間、闇が晴れていく。
気づけば、辺りには大量の死体が散乱した、地獄のような荒野が広がっていた。超人の少女が、屈託のない笑みを浮かべて立っている。
「勇気っていうのは……。恐ろしいものに立ち向かう前向きな力、ってやつかな。大切な人を守るために、銃弾飛び交う戦場へ踏み込む力……なのかな」
「ああ。弱さの証拠だね。つまり」
「……弱さの、証拠?」
「うん。だって、強かったら勇気なんていらないもん。怖いものがなかったら、勇気なんてないもん。私、そんなもの感じたことないよ。大変なんだね、人間って。弱いと面倒くさそう」
「弱者は嫌いか」
「嫌い? ああ、考えたこともないね。食べると美味しいから、私は大体の人が好きだよ。弱いのは関係ないかな」
「……そうか。そういうレベルで考えちゃいねえよな。さすがだわ」
なぜこの女が目の前にいる。俺の身体に反転霊石が埋まったまま、ということか。ここは夢か。それとも、深層意識で超人と繋がってしまっているのか。よく分からない。
「とーこーろーでー」
死体の山を踏みしめて、超人の少女は勢いよく抱きついてくる。
胸に飛び込んできた彼女をキャッチすると、キラキラと瞳を輝かせて俺を見上げてきた。
「哲人君って普段からそんなこと考えてるの。結構どうでもいいこと考えるんだね。意外!!」
「幻滅して、出ていってくれていいんだぜ」
「? なんで。哲人君が好きだから、哲人君のことは何でも理解するよ」
「……そりゃどうも」
「あれ。なんか機嫌悪いっぽいね」
「機嫌悪いかもな―――いよいよ腹が立ってきた」
死体の上に座り込む。
俺は吐き捨てるように言って、作った右拳を真下に叩きつけた。そこには、下半身のない女性の死体があった。頭を殴りつけてしまったが、そんなことはどうでもいい。
「ふざけんなよ。俺は、なんなんだ。俺は一体、何から生まれてきたんだ。俺の父親は、あれは何者なんだ」
フラッシュバックしてくるのは、人の腕が何百とより合わさって出来た翼。鋭いサメのような歯。目の前でニコニコと笑う少女と同じ、白髪に赤い瞳。
河野裕二。
俺の父親は、何だというのか。
「一つだけ事実がある。君は、私と同じ怪物だよ」
俺の胸に頬ずりをしている少女が、幸せそうに吐息を溢して言った。
思わず目を奪われる。
この少女は、俺と同じ怪物だ。反転霊石を持った死産児として生まれた超人。数百年もの間に渡って封印され、大戦が始まる前にようやく封印が解かれて成長した。育ての父親は本当の父親ではなく、しかし俺のためにあっさりと育ての親と居場所を捨てるようなイカれた怪物。人を食うのが好きで、殺すことも好きな怪物なのだ。
俺の前に、俺よりも残酷で最悪な怪物がいる。
救われた気がした。そして、導いて欲しいとすら思った。思わず肩に手を置いて、顔を寄せて尋ねた。
「お前は自分が怖くないのか。超人として生まれたことが、血飛沫を浴びるのが楽しいことが、周りと違うことが怖くないのか!?」
「なになに。私に興味があるの。いいことだね」
「教えてくれよ。なあ、お前は自分が何者なのか、怖くないのか。自分はなんのために生まれたか、生きているのか、不安にならないのか」
「なんで怖がるの。私は私」
迷いなく言い切った超人は、肩に乗っている俺の手に自分の手を優しく添えてきた。
包み込むように握られる。そして、こう言われた。
「命なんて、理由なく生まれて理由なく消えるもの。考えるだけ無駄じゃん。やめなー、自分のこと考えるの。もっと人生を楽しもうよ」
「なんで、そう言い切れる」
「だって、私が理由なく命を奪っているから」
「……」
「特に理由はないけど、たくさん殺したよ。強いて言うなら暇だったり、ブスだったり、ちょっとムカついたから。なんで暇なのか、ブスだと思うのか、ムカついたのかは知ーらない」
「……ああ」
「引っ張り出した腸を口につなげて、これで飲まず食わずで永遠に生きるのかなーって実験もしたよ。子どもだったかな。死んじゃったけどね。でも、あの時のワクワクは覚えてる。楽しいことを考えるのは、幸せな時間だよ。ああ、生きるって楽しいなーって思った」
「……ああ。そうだろうな」
「いじめが楽しいって気づいたのは、その時からかな。殺すのはすっきりして、いじめは楽しい。食べるのは美味しい。そうやって、いろいろと楽しいことを知ったんだ。自分が何者かとか、どうでもいいくらい、この世界は楽しいんだよ。だからね、哲人君。自暴自棄になっちゃだめだよ。君が何者でもどうでもいいんだ」
頭を撫でられる。
姉や母親がいたら、こうやって慰めてくれるのだろうか。
「せっかく生まれたんだから、幸せになろう。一緒にさ」
「……お前は人間と一緒だ。共感できるよ、すごく」
「本当? 嬉しい!! もっと私のこと理解して!!」
気に入らなければ他者の不幸や苦しみを願う。それで気持ちが晴れさえする。実際、科学的に他者の悪口を言えば快感の脳内物質が分泌されるとの研究結果もあった。そして、何よりも食べることは美味しい。命を奪い吸い取ることに、舌は絶大な幸福をもたらす感性を有している。
人は動物を理由なく殺す。
必要以上に動物の肉を食らう。毛皮のバッグが欲しいから、動物の皮を剥ぐことも躊躇わない。部屋に入った虫は殺す必要はないが生かす理由もないので叩き殺しておく。
よく考えてみれば、人間だって大した理由も意味も価値もなく、命をさんざん奪ってきたじゃないか。人間は人間も殺したし、虐めたし、食べたことさえある。
長い歴史を踏まえれば、別に超人の少女はどこにでもいる人間のように思えてならない。
また、彼女の好きな相手には自分のことを知って欲しい、好きな相手は自分だけのものにしたい―――そういった本能、欲望、感情は超人と人間の間に違いはないと思う。
超人の少女は、どこでにもいる少女なのかもしれない。気に入らなければ壊し、好きなものはとことん欲しがり、気持ちいいことだけを求める生き方は、野性的であり子供的。人間の子供のようだった。
そうだ。
殺した。俺だって、さんざん殺した。百体以上の『殺戮機械少女』を殺した。しかし、それらの殺戮には理由があったはずだ。光や『アルカサル』を守るため、といった理由が。意味が。価値が。
あった、はずだよな。
「……あったのか。それって、本当にあったのか」
疑う。
疑ってしまう。
だって、そんな大層な理由が、意味が、価値があった上での殺しだというのなら―――どうしてあんなにぽんぽん殺戮を行えたのだろうか。
物質Nで溶解させた。燃やした。吸引させて心臓を止めた。その行為は作業工程に過ぎなかった。
「大切な人を守るために、銃弾飛び交う戦場へ踏み込む力、だっけ」
超人が俺を見下ろして、頬に手を添えてくる。
そして、断言された。
「それってさ、結局、ただの殺戮行為だよね」
「……」
「だってさ、私は知ってるよ。私は気まぐれで命を奪っているから、命は気まぐれで散るものだって。哲人君もそうじゃなかった。殺したよね。この間、いっぱい。どう思った? 何か感じた? 必死に殺して精一杯だったよね。―――それだけだったよね。命なんて、価値がないから、人はいつまで経っても戦争をやめないんだよ。大きな価値があって命があるなら、とっくに世界は平和になっているはず。大きな価値が命にあるのなら、どうして私が理由なく奪えるのかなー」
「……」
「何も考えずに、美味しいーってご飯食べるよね。殺して食べてるよね。あれと一緒だよ、戦争なんて。殺戮なんて。勇気とか、戦場にそんなものはないよ。殺すか殺されるかの状況で、アドレナリンがドバドバ出て、ハイになって、興奮して殺すだけ。殺しに大層な意味はない。あるのは快感と興奮だけだよ」
「……ああ。知ってる」
「あはは。そうだよね。だから、私は人を気まぐれで殺して食べる私をなんとも思わないよ。普通のことだもん。そういう生き物なんだよ、私って」
「……俺も、受け入れるべきなのか。あの化け物の子どもで、霊人か超人かすらもあやふやな、こんな俺を受け入れて生きるべきなのか」
「そうだよ。だって生まれちゃったんだもん。生きていていいかどうかなんてくだらない。そんなことに悩むのはやめよう。私と一緒にお父様たちをブチ殺して、邪魔な『殺戮機械少女』もブチ殺して、住みやすい世界にしようね。そうしたら、この体から出ていってさ、いっぱい楽しいことを二人でしようね。えへへ」
超人は笑った。
つられて、俺も笑ってしまった。まったく、この少女の言うとおりだ。こんな怪物みたいな少女も、意味なんて理由なんてないまま、生まれて幸せに生きているのだ。
「ははっ」
俺も等しく怪物ならば、なぜ俺だけ悩むことがある。
「はは、ははははははっ!! ああ、そうだな。そうだよな。実存は本質に先立ってしまうんだ。分かっていたが、受け入れられなくなっていた。でも、いいんだ。これが世界なんだ」
「あれ、ちょっと元気になった。嬉しいよ」
「お陰様で元気をもらった。『方舟』を潰すのは賛成だ。俺は俺なりに奴らを殺す」
九条蓮は、全ての霊石を回収して反転させ、超人として復活させるという目的を暴露した。それはつまり、光やファーストたちからも霊石を奪いにくるということだ。霊石を奪われた彼女たちは、奪われるだけで死なないならば、普通の人間として生きていくのだろうか。生きていけるのだろうか。
(エマさんと結婚する)
もし、それが彼女たちの幸せならば、それはそれでいいことだ。
(ベトナムでバイク便をやる。酒とタバコで毎日が過ぎる。海で変な日焼けをするんだ)
だが、俺は違う。
俺は霊石を反転させられたら、九条幸乃になってしまう。
そうなってしまえば、何もできないじゃないか。
エマさんへのプロポーズも、ベトナムに移住するのも、酒やタバコ、オートバイにだって乗れやしないじゃないか。
光を連れて、遊びにいけないじゃないか。ファーストのコーヒーが、飲めないじゃないか。
死にたくない。
だから、死ぬ前に殺してやる。
「―――ブチ、殺す」
自然と本音が漏れていた。
俺の呟きを聞いた超人は、パチパチとまばたきをして、優しく微笑んで言った。
「うん。ブチ殺そう。君を殺しにくる奴ら、全部」
作り笑いを返す―――お前もいつか殺してやる、という言葉は飲み込んで。
こいつが、なぜ俺に執着するのか。
そんなことは、もうどうでもよくなった。興味がない。こいつが俺に好意を寄せる理由など、こいつを殺すために必要なことではない。
(殺そう。俺が楽しく生きるために。殺戮しよう)
命に大した価値はない。俺やこいつのような怪物にも、神は平等に命を与えるのだから。
だから、俺は俺の存在理由に悩む必要はない。
俺が何者なのか、考える必要はない。
生まれたから、生きている。
それだけのことだ。
(俺は楽しく生きる。生きるんだ。楽しく生きられるなら、いくらでも殺してやる)
生きるためには、殺さなくてはならない。
俺は化け物で、殺されてしまうから。
殺られる前に、殺ってやる。