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第十九話 橘光

 ソフィアの死亡から翌日。今日は休みを言い渡された。

 俺は『アルカサル』地下一階の喫煙スペースでタバコを吸っていた。自動販売機が2つあり、その横に灰皿だけが設置された廊下の隅っこだ。もう何本目かも分からないタバコをくわえると、横から火のついたライターが差し出された。

 いつもなら歓喜に震えるべき相手―――エマさんがそこにいた。優しい微笑みをいつものように向けてくれる。俺は差し出された火でタバコの先を燃やし、大きく息を吸い込んだ。

 煙をゆっくりと吐き出す。

 同じように一服をはじめたエマさんが、横に並んできた。

「怖い顔してるじゃないか。随分と」

「……すんません」

「いやあ、いいよ。アリスから事情は聞いているからね。私も、内心穏やかではないさ」

「……」

「あれ。光ちゃんが一緒じゃないけど、大丈夫なのかい」

「ああ、この階に俺と光の寮があるんで、光は今、部屋にいます。だから、距離的に問題はないっす」

「なら良かった」

 俺は、エマさんとの会話を広げるだけの気力もなかった。ぼうっと、無心になってタバコを吸っていた。それだけの事態が、あの日、任務から帰ってきた俺に突きつけられた。






『アルカサル』の駐屯地にヘリコプターを停めると、待っていたのはアリスだけだった。演習場を見れば、エマさんたち自衛科の人間たちが走り込みや近接戦闘の訓練を行っており、近接戦闘の訓練の中には光の姿があった。自衛官5人を相手に体術だけで対応し、いとも簡単にあしらってしまっていた。こちらを見ると、帰ってきた俺に小さく手を振ってくる。

 そして、小走りにヘリコプターに駆け寄ってくると、俺の座っている助手席のドアを開こうとする。しかし、その手をアリスがとどめた。光はふくれっ面になってようやく俺のドアを開けると、バリアの完全に取れていた俺に改めて電磁波の膜を展開してくれる。

「むう。バリアを貼ったら訓練に戻れって」

「仕方ねえよ。仕事が終わったら、一緒に飯食いに行こうぜ」

「ん」

 少し頬を緩ませた光は、離れたところにいる自衛官たちの輪の中に入っていく。代わるようにして、アリスはヘリコプターの後部座席のドアを開けて入ってくる。

 俺は振り返って尋ねた。

「なんで乗るんすか」

「ファーストは降りれねえだろう。降りればうちの連中に気づかれる」

 ちら、と隣を見ると、いつの間にかキャップにサングラスにマスクをしたファーストがいた。マスクは、前にエマさんがつけていた物質Nを吸引しないためのマスクだ。俺の運転手をしている『アルカサル』メンバーの一人、みたいな設定だろうか。不審者みたいな変装で誤魔化しているが、これじゃいつか皆にばれる気がする。

「『アルカサル』のレーダーにファーストの霊石が引っかかったりしないんですか」

「レーダーは対象範囲を設定して、そこに霊石反応があるかチェックする。今は、この基地を対象範囲外にしてあるから問題ねえよ」

「なるほど。―――で、どーいうことっすか」

 俺は本題に入った。遠くで訓練を手伝っている光は、男の自衛官の拳を簡単に受け流して足を引っ掛けていた。転んだ男性自衛官の手を取って引き起こしてやり、また別の自衛官と組手を取っている。

「アリスさん、そういえば俺に妙なアドバイスしてきましたよね。相手が度肝を抜くようなやつかもしれないけど、捕獲しろとか、何とか」

「ああ」

「何か、知ってるんですよね。爆死したソフィアのこと、そして光のこと」

「……ああ。話してやるから、落ち着け」

 俺は十分に落ち着いている。何か変な態度を取ってしまっただろうか。そこで、助手席の窓ガラスに映る自分の顔を見た。……自分で自分にぞっとするほど、能面みたいな無表情な顔をしていた。ああ、そうか。俺は、怒っているんだ。でも、何に、なぜ、怒っているのだろうか。

 自分を尊ぶだけの生き方を選んだ。タバコやバイクを楽しむために、エマさんと結婚するために、そして―――光たち仲間との日常を送るために、ただ生きている。

 だから、俺は許せないのだろうか。橘光とは、俺の中の日常の一部であり、それはかけがえのない当たり前の存在だから。

「ああ。本当だ。俺、切れてますね。なんかすいません」

 俺は、俺の普通の日常が奪われそうで、怒っているのだ。

 何に。そんなもの、決まっている。

「『トリグラフ』でしたっけ。光を奪いに来たら、殺してでも追い払います」

「だめだ。お前が物質Nの力を使ってみろ。それこそ、『トリグラフ』以外の世界中の秘匿国防組織もここに乗り込んでくる」

「やってきた『トリグラフ』の機体を全部破壊すればいいんじゃないですか」

「それこそ立派な戦争になる。落ち着いて聞けよ、お前らしくもない。まずは話を聞け、長くはならない」

「……すいません」

 どうやら、俺は相当頭に血がのぼっているようだ。タバコを取り出して口にくわえると、火をつけないでくわえておいた。これで下手に喋りはしないだろう。

 俺が聞く体勢に入ったことを察知したアリスは、ようやく事の次第を語った。



「光は―――クローンなんだ」


 

 一瞬の静寂の後、俺はオウム返しをしてしまった。

「……クローン?」

「お前たちが出会ったソフィアは、そのオリジナル。戦時中のソ連は、ソフィアに霊石の適性があることを知るや否や、クローン技術でソフィアの分身を作り出した。何十体、何百体とな。その一体が光だ」

「……光は、家族を戦争で失って、軍に入って兵器化したと言っていましたよ。それに、自分の前に51人も適合失敗で死んだ軍人がいたとも」

「それは光が後に植えつけられた、オリジナルの記憶だ。ソフィアに霊石を埋め込んでも問題がないと判断した『トリグラフ』は、ならばソフィアのクローンを作って今後も霊石に適合する個体を増やそうと考えた。そのためのクローン技術だ。肉体的に霊石適合のある個体を量産し、見つけた霊石をばんばん個体に埋め込んでいって『殺戮機械少女』を量産した。光はそのクローンの一体で、特別大きな霊石を埋め込まれてSクラスの実力を身に着けた個体だ」

「冗談でしょう。さすがに狂った話すぎるんですが」

「冗談じゃねーよ。だから、今回ロシアの光学兵器が逃げた件にお前を派遣した。光が行ってお前が留守番でも良かったが、お前を行かせた。逃亡したロシアの光学兵器が、光と同じソフィアのクローンである可能性が高いと私は思ったからだ」

「……実際は、オリジナルでしたがね」

「ああ。だが、これで向こうの狙いは分かった」

 アリスは舌打ちをして続ける。

 後ろから、貧乏ゆすりの音が響いていた。アリスも内心穏やかではない証拠だ。

「ソフィアよりも、光が欲しくなったんだろう。ソフィアは長年、クローンを量産するために『トリグラフ』に拘束されていたはずだ。それを日本にやって、こっちが殺したように演出して、光を返せと言ってきた。奴ら、光を取り戻して何かしようと企んでやがる」

「寿命だったんじゃないかしら」

 不審者みたいな格好をしたファーストが、椅子に深く座り込んで、外からあまり見られないようにしながら言ってきた。

「ソフィアがクローンの元だっていうけれど、大戦時の科学力じゃクローン人間なんて作れはしないわ。恐らく、そのためにソフィアに霊石を埋め込んだままクローニングを行った。霊石エネルギーで生命力がみなぎっている母体なら、未熟なクローニング技術でも何とかなったのでしょう。遺伝子レベルまで普通の人間よりも生命力がある。クローニングの核であるソフィアの抽出された遺伝子の成長速度が格段に早かったから、クローニングが成功していた。けれど、それは全て霊石のおかげ。霊石エネルギーが異常な量とスピードで使用され続け、霊石の力が弱まっていって、クローニングが失敗するようになり、霊石適合体を量産できなくなった。生命維持に回すべき霊石エネルギーの量も減っていけば、自然とソフィアの寿命は減っていくことになる」

「さすがに鋭いな、ファースト。ソフィアは、霊石エネルギーをクローニングのために大量に消費していたはずだ。くわえて、きちんと飲み食いさせてもらえていたのかどうかすら怪しい。『トリグラフ』は結構、『殺戮機械少女』に対して冷たいからな」

 それは、今回の一件で身を持って知っている。すると、ソフィアは家族を失って軍に入り、霊石の適合に成功し兵器化した。そして、ソフィアの身体には霊石の適性があるゆえに、未熟なクローニング技術を施され、その度にソフィアの霊石が生命エネルギーを遺伝子に供給して何とかクローニングを成功させていた、と。その結果、ソフィアの霊石の力は弱まっていった。そして、霊石の力、生命エネルギーが弱まるということは、ソフィアの寿命が近づいてきていることを意味する。

 だから、か。

「用済みだから消して、光が欲しいということですかね」

「だろうな。光以外の個体は、大戦中にばんばん死んでいって、今は大して残っちゃいないはずだ」

「だったら、そのわずかに残っているクローンを使えばいい」

「ソフィアの件で学んだんだろう。クローンの元は、霊石の大きい個体の方が長期的にクローニングできることをよ」

「この現代においてもなお、クローン人間作って人間兵器を量産する気なんですか、『トリグラフ』は」

「『殺戮機械少女』も有限だ。クローニングで確実な兵器化の叶う器は、確保しておきたいんだろう。今後のロシア国防のために」

「……」

 俺は沈黙し、外で活動する光を見つめる。たくさんの自衛官と接近戦の訓練を行った彼女は、汗一つかかずに木陰で体育座りをして休んでいた。そこにエマさんが現れて、缶ジュースを手渡されている。二人は座り込んで楽しそうに談笑していた。

 あれが、光の日常だ。

 そのはずだ。そして、あれが俺のための世界だ。

「アリスさん」

「何だ」

「光は、ロシアに戻りたいですかね」

「……んなわけねーだろ。どう見たって」

 アリスは俺と同じように、エマさんと談笑する光を眺めながら呟いた。ファーストは何も言わず、窓の外に顔を向けている。

「明後日、光を渡すんですか」

「ふざけろ。明後日、『トリグラフ』の使者がやってくる。まず、捕獲途中で爆死体を発見したってシラを切る。それで向こうさんが諦めず―――」

「―――強硬手段を取ってきたら、どうします」

「総力を挙げて戦う。光がいなきゃ、公式的にはうちの『殺戮機械少女』はゼロになる。代わりにAクラスやBクラスの機体を差し出されても、光の代わりは務まりはしねえ。能力も、存在もな。どのみち未来の国防業務に限界が来る。だったらここで一旗揚げるぜ」

「俺は、戦っちゃ、いけませんか」

「絶対にやめろ。お前が殺されるまで世界中から追いかけ回されるぞ。『アルカサル』にもいられなくなる。重ねて言うが、だめだ。お前は非公式の存在なんだからな」

「一緒にいられなくなるようなこと、しませんよ。分かりました」

 嘘などついていない。

 俺は自分が光との生活を好ましく思っているから、光を守りたいだけだ。戦って守ることで、一緒にこれまで通りにいられるならば、何の迷いもなく拳を振るう。だが、それをして俺の存在がバレれば全ておしまいなのだ。光が『アルカサル』に残れても、俺が一緒にいられないならば、そのような愚行は取らない。

 俺は、自分を尊ぶ人間だ。

 光を守って自分が死ぬ、などという狂気的な自己犠牲の精神は持っちゃいない。そんなことをしても、誰のためにもならないのだから。何より、俺が死んでしまっては、俺の人生なのに意味がない。俺にできることは、何もないのだ。





「哲人くん。光ちゃんは、今回のこと、知っているのかな」

「知りませんね。アリス部長が、内緒にしとけって言うので」

「そうかい」

 壁に背中をつけて、ずるずると俺は沈み込んでいく。床に座り込んだ俺は、真上の換気扇に吸い込まれていく煙を見つめていた。

「光って、大戦中に記憶をなくしたから、こっちに来たときアリス部長から名前を付けてもらったって言ってたんですよね」

「そうだね」

「まあ、それも植え込まれた記憶なんでしょう。脳みそ弄ったのか、そうだと言い聞かされて育ったのかは、知りませんが。お前の家族の記憶が曖昧で、自分の名前も分からないのは、戦争での怪我のせいだよーって感じで」

「だろうね」

「あと、あいつ、大勢を巻き込む戦争になる前に決着をつけるために戦う、って信念があったんですよ。あれ、すげーかっこよかったんですよね。兵器になったばっかで、右往左往していた俺には、眩しかった。頼りになった」

「……」

「そんで、あいつ、めちゃくちゃ優しい奴なんです。俺、何度も助けてもらったんですよ。はじめて病院で会って、飛び降りたとき助けてくれました。『アルカサル』に保護してくれて、耐えられない孤独に泣いちまったら朝まで起きて付き合ってくれました。他にも、ウラン兵器が襲って来たときは命がけで俺を守って戦ってくれました」

「……哲人くん」

 換気扇を見上げる俺の視界の端っこに、哀しそうな目で俺を見下ろすエマさんがいた。どうしてそんな目を向けられるのか、最初はまったく分からなかったが、舌にしょっぱい味が広がって気がついた。

 涙が一筋、右目から流れていた。俺はそれを拭う気にもなれなかった。新しいタバコに火をつけて、勝手に口が動き始める。

「なんであんなにいい奴を、俺から奪うんですかね。許せないんですよ」

「……」

「あんなにいい奴が、ロシアに帰ったらクローニングされる毎日を送るんですかね。人間のクローンって、普通に作ると欠陥が多いらしいじゃないですか。となれば、光も霊石エネルギーをがんがんクローニング時に遺伝子とか細胞とかに使わざるを得なくなるんですかね。あ、妊娠させて生む方法もありましたっけ。じゃあ、自分のクローンを孕んで生んで、必死に命をすり減らしていって、死ぬんですかね。いや、意外といい組織で、幸せになれる可能性だってありますかね」

「……」

「でも、やっぱりくそったれな毎日が待っていると思うんだよなあ。ソフィアを簡単に爆殺して、代わりに光を寄越せってほざく奴らですよ。光も寿命が来たら捨てられるのかな。いい奴らじゃ、ねえよなあ」

「哲人くん。もうやめな」

「? 何がですか」

 エマさんは俺の吸っていたタバコを取り上げる。見上げると、やはり哀れむような顔をしていた。

「吸いすぎだ。死んじゃうよ」

「いや、まだそんな吸ってないっすよ」

 エマさんは俺の足元に置いてある、ソフトパックのタバコ箱を指し示した。残り一本しか残っていないタバコ箱だ。

「君、チェーンしてほぼ一箱開けてるよね。灰皿に落ちている量とこの一本、足して19本。私は今日、はじめてここに来るから、灰皿にあるのは私のものじゃないよ。これは全部君のもの」

「……」

「しかも君、めちゃくちゃ重いタバコ吸ってるよね。確かそれ、タール20超えでしょ」

「まあ。これが好きなんで」

「あと、君、その顔は二日酔いでしょう。昨日、相当飲んだね。光は飲まないし、一人でやけ酒でもしたのかい」

「……気が狂いそうなんです。『トリグラフ』が明日、光を連れ戻しにくる。もしも戦闘にでもなれば、勝てば素直に引き下がるのか。もっと大きな戦力でやってくるんじゃないか。エマさんやアリス部長たちは、死ぬんじゃないか。嫌な考えが頭を巡って離れないんです」

「だからって、身体を追い込んでも何の解決にもならない。君らしくもない、自暴自棄になるなんて」

「……俺らしいっすよ。これが」

 エマさんは俺から奪ったタバコを灰皿に投げ入れる。くわえタバコをして俺を見つめる顔には、少し警戒心があるように感じた。

「人を殺したあの日、俺は逃げようとした。罪や責任とは向き合わず、自分の命を守るための選択をした。あの日から、自分を尊ぶだけの生き方を選んだ。俺は、俺の幸せのために生きている。酒を、タバコを、好きなことをするために生きている。俺は自分が気持ちよく生きるための生き方を選んだ。酒とタバコで不安を忘れる今の状態は、俺らしいあり方そのものなんです」

「自分を尊ぶだけの生き方を選んだ。苦しいこととは向き合わない生き方を選んだ。だから、その手段を奪うなってことかい」

「ええ。これ以上、俺から奪わないでください」

 光は、このままでは間違いなく取り返される。『トリグラフ』と戦争にでもなれば、俺は戦えず、ファーストも『アルカサル』には協力しないだろう。すると、光だけが『トリグラフ』の『殺戮機械少女』に対抗する唯一の絶対的戦力なわけだが、相手も光を確実に連れ戻すためにSクラス『殺戮機械少女』を放ってくるはずだ。少なくとも、光を取り戻すだけの圧倒的準備をもってここを訪れる。だが、敵の狙いが光である以上、光だけを戦わせることは向こうの思う壺だ。しかし、光以外では自衛科以外に対応できる戦力はない。戦争にならず、交渉だけで済むとも思えない。ソフィアを日本に放って、爆破までさせる相手だ。間違いなく戦いになる。

 俺は、それを黙って見ているしかない。

「光ちゃんは、奪わせないよ」

「……」

「アリスがいる。私たちがいる。だから、大丈夫」

「……そう、ですかね」

「ああ。それに君、苦しいことから逃げて自分しか尊重しない人間だって言うけれど―――それは無理があるよ」

「え?」

「そんな人だったら、光は君にあれだけ懐かない」

 微笑んだエマさんは、自動販売機に近寄るとサイフを取り出した。硬貨を何枚か投入する。

「昨日の昼間、君、見たことのない運転手と一緒にヘリで帰ってきたろう。光ちゃんと私が喋っていたの、気づいたかい」

「ああ、はい。木陰で話してましたね。楽しそうに」

「そう。光ちゃんは、楽しそうに君のことを話していた」

「……俺のこと?」

「ああ」

 エマさんは缶コーヒーを2つ買うと、片方を俺に投げてくれた。キャッチした俺に、相変わらず優しい顔で笑ってくれている。

「光ちゃん、君のことがよっぽど好きでね。哲人君は、人を助けられる人だって言ってたよ」

「身に覚えはないっすね」

「川で倒れた光ちゃんを、君自身凄惨な怪我をしているのに助けたんだろう」

「……ああ、確かに」

「君は、君自身の価値を君自身だけで見つけようとしているね。だけど、それは間違っているよ」

「どこがですか」

「他人からの評価もまた、その人の価値を形作るものさ。世界で君一人になれば、君に価値なんてありはしない。だって誰もいないから、関係ないもんね。人は人に囲まれて、はじめて必要とされる、意味や価値を持つ。光ちゃんは、君のことが大好きだ。アリスも、私も好きだよ。君はそれでも、自分のことしか尊重しない、なんて生き方ができていると思うのかい」

 自分を好きだと言ってくれる人がいる。自分と一緒にいたいと言ってくれる人がいる。自分を尊重するだけの生き方を徹底していたら、そんなことを言ってくれる人がいるのだろうか。

 ファーストはよく、俺を正直な人だと言ってくる。

 少し、それを自覚した瞬間だった。

「……すんません。なんか、イラついてました。屁理屈ばっかこねて……申し訳ないです……」

「あはは。よっぽど光ちゃんが大切なのか、君が意外と情緒的なのか、あるいは両方かな」

 缶コーヒーのプルタブを開けて一口飲んだエマさんに続き、俺も奢ってもらった缶コーヒーを口に含んだ。タバコはポケットに突っ込んでおき、今日はもう禁煙だと心に誓った。

「まあ見ててよ。アリスがいれば、『アルカサル』は落ちない」

「アリス部長に、何か作戦でもあるんですか」

「……ああ、そうか。そういうことか」

「はい?」

「いや、内緒。そうだね、作戦というか、奥の手があるよ」

「?」

 エマさんは、いたずらでも企む子供のように笑っていた。俺は首をひねり、とりあえずコーヒーを飲んでいた。

 すると、廊下の突き当たりにあるドアが開いて、光がひょっこり顔を出してきた。白いTシャツに短パンを履いた部屋着の光は、むすーっといつものように不満顔を作って俺を見ていた。

 どうやら、放っておきすぎたようだ。

 あんな顔を、もう見られない未来があるかもしれない。いや、すぐそこにまで差し迫ってきている。しかし、今は、エマさんの言葉を信じよう。

「あはは。ふてくされてるよ、あれ」

「一緒に録画した映画を見るって約束があったんです。行きますね」

「うん。あ、シャワー浴びな。君、さすがに匂うよ」

「うす」

 俺は、エマさんに軽く頭を下げて部屋に戻っていった。だが、哲人くん、と背中に声がかけられた。

 振り向くと、そこには俺を真っ直ぐに見つめるエマさんがいた。

「君、なにか企んでないよね」

「『トリグラフ』の連中が来ても、戦いませんよ。だって、そんなことしたら、俺が世界中から殺されちゃうじゃないですか。光とも一緒にいられません」

「ああ。だから、何もしないでくれるよね」

「もちろんです。エマさんたちを信じます」

「……うん。ありがと」

 未だに俺から目を逸らさないエマさんに、背を向けた。嘘などついていない。今の俺は、皆を信じること以外に何もできないのだから。






「むう。遅い」

「すまんすまん」

 部屋に入ると、光が俺の手を引っ張ってリビングに連れていこうとする。しかし、途中で浴室に押し込められて、俺はエマさんの言っていたことを思い出した。さすがに吸いすぎたな。

 俺は服を脱いでシャワーを浴びる。冷たいシャワーだ。

 血がのぼっていた頭が整理されていく。思考が研ぎ澄まされる。そして、先ほどのエマさんとのやり取りを振り返って、一つの真実にたどり着いた。

 そもそも、『アルカサル』と『トリグラフ』が戦争になった時点で全て終わりだ。エマさんやアリスは死ぬかもしれない。かりに生き残って勝ったとして、ロシアの『トリグラフ』は黙って引き下がる可能性は低い。

 事実、アリスもエマさんも、やってくるなら全力で迎え撃つ、といった発言しかしていない。つまり、他に打つ手がないということが明らかになる。

 ここで問題の核に迫る。『アルカサル』と『トリグラフ』が戦争状態になることが、俺の大事な仲間が死んでしまう事態を引き起こすと言える。負ければ光もいなくなる。勝っても、そこに犠牲者は当然出てくるし、2回戦、3回戦と戦争が繰り返される場合がある。

(『トリグラフ』が『アルカサル』に攻撃をできないような状況があればいい。光を返せって言えないような状況があればいい。……あ、そうか)

「テツヒト」

 思考の途中に声が入ってきた。

 浴室のドアを隔てた先には、光のシルエットが映っていた。

「着替え、置いておく。早く出て。映画見たい」

「分かってるよ、待たせてすまん」

 シャンプーを手に取り、手早く頭を洗っていると、シルエットが動いていないことに気づく。俺は静止したままの光に、頭を洗いながら声をかけた。

「どうした。もう出るよ」

「テツヒト、なにかあったの」

「え?」

 シャワーに伸ばした手が止まった。

 耳をすましてしまう。

「元気ない。テツヒト。この間のファーストとの任務から」

「そんなことねーよ。あいつに弄られてくたくたなだけだ」

「……本当?」

「ああ。映画、見るんだろう。準備して待っててくれ」

「うん。テツヒト、そういえば明後日もお休み。この間計画した、デート、いこう。映画が見たい、映画館で」

「あー、いいな。ファーストも一緒のやつか」

「むう。ファーストはいなくていい。内緒で行こうよ」

「そいつは可哀想だろう。せっかくだ。3人で行こーぜ」

「……仕方ない」

 渋々といった感じで承知してくれた光は、ようやく脱衣所から去っていった。俺は、鏡に映る自分の顔を見ていた。ああ、なんか涙腺ゆるゆるだな、最近。ポロポロと涙が溢れていた自分の顔は、しかし悲しそうな顔をしていなかった。自然な笑みを浮かべていた。なぜだろうか、そんなことは分かっている。

 光は、俺の中で大きな存在だ。俺の毎日の象徴なのだ。一緒の時間に朝起きて、一緒に訓練に励み、一緒に飯を食って、一緒の時間に寝る。俺は、光と一緒に生きている。

 俺のことを好きだと言ってくれる人がいる。

 光が、エマさんが、アリスが。他にも、秋乃さんたち『アルカサル』の人々も俺を人間として、仲間として扱ってくれている。ファーストだって、俺を守ってくれるのだ。

 自分を尊ぶだけの生き方をしていれば、これだけの仲間が増えたはずもない。ああ、そうだ。俺は結局、自分のためだけに生きると決めたくせに、孤独になるのが怖くて、皆と生きることを選んだ。それは楽しくて、幸せで、俺にふりかかった悲惨な現実を乗り越えるだけの力にさえなった。

「光」

 自分を尊ぶだけの生き方とは、本当の意味で孤独になる生き方だ。そして、過去に決意したその生き方を、今こそ貫くべきだと確信した。俺は俺のことだけを尊重する。他の奴らのことは、知ったことではない。アリスやエマさん、光やファーストだって、もう関係ない。

「―――ごめんな」

 俺はシャワーから上がると、光との約束通りに一緒に映画を見た。その後は、晩飯のために一緒に食堂へ向かった。俺よりよく食べる光に焼肉定食を少し分けてやって、何気ないことを話して、部屋に戻っていく。テレビを眺めると、いい時間になったので、俺たちはそれぞれの個室ヘ入っていった。

「お休み、テツヒト」

「ああ。光もお休み」

 光の個室のドアが閉まるのを見届けて、俺は自分の個室のドアを閉じた。中に入ると、首元にかけていたネックレスを机に置いた。



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