第5話 邂逅
果たして入って行くべきかどうか……。少女は口をあんぐりと開け、真っ黒な口内を覗かせている廃墟の前で、どっちつかづに佇んでいた。低くなった斜陽は、怪しげな建築物の陰影をより濃く染めていった。
この中が恐い? 少女は自問した。この闇の中に入って行くのが恐い? 先の見えないことって恐ろしいことなの? 彼女は自身がどうするべきなのか、その答えを得ようとそれらの問い掛けを、心の深みへと投げ入れた。それらは少々焦れったい程の緩やかさで、深淵の底へと沈んでいった。やがて空気が水中を昇って来るように、彼女の求めていた答えがゆっくりと姿を現し始めた。
私は闇が恐くはない。少女は声にならない声で呟いた。私は闇など恐れる必要はない。だって、闇は私の友達なのだから……。
答えは出た。風変わりなそれは、彼女の思想だった。闇は友達……。
彼女の足は前へと歩み出していた。やがて陰欝なる建物は、その闇の中へと小さな漆黒の少女を飲み込んだ。
廃墟の入り口で躊躇している間に、少女はすっかり青年の姿を見失っていた。無人の巨大な構内で、たった一人の少女がたった一人の青年を捜し出すのには少なからず骨を折った。
一階づつ昇ってみては、その階層に人の気配が無いか、物音がしないかを調べなくてはならなかった。僅かな兆候があるたびに、その階層の一部屋ごとを覗いて回った。そうこうしながら昇ること八階、彼女は青年を見付け出した。彼は八階に昇ってすぐ目の前にある部屋で、窓枠にもたれ掛かっていた。薄暗い四角い背景に彼のシルエットが切り抜かれていた。煙草を吸っているらしく、それ独特のきな臭い刺激が彼女の鼻孔を突いた。
彼女は息が整うのを待ち、部屋の外に立った。そして一歩、二歩と踏み出した。青年が振り返り、暗がりでも判るほどの驚きを示した。彼はこんな所に他人が来るなんて、微塵にも思ってもいなかったろう。ましてやそれが女の子……全身を漆黒のドレスなどを纏ったゴシックロリータとは、到底、夢にも思いつかなかったに違いない。
少女の方でも言うべき言葉を見失っていた。とうとう青年を見付け出したと言うのに、探すのに夢中になっていて、会ったときになんて話し掛けようか、どう自分のことを説明するのか、といったことには全く考えていなかった。
しかしながら、突然の彼女の訪問に面食らっている人物は、話し出すために必要な機能を完全に停止させられてしまっているようで、この不可思議な状況を理解するための手掛かりを求めているようでもあった。
「えっと」
何か話さなくっちゃ、と思うのとほぼ同時に彼女はそう切り出していた。
「えっと、私は……」
言葉を口に出しながら、彼女は模索していた。焦れったさと焦りが背後から持て囃のを感じた。
「私は……アリス。あなたは?」
アリスとはたった今、彼女が思いついた自身のあだ名だった。焦りによって正常な判断力を失っていた彼女は、取り敢えず自己紹介したほうが良いと考えた。しかし、それは実名である必要はないとも考えた。そして今の彼女に適したあだ名――『アリス』と名乗った……。青年を追ってきて、こんな廃墟の中まで来た彼女の姿を、兎を追って不思議な世界に迷い込む、あの童話の主人公に重ねたのだ。ここまでの思考はほんの一瞬の間に行なわれた。
「数馬……」
私が『アリス』ならあなたは『兎さん』ね、という彼女の期待を華麗に裏切って、青年は実名らしきその名を呟いた。
これが数馬とアリスとの出会いだった。この後、数度に渡る押し問答を経て、この物語の初めの場面に到った次第である。




