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第3話 動揺

 そもそも数馬は辺りが夕暮れに染まり、間もなく夜の帳が降り始める頃、一人でこの廃墟へとやって来た。別に誰かとここで待ち合わせているという訳でもなければ、ここに何かあるという訳でもなかった。ただ、ここは誰も人がいなくて、自分の目的を果たすのに適した場所だと思ったからここまでやって来たのだった。

 彼の目的――それは彼自身に取って、とても重大であり重要な意味を持っていた。同時にその目的は彼に取って、神聖不可侵と言える程の、決して他人には干渉されたくはない性質のものだった。

 ただそこに誰かがいるというだけで邪魔な存在となるのにも関わらず、少女は青年に質問を繰り返した。それも数馬が話したくはない、ここに来た理由を執拗に訊ねた。質問を投げ掛ける少女に対して、数馬が先程から苛立ち、素っ気ない返答しか返さない理由はここにあったのだ。


 まだガラスの差し込まれていない窓にもたれながら、数馬は室内へと無造作に体を向けた。そして欝陶しい存在である者の様子を伺った。彼には黒衣の少女が無造作に置かれた作業台の上に浅く座り、細い両足をぶらぶらと交互に振っているのが見えた。窓枠によって四角く切り取られた夜の薄明はくめいは、彼女の爪先から腰の辺りまでを照らしていた。縁をレースであしらわれた黒靴下と、同じくレースによって縁取られ重ね着で膨らんだスカートとの間で、白く際立った細いふくらはぎが揺れていた。

 人工建築の精密さで仕切られたこの無機質な部屋には、少女の黒いスカートがこすれる音と、遠くの車が鳴らすエンジン音がわずかに聞こえるだけだった。

 しかししばらくすると、前者の音の方が突然やんだ。何とはなしに散開していた数馬の焦点は、急速に少女の方へと収束した。

 少女は身を乗り出して、じっと少年を見つめていた。太く縁取られたアイシャドーによって大きくなったそのまなこの内に、何か怪しげな光が潜んでいるのを数馬は見て取った。漆黒を身に纏った少女の、闇に溶け込まないそのきらめきは、曖昧な回答でははぐらかすことはできない、という予感を数馬に与えるのだった。


「それじゃあ」

それならば、と数馬はさらなる尋問に拘束される前に、こんどはこちらから話題を振ることにした。仕方無しの選択だった。

「それじゃあ、君は何故なぜここに? こんな夜中に何でこんな所へ来たの? しかも女の子一人で……」

 少女は質問されることを予期していなかったのか、軽く驚いた表情した。そして暫らく考える素振りを見せる。

「そうねー」

と少女のもったいぶった言葉は、質素な窓から入り込んだ緩やかな夜風と共に二人の間を流れ去って行った。

「ここに何か特別なことがあると思ったから……」

彼女は作業台から反動をつけて飛び降り、そう言い切った。だけれど直ぐに文末に「かな?」と付け足して微笑んだ。この時、数馬はこの少女も微笑む、ということを意外性を持って発見したのだが、彼は少女の答えが意味するところを見いだし得なかった。

「特別なこと?」

「そう、特別なこと……なんて言うのかなー」

少女は体の前に両手でバックを吊り下げて持ち、脚を交差して立ちながらやや頭をかしいだ。彼女の艶のあるストレートの黒髪が揺れた。彼女は自身のとある感覚を相手に分かって貰うため、それを分かり易い言葉にしようとしていた。その行為は、相手の国の言語に翻訳する作業と似ているのかもしれない。

「特別なことって言うのはね……」

彼女は些か長いと思われる思慮の後、慎重に繊維を寄り合わせて糸を作るように言葉を紡ぎだした。

「簡単に言ってしまえば非日常的なこと。」

「非日常的なこと?」

数馬は彼女の言葉をそのまま繰り返した。

「そう、非日常的なこと。つまり平凡な日常にないこと。」

少女は手を伸ばせば届く距離まで来ていた。そして数馬の要領を得ない表情を見て取った少女は説明を続けた。

「別に大したことじゃなくってもいいの。平凡な日常にないことなら、何でも。例えば……簡単なことで言えば誰かが失恋しただとか、あるいは誰かが事故に遭ったとか。

あるいは、あるいは、もっと大きいことだと……」

窓枠に背もたれている数馬の隣に、少女は並んだ。彼女のふくらんだスカートのすそが、優しく数馬の脚に触れた。二人は互い違いに向き合って並んだ。

 少女は意味有りげな無音の微風が過ぎ去るのを待ってから、意図的に数馬の目をのぞいて次の言葉をつなぐ。

「誰かの死だとか……。」

数馬の中で何かがどよめき、鼓動が一つ高鳴った。タバコの火は燃え尽きようとし、くすぶっていた。彼には、夜景を見下ろす少女の顔が月明かりに照らされて、冷たい白い輝きを帯びているのが見えた。微風が彼女のストレートの黒髪をいた。

 少女は覗き込んだ半分陰かげった青年の顔の中央で、その目が僅かに見開いたのを認めた気がした。ただ、それだけだった。本当は彼女はもっと大きくはっきりとした反応を期待していたのだ。つまるところ、彼女はある企みを持って数馬に鎌を掛けたのだ。

 彼女は数馬の行動に、ある憶測を持っていた。それはある種、期待に似た憶測だった。彼女の直感に根付くそれは、彼女の中で急速に確信へと育ちつつあった。ではその憶測はどういったことなのか。

 これを説明するには、彼女がその日どうしてここに来たのか、また彼女が日々どういった考えを持っているのかを含めて話さねばならない。

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