第12話 哀惜
アリスは足早に廃墟の階段を駈け降りていた。左腕とそこに下げた鞄が、一段降りるごとに揺れていた。帰宅するのがすっかり遅くなってしまった彼女は遅れを少しでも取り戻そうと、危なっかしげな程に足早で暗く長い階段を下るのだった。彼女はたった今、数馬と別れてきたばかりだった。
また親に小言を言われるな、という嫌で差し詰め正確な予測が脳裏をよぎる。しかしながら彼女の表情は明るかった。そんな彼女の心情を代弁するかのように、エナメルのパンプスが小気味よいリズムを硬いコンクリートに響かせていた。
友達ができた。アリスの思考は巡る。それもこの私と理解し合える、特別な友達が! なんて……なんて素敵な夜だろう! アリスは心の中で殆ど絶叫に歓喜の声を上げた。流れ落ちることはなかったが、また嬉し涙が込み上げて来て瞼と瞼の間に留まった。そのせいで視界がぼやけ、二、三度危うく足を踏み外し転びそうになったほどだ。
出口が近づいて来た。外へ近づけば近づく程、彼女の歩みはさらに早まった。また体が軽くなった。黒いスカートの裾を忙しく揺らす少女は、今にもミュージカルのヒロインさながらに踊りださん勢いだった。
アリスは数馬と、再び会う約束をしていた。明日、このビルの門の辺りで……時間は何時くらいがいいかな? じゃ、十時で。
また明日、あの人に会える。またあの影を帯びた、愛らしい瞳を見ることができる。そう思い及ぶと、体の芯が熱くなってきた。そしてさっきまで感じていた、数馬の温もりが思い出されてますます火照りを感じ、白い頬を淡く紅く染めるのだった。
アリスは最後の数段を一度に飛び降りて、大きな音と共に地表に着地した。気分はすっかり明るく清々(すがすが)しかった。玄関手前の広間まで来ると、自分のいる暗がりの向こうに、月光に照らし出された外界が広がるのが見えた。だが、逸る少女は、出口を潜る
手前ではたと足を止めた。彼女の進路に――玄関を出てすぐのところに何か不吉なものを認めたからだ。最初、それが何であるのか分からなかった。確かこんなものはここに来たときには無かった筈だ、とアリスは訝しみながら、朧気な月の明かりを頼りにその物体を凝視した。
それは玄関に入る前の、冷たい石畳の上に横たわっていた。アリスの居る側は影になっていたので、初めはそれが黒い塊のように見えた。薄明に浮かんだその物体の輪郭をなぞって行くことで、漸くそれがなんであるのかが分かった。それは人間だった。誰かが地面に這いつくばっていた。
アリスは音に成らない驚きの声を上げた。よく見ればその倒れている人物の周囲には、血溜まりと思われる液状のものが、その領土をじわりじわりとゆっくり押し広げていた。アリスは暫く立ち尽くしたままだった。やがてその横たわった人像が作り出した影に視野が慣れてくると、見覚えのある面影をそこに見いだした。とてつもなくおぞましい予感が彼女の体を駈け昇った。そんな! そんな! 拒絶する叫び声が少女の小柄の体内でこだました。そうこうしている内にも、益々鮮明になってゆく細部。益々否定の可能性が奪われていく不吉の予感。彼女の有するありとあらゆる神経が逆立った。彼女の内にある脈は急速に収縮して、その働きを殆ど止めてしまった。
どれくらいたったであろうか。それは長い時間のようで、案外短かったのかもしれない。漸くのことで、アリスは数馬に向かって歩みだすことができた。だが彼女の手足の力は失われていた。ふらつきながら、今にもその場に座り込んでしまいそうになりながら、黒衣の少女は少しずつ近づいていった。まるでそこに呼び寄せられるように。
そこまでの行程は、実際の距離よりもかなり長く感じた。やっとのことで、アリスは彼の傍らに辿り着いた。黒光りするパンプスの靴底が、未だ緩やかな拡張を続ける血溜りを、踏み躙った。近くに来てみれば、あの孤高の青年の成れ果てが、明らかに救いようのない程、無残な状態になっていた。 アリスは魂の失われた肉塊を、やさしく抱くようにしゃがみ込んだ。ニーソックスとスカートの裾に血液が滲んだ。
「なんであなたは……」
彼女の切なる問い掛けにも、死者は黙して語らず。黙ったままの彼に、少女はそっと手を伸ばす。服の下には仄かな温もりが、まだ残っていた。
「約束したのに……」
その語り掛けにはそれ程強い非難がましさは含まれていなかった。
「とうとう……してしまったんだね。」
少女は微笑んだ。慈愛に満ちたやさしい笑みではあったが、悲哀の影は拭いきれていなかった。アリスは崇高な志を遂げた、青年の上に上体を屈める。そして原形を留めている、残った方の頬にそっと口付けする。弾力のある感触を、その小さな唇で感じた。




