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翌週からの俺は多忙を極めた。大きな仕事のプレゼンテーションが近く、夜遅くまでパソコンにかじりつき、打合せをし、二回ほど会社でお泊りなどして、夢など見る暇もなく日々をこなしていた。もちろん俺だけではなく、同部署や近隣部署までお祭り騒ぎだった。
「あのー…一回うち帰って、お昼頃に戻ってきてもいっスか…?」
敬語もボロボロになるくらいの俺の様子を見て、上司はタクシーを使ってよいと言い、「いってらっしゃい」と快く家に送り出してくれた(帰るのに「いってらっしゃい」というのは引っかかるところだが)。
バッグを持ち、周りの残っているスタッフに声をかけ、エレベーターホールに向かった。もう二十三時をまわっているので、地下の通用口から出なければならない。エレベーターに乗り込みB1のボタンを押して、壁に寄り掛かった。ひんやりしていて気持ちがいい。階床表示灯のカウントダウンを見つめながら、ただぼんやりしていた。
ポーンという音と日本語と英語のアナウンスが地下一階に到着したことを知らせた。スーッと開く扉の向こうは真っ暗だった。あまりここを使うことはなかったが、真っ暗なのは初めてだった。
「おお…ホラー系ゲームみたいじゃね…?」
誰もいないことをいいことにどうでもいい独り言を言ってみる。角からゾンビが飛び出してきて…など想像しながら(少しびくびくしながら)出口に向かう。出口ひとつ手前の扉を開けると、まぶしいほど蛍光灯で照らされた通路に出た。「お疲れ様です~」と警備員のひとりが声をかけてくれたので、俺も「お疲れ様です」と返した。もう何も怖くなくなってしまった。
車寄せの方を見ると、奇跡的に一台だけタクシーが停まっていた。大通りまで出なければならないかもと思っていたところだったので割とうれしかった。タクシーに駆け寄ると、後部ドアが開いた。ああ、これで帰れると思った。
「こんばんは。お疲れ様です。どちらまで?」
はきはきとした安心感のある運転手が振り返って俺に尋ねた。
「こんばんは。飯蔵大通りの三本先の角までお願いします」
シートベルトをしながら行き先を伝えると、タクシーは静かに発車した。背中をシートに完全に預け、大きく息を吐いた。じんわりと疲れが体に染みわたってくる。これを受け入れると本当に疲れ切ってしまうと思っているので、すぐに息を吸い込んで、何回か意識した呼吸を続けた。それに合わせて徐々に眠気が瞼にのしかかってきた。
「すみません、お客さん」
運転手の声ではっと我に返った。
「あ、は、はい!」
「すみません、角のところ、信号越えます? 手前にします?」
「て、手前でお願いします!」
寝てしまいそうになった。ここで中途半端に寝てしまうと、帰ってから眠れなくなってしまうかもしれないと思っていた矢先にこれだ。眠れない状態が続いているのに、いざ眠れる状況だと眠れないなんて、なんてもったいない話だろうか。
「やっと着いた…」
疲れ切った体でなんとか自分の部屋の目の前に辿り着いた。鍵を開け、ドアノブを掴んで押した。ようやく落ち着けると思ったそのとき、部屋の様子がおかしいことに気付いた。
何かがおかしい。
玄関横の壁のスイッチを押した。ワンルームの部屋全体が明るく照らされた。
「…マジ…かよ……!!」
信じられない光景だった。家具の一切がなくなっていた。テレビも、ベッドも、本棚も、テーブルも、何もかも。この状態は入居前の内覧で見たことがあったが、まさか退去前に見ることになろうとは。
「どういうことだよ…!」
靴を脱ぐのも忘れて部屋に入った。どこを見ても何もない。カーテンすらない。
「鈴目に全部持ってかれたようです」
振り返ると、そこには銀髪の青年が立っていた。
「季倫…!」
「お久しぶりです、一条」
こんな狭い部屋に似つかわしくない美しさ、違和感しかない。
「ここは…夢か…?」
「はい。現実ではありません」
季倫は慌てる俺と反して落ち着いているようだったが、どこか少し焦りがにじみ出ていた。
「鈴目の気配を追ってきましたが、間に合いませんでした」
「どうしてこんなことに…」
「本格的にあなたを狙っているのです。眠りはいろいろなものに形を変えています。あなたの場合は、この部屋にある物だったようです。眠りを奪うことのない私たちには、鈴目が奪って初めて、眠りが何に形を変えているのかを知るのです」
事前に俺を守れなかった理由がはっきりした。どうして先回りしないのだろうと他人事のように考えていたが、そういうことだったのか。
「これは…俺の眠りは全部持っていかれたってことなのか…?」
「いえ、すべてではないかと」
「…というと…?」
「おそらくはあなたの今の持ち物が眠りなのです。夢で見る架空の物、例えば子ども時代のおもちゃや勇者が持つ剣などではなく。まだあなたは服やバッグ、時計や靴などを持っています」
「あ…」
どうやら仕事一式セットでギリギリのところを保っているらしい。
「それに、あなた自身が無事です。そして、あなたが最後の砦です」
「…じゃあ、俺はもう俺自身が奪われたら…」
季倫は少し悲しい顔をして俺をじっと見た。察せよ、ということか。
「ここまできたら、俺はもう、本当に自分を守るしかないんだな」
「そうです。私たちはあなた自身を集中的に守ります」
「それなら話が早いじゃないか」
持っていたバッグを置いて、季倫に向き合った。
「俺も何がどうなのか分からないままここまで来たけど、いろいろ知って、今ギリギリのところだって知って、なんだかすっきりしたよ」
不思議そうな顔をした季倫の両肩に手を置いて、すっと息を吸って、俺は言った。
「俺を守ってほしい、奴らから。俺もできることは全力でする」
俺の決心を受け入れたのか、季倫は強くうなずいて、俺の右手に自分の右手を重ねた。
「はい。我々はあなたを守り、できる限り眠りを奪い返します」
何もない部屋で、俺たちは改めて協力することを互いに誓い合った。