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あれから一週間、俺は日々の生活を普段通りにこなしていた。ひとつ違うことと言えば、あんなことがあったのでバスに乗るのをやめて、駅と会社の往復は徒歩に切り替えたことだ。佐藤には「健康的じゃねえか!」とほめられたが、実際のところ、まだあの大きなどくろを見た衝撃から抜けられないのだ。
ようやく金曜日を迎え、今週最後の会社から駅への道のりを踏み出したのはもう二十一時を超えた頃だった。好きなロック・バンドの曲を聴き、週末の予定を考えながらただ黙々と薄暗い夜道を歩いた。明日は好きなゲームの発売日だし、土日は全部ゲームに捧げよう。でも、天気がよかったら出かけたい気もする。昨日は給料日だったし、スーツと靴を新調するのもいいかなと考えたりもしている。電車に乗ったらいろいろ検索して、土日の過ごし方を決めよう。
駅近くの横断歩道を渡りきったところでイヤホンから流れる音が小さくなり、スマートフォンがポケットの中で振動した。バッグを逆の手に持ち替え、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面にはメッセージの新着通知が表示されていた。
「まさか…会社戻ってこいってことじゃないよな…」
月曜の会議資料のことかもしれない。会社の誰かからでないことを願い、スマートフォンのロック解除のパスワードを入力し、メッセージアプリのアイコンをタップした。
最新のメッセージはこうだった。
『こんばんは、はじめまして』
たった一言、それだけだった。どこかの企業アカウントが送ってきた奇をてらったメッセージに違いないとホームボタンを押そうとしたとき、俺は得も言われぬ違和感と恐怖に襲われた。
「なんだ、これ…おい……」
すぐにもう一件メッセージが届いた。
『もうすぐそばにおりますから、そこで待っていてくださいね』
メッセージの送り主の名前は……“ゴールド・フィッシュ”だった。
「すぐそばにいる? どういうことだ⁉」
周囲を見渡すと、もともと人気は少なくなっていた時間だったが、歩く人、車もまったくなくなっていた。少し先の横断歩道の信号が赤と青で点滅している。近くのビルを見上げると、すべての窓が真っ暗で電気が消えていた。明らかに普段見慣れた通勤路ではない。
「これはまた…夢の中なのか……」
ドッドッと心臓が早く動き出した。だとすれば、まもなく季倫たちの中から誰かが現れるはずだ。早く、早く来てほしい。実際、ここ最近の夢にまつわる不思議体験は数回しかしていないが、今回はなんとなくヤバいカンジがする。
すぐに夢と割り切った俺は、出せるだけの大声で力いっぱい叫んだ。
「季倫! 宇サギ! 斗影! 誰かいないのか⁉ ていうか、いつから寝てるんだよ、俺!」
途端、信号の点滅が早くなった。真っ暗だったビルの窓から真夏の太陽のような光があふれ、一気に道路が明るく照らされた。ジジジジと電気系統がやられるような音が近くで聞こえ、同時に甘くてスパイシーな女性用の香水のような香りがあたりに充満してきた。
手の中のスマートフォンがふるえた。また一件、メッセージが届いた。
『もうすぐ着きます』
スマートフォンを持った右手にじんわりと汗をかいているのが分かった。逆に左手は冷え切って震えていた。こんな状態、人生で初めてだ。緊張と不安が一気に体中を駆け巡る。
「…おおい! 誰か来ないのかよ!!」
しばらくすると、駅の方からふたつの光が近づいてきた。速度からするとおそらく車のようだ。
まさかゴールド・フィッシュは車で来るのか? それより、ゴールド・フィッシュはどんな形をしているんだ? なんで今来るんだ? 心の準備がまったくできないまま、俺はどんどんと近づいてくる光をただ見つめて硬直していた。
「ねえねえ、あなた、一条?」
「……っ!!」
思いがけないタイミングで背後から名前を呼ばれ、口から心臓が飛び出そうになった。反射的に声の方に振り返るとそこにはひとりの背の高い男が立っていた。まさか、こいつがゴールド・フィッシュなのか…?
「お待たせしてごめんなさいねえ。初デートの服を選んでたら遅くなっちゃったわ」
「…え……?」
「私? 私は四佳。よろしくね。季倫たちからあなたのことは聞いてるわ」
季倫より少し年上だろうか。少し長めの真っ黒のショートカット、左耳に大きめのダイヤのような光る石のピアスをした黒スーツの男が俺ににっこり微笑み、丁寧にお辞儀した。
「さて、一条」
すぐに顔を上げると、俺の目の前に「タネも仕掛けもありません」と言わんばかりに両手をひらひらさせてから、さっと後ろに回した。次の瞬間、目の前に出された右手には金、左手には銀の重厚な銃が握られていた。
「今日のデートの約束はゴールド・フィッシュの方がちょっと先だったみたいだけど、きっと私との方が楽しいわよ」
四佳が静かに金の銃を俺の方に向けた。
「そういうわけだから、今日のデートはキャンセルしてもらいましょうね」
振り返ると、ビルの窓から発される光に照らされて黒い大型車が近づいてきていた。やはりふたつの光は車のヘッドライトだった。
「あれに乗ってるのがゴールド・フィッシュなのか…?」
「そうよ。あらまあ~、いい車で乗りつけちゃって…」
そう言うと、すぐに四佳は構えた金の銃の引き金を躊躇なく引いた。
「…う、あ……」
弾丸は俺の顔の真横を通って、まっすぐ飛んでいった。銃声で耳がまったく機能していない。恐る恐る首だけ動かして銃弾の飛んで行った方を見ると、こちらに向かってきていた車はその場で止まっていた。ヘッドライトが何回かまばたきしてから消えた。
銃声の余韻がなくなったところで手に持っていたスマートフォンが震えた。湿った指で画面をタップする。またメッセージが届いていた。
『アクシデントがあり今日はそちらに行けなくなってしまいました。また次の機会に』
黙ってその画面を四佳に見せると、四佳は勝ち誇った顔をして頷き、車の方を見た。俺もつられてそちらを見た。車は静かにバックしているようだった。どんどんと小さくなっていく。
車が見えなくなると、ビルの電気が消え、横断歩道の信号は赤のままになった。気付けば、あの甘い香りもなくなっていた。
「…はあ~、緊張したわあ~」
四佳が両手をひらひらさせて安堵の表情を浮かべた。初めて会った数分前より表情が和らいでいると思った。
「あ、ありがとう…」
「もお~、お礼なんていいわよお」
ジャケットの裾をまくりながら俺にウインクした。
「とにかく間に合ってよかったわ。私の勘もまだまだ現役ね」
自画自賛している四佳を改めて見上げた。俺よりも十五センチは背が高い。足が長くて、これまたイケメンだ。自分の夢ながら、季倫たちも含めてなかなか豪華キャスティングだと感心した。ただ、四佳はこれまでにいない、珍しいタイプだった。俺がいろいろ考えているのを察したのか、四佳は勝手に話し始めた。
「私たち、性別とか大きさとか決まった形がないのよ。相手が見て安心できるだろう姿になってるだけ。人によって違うわよ。でも、名前だけは同じなの」
「へえ…」
「普段の生活が影響しているのよ。例えばテレビとかネットニュースとか。アニメやゲームや映画もそうだし。私がこういうカンジなのは、単に“こういう人”があなたの世界に存在してて、それに違和感を持ってないってことよ」
「は、はあ…」
「難しく考える必要ないわ」
四佳はまた軽くウインクした。こんなイケメンに何度もウインクされたのは人生初だ。
「あの…さっきの車…本当にゴールド・フィッシュが乗ってたんだよな」
「ええ」
「あんな遠い車の中まで見えるの?」
「見えないわ、感じるのよ。私たちは同じ夢の世界の生き物だからね、分かるのよ。詳しいことを聞きたいなら季倫にお願いして。私、説明下手だから」
両腕をクロスして二の腕を掴んでクネクネしている四佳の姿は見慣れていないのもありかなり違和感があったが、今まで夢の中で出会った人の中では一番とっつきやすそうではあった。
「…あら、夜明けが近いわ」
夜明け。俺が起きるときだ。四佳は俺の目を見て微笑んだ。
「一条、また会えるといいわね。でも、本当は私たちに会うのって人間にはいいことじゃないのよね。複雑だわ」
「…それは俺も薄々気付いてるんだ」
四佳は眉根を寄せた。それはさみしさと、俺が思っていたより状況を理解していることへの複雑な心境が入り混じっている表情だったと思う。
「あの…宇サギは元気にしてる…?」
夜明け前のどさくさで、引っかかっていた宇サギのことを聞いてみた。
「宇サギ? ああ、元気よ~。今日も元気に別現場で働いてるはずよ」
「そ、そうか…」
「え? なに? 宇サギのこと、まさか好き…」
「違うって、そういうのじゃないから! この前助けてもらって、それで…」
すっと四佳の人差し指と中指が俺の額に押し当てられた。
「…あの子の戦う姿を見たのね」
「ええと…」
「そうなのね」
「…たぶん…」
人差し指と中指はそのままに、四佳ははあと分かりやすいため息をついて天を仰いだ。
「ギャップに萌えなさいよ、このバカ」
ぐっと指が額に食い込む。その強さに比例して、意識がふわりと遠のくのを感じた。初めて会った時の季倫にも同じことをされた。これはこの世界から強制的に出ていかせる技なのだろうか。
「バカって…。俺はただ心配だったんだ……」
さらに強く指が食い込む。立ち眩み、手からスマートフォンが落ちた。ああ、液晶画面が割れてなければいいなと願いながら、俺は最初の時と同じく、意識を失った。