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夢の世界であれだけいろいろと忙しくしていたものの、日中に眠気などなく、普段通りの会社員の日常を過ごすことができていた。季倫の言う通り、あちらで何をしていたとしても俺自身は眠っていたのだなと実感した。
「おい、一条。この資料って何部必要だ? それとも印刷しないか?」
向かいの席に座っている佐藤が俺の注意をひこうとひらひらと手を振っていた。
「あー、それメールで送るから印刷しなくていい。ペーパーレス信仰の会社だからさ」
「そりゃエコだなあ。こっちも助かるけど」
「助かるけど、プレゼンのやりがいないよな。先に種明かししてるようなもんだし」
日常だなあと思う。佐藤と明日プレゼンテーションに向かう会社用の資料を準備しながら雑談を楽しむ。口と手は別々のことをするのに慣れていて、しゃべっていたとしても仕事が止まることはない。
「そうだ。今日どうだ? 駅前で一杯軽く」
佐藤がモニターの横から顔を出し、その満面の笑みと反比例するような小声で俺に声をかけた。
「あー…行こうか。久しぶりだしな」
「お、珍しいな。じゃあ、プロモ会議終わりで直行な。俺、総務寄ってから向かうわ」
「おう」
「誰にもつかまらないようにちゃんと会社出ろよ。つかまったら長いからな、お前は」
そこまで言うと今度はニカッと分かりやすい笑顔をのぞかせた。こいつの人懐こさは社内のみならず取引先のあらゆる人をとりこにしている。この笑顔の前では誰も佐藤を嫌いになれないのだ。
結果、俺は会議終わりですんなりと会社を出ることができた。ぎゃあぎゃあと騒ぐデザイナーとそれをなだめるマネージャーを横目に、力いっぱい気配を消して会議室を後にし、持ってませんよという雰囲気を出しながらバッグを隠し持ってエレベーターに滑り込み少し速足でビルを出た時には、時間内ギリギリで脱出ゲームをクリアしたような満足感すら覚えた。時計を見ると、十九時ジャストだった。
会社から駅までは歩いて約八分。最寄り駅と会社を循環する専用バスも出ているので俺はもっぱらバスを利用している。スポーツマンの佐藤に言わせれば「そのくらい歩け!」なのだが、気になるニュースや友達からのメッセージのチェックは歩きながらではできないし、なにより俺はなるべく体力を使いたくない自他認めるインドア派なのだ。
ちょうど駅行きのバスが停留所に停まっているのが見えた。あれに乗って行けば四分後には駅に着くだろう。佐藤が着く前に店に入って席をとっておこうと、小走りでバスに向かった。バス停には十五人くらいの列ができていて、ゆっくりとひとりずつバスの中に吸い込まれている最中だった。その一番後ろに並び、俺もバスに乗り込んだ。
「……⁉」
異変には一瞬で気が付いた。
乗り込んだバスの中に誰もいない。確実に俺の前には十人以上いた、もちろん運転手も。それが忽然といなくなっていた。この狭い車内に隠れるところなどないし、隠れる必要もない。
「なんだ、これ…」
再度車内を見渡したがやはり前に並んでいた人達も運転手もいない。それを認識した俺の足は危険を察知したのか、固まって動かない。降りるべきだ、と頭の中で警笛が鳴った。
「あー、一条!」
落ち着くために深呼吸したところで、無人の車内広報から覚えのある声が聞こえた。最後列の座席からひょっこりと顔を出したのはこの前の夢で出会った宇サギだった。宇サギはすぐに小走りで俺に向かってきた。
「あ……! なんでいるんだよ!」
「一条、久しぶりだよ~!」
「久しぶりかもしれないけど! なんで今ここにいるんだよ!」
宇サギはきょとんとしている。なんだ、俺がおかしいのか? どういう状態なんだ?
「なんでって…一条が寝てるからでしょ」
「寝てる? 俺が⁉」
「そうだけど…」
どっと冷や汗が出てきた。
「俺、いつから寝てるんだ? 今日の出来事は全部夢?」
「それは分かんないけど…。ちなみに私は、鈴目たちが誰かの水面に近づいていくのを見つけて追いかけてきてみたら一条の所だった、みたいな?」
「どこで寝てるんだ、俺は」
「このバスで寝てるよ」
「はあ? 俺、今乗ったばっかだぞ」
「記憶が混乱してるのかもしれないね。でも、私に会ってるってことは眠ってるってことだよ」
記憶が混乱している? どういうことだ。混乱するようなタイミングはどこにもなかったはずだ。そもそも、寝てるかどうか分からなくなるタイミングなんてあるのか。
「とにかく一条はじっとしてて」
宇サギの真面目な声に、初めて季倫に会った時を思い出した。茶色のふわふわした生き物を何か強い光で消し去っていた光景を。あの強い光が攻撃だったのか、茶色のふわふわが消えた時に発されたのかは分からないままだけど。
「…そういえば季倫たちは?」
「あと少しして私が戻らなかったらこっちに来ると思うよ。…なに、私ひとりだと心配ってこと?」
「あ、いや、そういうわけじゃ…」
「顔に書いてあるよ! ひどい、一条! 私、結構強いんだからね~!」
宇サギは俺を見上げてぷうっとむくれた。見た目は本当に普通にかわいい女の子だ。かわいい子には、現実でお会いしたかったものだ。
「ごめんごめ…」
宇サギをなだめようとした瞬間、バスが大きく横に二回揺れた。驚く間もなく、窓の外がどんどんと暗くなってきた。
「これは…」
後方の窓を見ると、びっしりと茶色いものに覆われていた。よく見るとそれはこの前夢の中で俺が触ろうとした、眠りを奪うと言われている鈴目たちだった。鈴目はお互いがつぶれるくらいの密度でくっつき合い、窓に張り付いていた。
「…う、わ……」
徐々に前方に向かってその数を増やしている。車内灯が窓の外の鈴目を照らし出す。顔は鳥に似てはいるが目が人のそれと同じで黒目と白目があり、焦点が定まっていなかった。音が聞こえるくらい、恐怖で全身の毛穴が開くのが分かった。
「…バスごと持っていくつもりなのかもしれない。降りよう、一条」
俺たちは急いでバスを出た。案の定と言うべきか、バスはじわじわと鈴目に張り付かれ、茶色のふわふわした大きな塊になった。見慣れた通勤バスがまさかこんなことになるとは。
「とりあえず、かたまっててくれるのは助かるかな。一条、これ片付けるからビルの中に入ってて」
「え?」
「目を閉じろって言っても気になって目を開けるでしょ。一条は絶対そういうタイプ」
まだ二回しか会っていないのに言い当てられた。気になるに決まっている。宇サギも光るのだろうか?
「もう~! 早く行ってよ!」
「ごめん、分かった! 気を付けろよ」
「はーい! ありがと!」
女の子ひとり残していくのは気が引けたが、ここで俺が役立つことは何ひとつない。俺は言われた通りビルの中に入った。自動ドアをふたつ超え、いつもなら受付嬢がいる受付の前で足を止めた。自動ドアが大きいため外は見えるが、バス停は角で見えない。
ここなら大丈夫だろうと振り返った矢先、
「……!」
息をのむような光景がビル壁面のガラスに映っていた。
「なんだよ、あれ…!」
目が覚めそうな驚きだった。分かりやすく表現するならば妖怪の“がしゃどくろ”だろう。ビルの作りから推測するに、少なくとも三メートル以上はある。その巨大な骸骨は、がくんと大きく口を開け、鈴目に覆われたバスを両手でつかみ、ゆっくりとその口の中に縦にしたバスを吸い込ませていった。まさに丸呑みだ。すぐに、巨大骸骨の骨の隙間からものすごく強い光が発された。最初に季倫と会ったときに見た光と同じものだった。
「……っ!」
ガラス越しに一部始終を見てしまった。目を閉じろと言われていたのに。宇サギの言う通りだった。俺は動揺したまま光を遠くに見ながら意識を失った。