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「一条。最近ちゃんと寝てるのか?」
起きて、着替えて、電車に乗って、仕事をし、帰って、寝る。自分はそれをきちんとこなせているのだろうか。そう疑問を持ち始めたのは、一週間前の定例会議の後にかけられた何気ない同僚からのこの一言がきっかけだった。
「なんだよ、急に」
「いや、なんかさ……お前、最近顔色悪くないか?」
「そんなに俺のこと観察してるのかよ。あれ? 佐藤って俺のこと好きなの?」
「おい、茶化すなよ。心配してんだぞ」
「ごめんごめん、ありがとう。心配すんなよ、大丈夫だって」
ホワイトボードに書かれた雑な文字を消しながら、適当に返事をする。いつもならこのあたりで出ていくのに、テーブルの上に飛び出しているケーブルをしまっているときも佐藤は俺の背後でじっと動かないでいた。なんだかいつもと違うのだけは分かった。本気で心配されているのかも、と思った。
「俺のことより佐藤の方こそどうなんだよ。毎日帰りが遅いの、嫁さんの機嫌損ねてないのかよ」
「俺の方はうまくやってるから気にすんな。独身に心配されるほど不器用じゃねえよ」
「それならよかった。俺が浮気相手だと疑われてないか心配だったんだ」
「容疑者ではあるかもな。悲しいかな、嫁よりお前と一緒にいる時間の方が長いよ」
振り向くと、それに合わせて佐藤はニカッと体育会系笑顔を見せた。俺もつられて笑顔になった。
「一条。お前は人に気を使うタイプだ。でも、自分にもちゃんと気を使えよ」
新卒入社で同期、さらに二年以上共にプロジェクトを進めてきた信頼のおける同僚から突然の真剣な気遣い。常に顔を合わせている奴が真顔で心配している。なんというか、不治の病を言い当てられたような不安が脳内を占領した。
今日は久しぶりに早く帰ることにした。仕事はまだ残っていたが、明日でも間に合うものばかりだった。「明日やろうはバカやろう」という先輩から受け取った名言に縛られて遅くまで仕事をしている自分に酔っているな、とふと思っただけのことだったが、意外とすんなりと体は動き、あっという間にパソコンを閉じ、エレベーターホールに向かっていた。
腕時計は十九時五分を指していた。電車はちょうど混んでいる時間ではないだろうか。世間のほとんどは時間通りに動いている。定時に出社し、帰宅する。それが普通なのだと電車に乗ると思い知らされる。みな、きちんと自分の人生を制御できているのだ。
日頃の行いがよかったのか、混んでいると思っていた電車はそこそこ空いており、早く帰ることに重ねて久しぶりに座ることができた。出入口横の端の席を確保し、袖仕切りに体を預け、バッグを抱きしめるように持ち、軽く目を閉じた。
佐藤が言っていたことは全部正しい。
俺はもうだいぶ長いこと必要な睡眠時間を確保できていない。一年前は七時間睡眠を貫いていたのが、半年前に五時間、三か月前は四時間、ついに今は三時間を切った。それでも日中眠くなるわけでも、仕事に支障をきたすこともなく、普通に生活できているのだから特に気にすることでもないだろうとこの状態と真剣に向き合ってこなかったが、佐藤に言われた「顔色が悪い」は営業としてはやや問題だと思った。ここ一週間、毎朝洗面所の鏡で自分の顔をじっくり見るようになった。確かに一年前よりはよくはないかもしれない、ファンデーションでも必要だろうかと悩んだものの、まあいい歳でもあるし少し寝不足そうなくらいだと自己判断して今に至っている。それに加えて、突如、短眠者に変態を遂げたのかもしれないとも思ったりしていた。
『自分にもちゃんと気を使えよ』
佐藤の言葉が今更響いてくる。ふいに思い出したことになんとなく意味を感じ、ポケットからスマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開き、佐藤にメッセージを送った。
『今日はもう会社出た。何があっても連絡すんなよ』
すぐに既読になり、サムズアップする不細工な犬のスタンプと共に『珍しいな! 絶対しないから安心しろ』と短いメッセージが返ってきた。仕事ができるやつは返事が早いとはよく言ったものだ。営業のエースからの心強いメッセージに同じ犬のスタンプを送り返し、改めて袖仕切りに上半身を預け、もう一度目を閉じた。
突然、ガタンと腰が浮くほど大きく電車が揺れた。驚いて目を開いて、周囲を見渡した。
「…やっちまった…!」
車内に誰もいない。しまった、一瞬で寝てしまったのか。乗り過ごしたのか。車庫に入る予定の電車で、最終降車駅で駅員が俺を見逃してしまったのかもしれない。こんなこと初めてだ。窓の外を見ても地下鉄なためどこを走っているのか見当がつかない。そのまま到着を待つのも不安だったので、すぐに立ち上がり、先頭車両に向かった。そこまでに誰かいればいいし、もしいなくても運転手にはこの状況を窓越しでも伝えられるだろう。
勢いよく隣の車両のドアをぐいと開けた。ざっと見たところ、ここにも人はいない。予感的中か、俺は何をやっているんだ。
「久しぶりに早く帰れたと思ったらこれかよ…」
さらに次の車両に向かうべく、一歩踏み込んだ。その瞬間、少し遠くに何か動くものが見えた。片足を上げた格好のまま目を凝らすと、立っている人も座っている人もいない車両の真ん中付近に、床と座席を埋め尽くす何か蠢く何かが大量にいるのが分かった。
「…なんだ…?」
俺はゆっくりと車両の真ん中に向かって歩を進めた。その動く何かは、最初は小型犬か猫かと思ったが、どうやらそういう括りの生き物ではなかった。全体的に茶色くふわふわとした毛に覆われ、顔は鳥に近くて四つ足、尻尾だけが緑色で蛇のようだった。見た目はニュージーランドに生息しているキーウィに近いのかもしれない。
…触れてみてもいいものだろうか。
好奇心が勝り、それに近づいてしゃがみこんだ。そして、ゆっくりその生き物に手を伸ばした。その瞬間、
「そこから離れてください!」
突然、背後から凛とした男の声が響いた。振り向く間もなく、俺は襟首をつかまれ、後ろに引きずり倒された。
「私の後ろから絶対に離れないでください。あと、目を閉じてください」
顔を上げると、目の前には白いコートを着た腰まである銀髪の長身の男が大きな刀を構え立っていた。ここは電車の中じゃないのか? 俺以外の乗客なのか…?
「早く! 目を閉じてください!」
「は、はい!」
言われるがまま、俺はしゃがみこんでぎゅっと目を閉じた。それを待っていたのかのように、すぐに瞼の裏が赤くなった。ものすごく強い光が差し、それに同調するような突風が前方から吹き込んできた。しばらくして光が弱まるのと同時にその風はやみ、車内はさっきまで俺がいた車両くらいシンとした静けさに包まれた。
なんだ、なんなんだ。何が起きているんだ。まさか俺が知らないうちに帰宅ラッシュが様変わり…なんてあるわけがない。変な動物も刀を持ってる奴も、普通の電車の中には絶対いないはずだ。
「…お待たせしました。もう目を開けてもいいですよ」
目を閉じるよう促したのと同じ声が聞こえた。恐る恐る目を開けると、そこには非常に整った顔をした青年が俺の目線に合わせてしゃがんで微笑んでいた。うっかり見とれてしまうような、これまでに出会ったことのないタイプの綺麗な人だった。
「あの…」
「はじめまして。私は季倫。人の夢の中に住む者です」
あっけにとられているこちらのことはまったく気にせず、季倫と名乗った青年はそのまましゃべり続けた。
「あなたのことはなんとお呼びすればよいでしょう?」
「い…一条と申します……」
「イチジョウ……素敵なお名前ですね。それにとてもいい響きです」
イケメンというのとはまた種類が違うその美しい顔で人の名前を褒めてさらに微笑むなんてどれだけかっこいい男なんだ。しかもどうやら俺は助けられたらしいし、普通なら惚れるしかない…が、ただ、今のこの異様な状況ではそうやすやすと恋愛マンガのような流れにはならない。
気付けば、さっきまでいた茶色のふわふわした生き物はもうどこにもいなかった。
「あの…いったい何が起きてるのか、全然ついていけてないんですけど…」
相手が話せるタイプと踏んで、俺は絞り出したひとつの質問を投げかけてみた。季倫は不思議そうに俺を見てから納得したように「ああ、そうですね」と言って俺の手をとり、近くの座席に座らせてから、俺の横の席に座った。
「あなたが想定時間以外に眠ったので、鈴目たちが現れたのです。ちょうど出くわすなんてなかなかないことです」
「すずめ? 雀なんてどこにも…」
「“眠り”を食べる生き物がおりましてね。一年位前から少しずつ少しずつ、あなたの隙を狙って眠りを食べていたのですよ。先ほどあなたが触ろうとしたのが鈴目といって、その手下です。まあ、例えるならば働きアリみたいなものでしょうか。奴らが眠りを奪って、それの…ゴールド・フィッシュのもとに運ぶのです」
よどみなくすらすらと説明する季倫はまるで熟練ツアー・ガイドのようだった。説明内容が正しいのかどうかはわからないが、その姿に感心して心の中で拍手を送った。
「他にご質問はございますか?」
季倫はにっこりとまた微笑んだ。今の説明を俺が理解したとふんでのことのようだ。そもそものところから質問したい気持ちは山々だったが、季倫がさっきの自己紹介で「人の夢の中に住む者です」と語ったことからこれが夢の出来事だという裏付けもあるので細かい話を質問することはやめた。俺は座ってすぐに寝てしまったのだろう、これは夢だと認識した。俺自身、昔から不思議なことは好きな方だし、この夢の建付けには非常に興味を持ったので、話の流れでよさそうなものに焦点を絞ってもう少しだけ尋ねてみようと思った。
「ええと……眠れなくなるのはゴールド・フィッシュっていうやつのせいなのか?」
「はい。簡単に言えばそういうことになります」
自分が眠れない理由がその化け物によるものだったことをあっけなく知った。そうか、俺が眠れない理由はそういうことだったのか。しかし、ここまで臨場感あふれ、現実とリンクしている夢は初めて見たし、自分にこんな夢を見る才能があったとは驚いた。自分自身、思っていた以上に眠れない理由を気にしていたのかもしれない。
「だったら、ゴールド・フィッシュに眠りを食べられないようにすればいいってわけだな。それにはどうしたらいい?」
季倫は驚いた顔をした。何か変なことをきいたのだろうか?
「あなたは順応性が高いですね。…そうですね、食べられないようにするには、先ほどの鈴目が発生しないようにすることです。それに強い眠りが必要です。奴らはしっかりと眠っている人は襲いません。眠りにゆるみがある人の隙間に潜り込んで、眠りを奪い、運ぶのです」
「てことは…俺は眠りがゆるいのか?」
「そうですね、ゆるいです」
眠りがゆるい、という表現は初めて聞いた。どうやら眠りにもゆるみやたわみがあるらしい。
「…もし全部眠りを食べられたらどうなる……?」
なんとなく話の流れでしただけだったこの質問が一番核心に迫るものだったらしい。季倫は回答に悩んでいるようだったが、すっと右手を上げ、俺の額に自分の人差し指と中指を押し当てた。
「…え?」
「すみません。今日お話できるのはここまでです」
ぐっと指が額に食い込む。その強さに比例して、意識がふわりと遠のくのを感じた。
「またお会いしましょう。その時は私の仲間たちも連れてまいります。次はもう少し落ち着いてお話しできるかと思いますので…」
「おい、ちょっと…」
季倫が最後に言った言葉が聞き取れないまま、俺はすとんと意識を失った。
ぼんやりと男性もののスーツの腰回りが視界に入った。眼球だけ動かして周囲を確認すると、右隣にはショップ店員と思われる若い女性、左隣にはスーツの男性が眠りこけて俺の両肩を枕代わりにしていた。熱気と独特の静けさ、ゴオオオとうなるような電車の音。ここがぎゅうぎゅうに人がつめこまれた帰宅ラッシュ真っただ中の電車の中だと認識するまでそう時間はかからなかった。
何駅か眠ってしまったのか。体中が寝起きの感覚に包まれている。俺は自分のバッグを改めて抱きしめ、座り直そうと体を動かした。
「……え……?」
両側に人がいる。どういうことだ? そんなはずはない。俺が最初に座ったのは一番端の座席だった。ついさっきのことだ、忘れるわけがない。袖仕切りに頭をくっつけたことを覚えている。なのに、今座っている席は、端の座席ではない。しかも、電車の真ん中の座席で、出入口も遠い。
「…ここは…」
この座席は、さっき見た夢の中で、“人の夢の中に住む者”と名乗った季倫が俺を座らせた席だ。車内広告や車両番号にも見覚えがある。間違いない。心臓がどんどんと早く動いていくのが分かった。
「どういうことだよ…」
左隣のサラリーマンが俺のつぶやきに気付いたのか、目を覚まし、何事もなかったように俺の肩から頭をどかして座りなおした。