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 ドトールを出て一旦雪菜と別れた。6時から小学生たちのグループレッスンがあるので、一度家に帰って休みたいそうだ。

 二日酔いの酒が完全に抜けた夕方の5時ごろ、再び俺は川越スケートセンターに足を運んだ。


 一応俺が所属しているのは川越スケートセンターなので6時からのクラブ練習に参加できるが、その気は全くない。滑りたいけれど、子どもに紛れるのも気が引けるし、人に見られたい気分ではない。そう思うと二日酔いして正解だったのかもしれない。かといって直前にリンクを貸しきるわけにもいかない。そもそも、貸切練習出来るほどのお金がなんて俺にはない。いや、多少はあるにはあるけれど、暫くお金を稼ぐあてがないから節約しなければならない。


 結局、一般開放からクラブ練習までの空いている1時間。製氷やら準備やらで誰も滑らない時間にタダでねじ込ませてもらった。


 ……雪菜と話して、少しは落ち着いたようだ。今は3月。ウィークエンドとの来シーズンの契約が結べなかったけれど、どこかのアイスショーには参加したい。別の――例えば、イギリスのショースケートにビデオを送るという手もある。


 ぐるぐるとウォームアップをした後iPhoneを取りだして音楽を再生させる。

 曲は映画『雨に唄えば』。この間落選したウィークエンドの選考で滑ったプログラムだ。

 このプログラムは、自分では気に入っている。振り付けてくれた三上先生には感謝している。

 だが……もしかすると、俺が滑るとその魅力を半減させているのではないかという不安がよぎってしまう。ほかのだれか。他の誰かが滑った方が溌剌としていて魅力的に見えるのではないか、と。


 滑りたいプログラム。滑りたいプログラム。考えに考えて――


 藤の花が香り高く花びらを散らすように。

 或いは、季節の彩りに中で鳥が舞い踊るように。

 或いは、一音一音がきらめきを宿しながら流れていくように。

 見る人間に、四季を与えるように。


 ――ふっと、俺の中で1番残ったプログラムが頭に浮かんだ。


 それは俺が滑った俺自身のプログラムではない。俺が1番憧れる人が、アマチュア時代の最後の大会で滑ったプログラムだ。


 ――堤昌親は、98年長野五輪から引退の05年まで、日本代表として活躍した名選手だった。実績も華々しいもので、有名な国際大会の成績としては、04年世界選手権2位、02年ソルトレイクシティ五輪5位入賞、3回の四大陸選手権優勝などが挙げられるだろうか。2種類の四回転ジャンプとノーブル且つスケールの大きいスケーティング、類い稀な音楽表現を武器に、世界の頂点と戦った。


 トリノ五輪の男子シングルの日本代表枠は「2」。前年の世界選手権で、当時若手だった紀川彗が10位に入ったことでもたらされた複数枠だ。

 順当に行けば、2枠は紀川彗と堤昌親で埋まるはずだった。成績は不安定ながらも実力をつけてきた若手の紀川彗と、名実共に日本のエースで長年世界の第一線で闘い続けた堤昌親。五輪シーズン始まりの頃は、この2人が行くだろうと大体の人が思っていた筈だ。


 だが。長年四回転を飛び続けた堤昌親の足には、疲労と怪我が重なっていた。05年の世界選手権も、右足首の捻挫に加えて右膝半月板の損傷で途中棄権していた。また、05年の世界ジュニアで優勝したばかりの遠山銀太が、失うものは何もない勢いで実績を伸ばし始めていた。


 そのまま五輪シーズンに挑み――。


 迎えた最終選考会の全日本選手権。男子シングルフリースケーティング。最終グループ、最終滑走。堤昌親はフリーで、そのシーズン使っていたラフマニノフのプログラムから、前年フリーで使用した「百花譜」に戻した。箏曲家の沢井忠夫が作曲した箏曲で、つまりフィギュアスケートではあまり馴染みのない邦楽だ。


 ジャンプ的には万全ではなかった。2回飛んだ4回転のうち、1回はパンクして2回転になり、1回は転倒している。結果は3位で、後輩の紀川彗と遠山銀太がトリノ五輪に内定した。


 しかし。


 魂のスケート、というのはああいうものを言うのだろうか。俺の中で、順位や出来とは一線を画したところにあの演技がある。それは彼が長年日本を支えたという自負があったからかもしれない。少なくとも、未だに俺の琴線に触れたスケートはあれ以外にない。


 ……俺はフェンスに置いたiPhoneを取りだし、動画サイトを開いた。百花譜、堤昌親と検索すると一発で出てくる。


 元の「百花譜」は10分を超える大曲だ。はなやかな春、けだるい夏、物悲しい秋、痛くて寒い冬と四季の移ろいを、17弦筝と十三絃の二重奏で表現している。男子フリースケーティングは4分半なので、不自然にならないように春夏秋冬を編集してあった。


 曲が再生される。ふじのはなが舞い散るかのようなイントロ。人によっては桜の花が連想されるかもしれないけれど、俺にとってはこの曲の「春」の部分は、藤のイメージだった。


 あんな風に。

 あんな風に、音を描きたい。


 何度も何度も見てはこっそり練習を繰り返してきたプログラム。今、この場には誰もいない。


 トレモロを一泊聞いて俺は滑り出す。複雑なステップをいくつか踏んで、トップスピードに。最初のジャンプはトウループ。次のジャンプはサルコウ。モホーク。右足スリーターンで左足トウをついて飛び上がる。


 華々しく展開していく「春」の部分は、ところどころ左右逆回転の高速ツイヅルが入る。新採点法導入直後とは思えないほどのつなぎの密度。うだるような「夏」ではじっくりとスケーティングを魅せる。十七絃筝が変則的にリズムを変えてくる「冬」のパートは曲が力強く、冬の痛さを訴えてくる。ここは片足でサーペンタインステップを踏んで……。


 曲が終わり、一通り滑ってみて思い知る。

 やっぱり堤昌親のようにはいかないか……。



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