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『伊倉奏太様 ウィークエンド・オン・アイス事務局より選考結果のお知らせ』
そんなタイトルで送られて来たメールを読み、パソコンデスクに肘をついて重いため息をつく。縁なしの眼鏡がずり落ちてくるが、メールの内容があまりにも残念すぎて気にもならない。
「はあ……」
英語で書かれた文書は端的で、必要事項だけを伝えてくる。文面からは感情らしい感情がなにも含まれていなかった。仕方がない。相手側にとってはビジネスで、そして俺にとってもビジネスなのだから。
だがそれと俺の感情はまた別のものだ。
無意識に口からうめき声が出て、ふらふらと台所に向かう。きちんと栓がされたワインに手が伸びた。1本500円のやっすいものだ。
――確定したのは、俺がしばらく無職のようなものになってしまうことだけだった。
翌日の朝。
「落ちた」
ホームリンクに顔を出し、リンクメイトの斎藤雪菜と出会うなりいった言葉がこれだ。茶髪で156センチの小柄だが、ひとたび氷に立つとその小ささが気にならないほど大きな滑りを見せる。
雪菜は俺と同い年の25歳。女子シングルスケーターとして活躍していたが、大学卒業と共に引退。その後はインストラクターの資格を取り、アマチュア時代から練習拠点にしてきた埼玉県川越市のスケートリンクの専属コーチになった。……ついでに言えば俺の元カノでもある。
「は? 落ちたってのは、その、ショーに?」
「ああ。キャストとして契約を結べなかった。ついでにこれまでの契約も解除」
なるべくさらっと続ける。翌日になればショックも薄れるだろうと思っていたが、そんな事はないようだ。ただ、気にしていないような演技が出来るだけマシかと思うことにする。
「それでそんな顔しているわけね。じゃあ、ショックでやっすいワインでも飲みすぎたっていうのも勿論当たっているわけだ」
「……何でわかるんだよ」
「そんなの顔に書いてあるわよ」
完全にヤケ酒して二日酔いの顔よねえと雪菜は呆れた。……俺の演技は元カノには全くの無意味だった。せめて昨日の夜、ワインを一人でまるまる1本飲まなければ、もう少しごまかせたかもしれない。……そう考えたら、なんだか胃がむかむかしてきた。
「ちょっと奏太、大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないっていうか……」
雪菜のくりっくりの瞳が心配そうに俺の顔をのぞき込んでくる。ああ、やっぱりこいつ可愛い顔してるなぁ。どうして俺、こいつに別れを切り出したんだっけ。こんなかわいくていいやつとわざわざ別れるなんて、死ぬほど馬鹿なのかな俺。あ、やばい。胃が。胃が。ていうか、逆流してくる! さっきまでそれは大丈夫だったのに!
「ちょっと! リンクサイドに吐かないで! 奏太? 奏太!」
……ごめん雪菜、無理だった。
*
――俺こと、伊倉奏太はフィギュアスケーターだ。そう言っても俺は、世界選手権やオリンピックを目指すフィギュアアスリートではない。かつてはそうだったが、今は一応プロと言っても差し支えない。ショーに出て日銭を稼ぐショースケーターだ。
4歳からスケートをはじめ、全日本ジュニア優勝、世界ジュニア5位と、ジュニアの頃はそこそこいい成績を残せた。
はっきり言って俺は天才ではない。天才というのは、バンクーバー五輪で銅メダルを取った紀川彗やソチ五輪で金メダルを取った菅原出雲みたいなやつを言うのだ。前者は2014年に引退した後国内外のアイスショーに引っ張りだこで、後者はソチ五輪終了後も現役に留まり、現在も絶対的日本のエースとして君臨している。ついこないだ世界最高得点をたたき出した。
……シニアに上がった後、俺は別段強い選手になれたわけではなかった。国際大会の出場経験はあるにはある。グランプリシリーズの出場も常連だが、表彰台はない。最高成績は、引退と決めていた大学4年の時の全日本選手権3位だ。当時の選考基準により、四大陸も世界選手権の派遣もされることはなく、その全日本が最後のアマチュアコンペになった。
世界トップレベルではないとはいえ、18年間続けたフィギュアスケートの世界に、俺はつま先から頭のてっぺんまでどっぷりと浸かっていた。自分の人生の大半を過ごした場所がアイスリンクだったのだ。引退しても、氷の上から離れるという選択肢がまるでなかった。しかしアマチュア引退後にも氷上にいる道はかなり限られている。
限られた選択肢の中、俺が選んだのがショースケーターという道だった。競技とは違い、難しいジャンプや技を競うこともない。それに俺は、競技よりも自由性のあるエキシビションの方が好きだった。規制もなく、のびのびと滑れる世界だ。
「やってみなさい。プロの世界は甘くはないからね。ビジネスの分、アマチュアよりも厳しいよ」
……ショースケーターになると宣言した俺に、師匠がくれた言葉がこれだった。そして今、その言葉を身に染みて実感している。