一.灰色の島
朝起きたら、トビオが変な踊りを踊っていた。
見上げた空はやはり青く、割と低いところをカモメが一羽飛んでいる。そこだけ消しゴムで消したみたいにカモメは真っ白だ。
何処からかいがいがに割れたピアノの音が流れてくる。軽快な明るい音調。なんの曲だろうと思いながら、ちらと視線を視界の右側に戻した。相変わらずトビオは大真面目な顔で踊っている。
「なにしてるの、トビオ」
僕はむくりと起きだして、顔だけをトビオの方に向けて聞いた。
「ラジオ体操」
トビオは音楽に合わせて四肢を伸ばしたり体を折り曲げたりしている。なるほど、体操。確かに体操だ。体操……。
そこでふと僕は首を傾げた。
「言葉、通じてる」
腕をぶんぶん振って、屈伸して、それからトビオは数秒遅れで「ほんとだ」と、少しだけ驚いた顔をした。
その日はまる一日を島の探索に費やすことにした。余りすぎるくらい時間のあるトビオは、もう見慣れた場所だろうに僕の隣を大人しくついてきてくれた。
「この島に住んでどれくらいなの?」
「さぁ。そんなこと考えたこともない」
「トビオはどうやってこの島にやってきたの?」
「どうだったかな。気付いたらここにいた。お前と一緒だよ」
「この島は一体なんなの?」
「俺だって知らねぇ」
一方通行な言葉のキャッチボールだ。
僕は眉間にしわを寄せた。ボールはキャッチしてくれるけど、こちらの手の中には帰ってこない。トビオの回答はどれもこれも要領を得ないものばかりだった。でも、いじわるではないと思う。きっと本当に分からないのだろう。
だから僕が知り得る情報は、せいぜいこの足で島を歩き回って見聞きするものに限られた。
といってもやはり、この島にはコンクリートと朽ちた廃材、ドラム缶、有刺鉄線と金網しか無いのだった。草木の一本さえ生えてやしない。
「あるよ、他にも色々」
なんにもないねと漏らせば、そんな言葉が返ってきた。一周するのに徒歩で三〇分もかからない小さな島は、おおよそ四つのエリアに分かれているという。
「このまま真っ直ぐ行けば柱だらけのトンネルがあるし、そこ抜ければゴミ溜め場もある」
「ゴミ溜め場」
うへぇと舌をだして、僕は渋い顔をした。
「宝の山だぞ」
お、と呟いてトビオは落ちていた鉄パイプを拾った。ぶんっと一振りして調子を確かめている。潮風のせいでひどく錆び付いているのに、戸惑うことなくそれを肩に担ぐトビオの神経が僕にはよく分からない。
そもそもこの男が本当に信頼できる人物なのかもよく分からない。同じ生き物だというだけで妙に安心感を抱いていたが、よくよく考えればそんなものは幻想で、実はすごく危険な奴だってことも十分にあり得るのだ。
「トビオはぁ、どうして昨日僕を殺そうとしたの」
干からびた鳥の糞を踏んづけないように避けながら、僕はついぞ気になっていたことを訊いた。
あの時のトビオの眼を思い出したらまだ少し怖かった。ギラギラした、獣みたいな瞳。
「敵かなと思って」
「え?」
じゃらじゃらじゃらんと指をフェンスに当てながらトビオはもう一度「敵」とはっきり言った。
いつの間にか先を歩いていたトビオに駆け寄って、僕はまた隣に並んだ。
「敵ってなに?」
「たまァに出る宿題のこと」
は? と素っ頓狂な声が漏れる。
「宿題」と、またトビオは丁寧に繰り返した。
いや、だから――言い返そうとして、足元に転がる小石を思いきり踏んづけた。僕は思わず飛び上がる。声にならない悲鳴をあげて片足でぴょんぴょんしていると、隣でトビオが無邪気に笑った。むっとして僕はトビオを睨んだ。妙に悔しかった。こっちは泣くほど痛いのに、トビオは裸足でもなんにも気にならないみたいだ。
「おい、笑うなってば。ああ最悪、ほんと痛い。靴とか落ちてないの? この島」
躍起になってあたりを見渡したが、当然灰色の固い地面と壁しかない。
トビオはひとしきり笑ってから僕の踏んづけた小石を拾った。そして、左手をおもむろに振りかぶったかと思うと、その小石をフェンスに向かって思いきり投げつけた。小石は網目を飛び抜け、海面を三、四、五……と幾度も跳ねて、やがてポチャンと海に沈んだ。
口をあの字に開けてぽかんとしていると、
「でも敵じゃなかったな」
とトビオは言った。僕は口を開けたままトビオを見た。
「俺とおんなじで、ほら、ここ。ロビンにも三つの点の模様がある」
そう言ってトビオはタンクトップをぐいっと下に引っ張り自身の鎖骨あたりを見せた。それから僕のぶかぶかの服の襟元をぐっと引き下げて同じ場所を指差した。日に焼けたトビオの浅黒い肌には奇妙な点が三つ、三角形を構成するように並んでいた。首を折り曲げて自分の鎖骨を覗き込む。やはりそこにも同じ、奇妙な点が三つ並んでいた。
*
あれから僕はゴミ溜め場に行くのを断った。汚い所はあまり好きじゃない。それに、捨てる物もないのにわざわざ行く必要はないのだし。
覆道――のことだろうと思う。トビオのいっていた柱だらけのトンネルというのは――に差し掛かる前に僕らは進路を変えて、島の中央へと向かった。
そこはだだっ広い広場になっていた。灰色の真っ平らな広場だ。他のエリアよりも幾分か丁寧に舗装されているような印象を受けるのはきっと、損傷の激しいコンクリート壁や朽ちた廃材がどこにも見当たらないからだろう。
広場の中央には真っ白く輝く一本の柱がそびえ立っていた。
僕は近くまで寄ってそのばかでかい柱を見上げた。背中が反るほど高い。何より驚いたのは、まるで未来からタイムスリップしてこの場に刺さったみたいに柱の表面がぴかぴかしていたことだ。
「これだけ違う世界からやってきた物質みたい」
「監視塔だよ」
「え?」
と、僕は見上げていた顔を横に向けた。トビオは柱のたもとにしゃがみ込んで、なにやらごそごそと根元を弄っている。やがて柱の一部がぱかっと蓋のように開き、トビオは中から何かを取り出した。
「俺は昔っからそう呼んでる。この柱の中、多分、誰かいる」
「うわっ」
トビオが何かを投げてよこした。慌ててキャッチしてみると、それは未開封の菓子パンだった。袋に可愛らしい文字で『ジャムパン』と書かれている。そういえば昨日から何も食べていない。思い出した途端、腹がきゅうっと鳴った。
「こうやって飯が供給されんだ。誰かが律儀にここに飯をいれてくれてるんだよ」
予想だけど、と言いながらトビオは歯でビニール袋をバリッと開けた。あっちは焼きそばパンらしい。豪快にかぶりつけば、パンは一気に半分なくなった。味わって食べるという習慣が彼には身についてないのだろうか。
「なに?」
「……僕も焼きそばパンの方がいい」
「はぁ? 我儘言うなよ」
「焼ーきーそーばーパーンー」
「ばか、やめろ」
僕はトビオに飛びついた。耳元で何度も焼きそばコールをかましてやる。トビオは「あーうるさい」と言って、耳を塞ぐ。意地でも半分食べてやろうとタンクトップを引っ張り回していたら、トビオはこれみよがしに残りのパンを全て頬張って、無理やり飲みくだした。
「ケチ!」
「そんなに欲しけりゃ自分で『宿題』こなせ。お前の手に持ってるそれは、俺のお情けだぞ」
「だから、宿題ってなに――」
トビオの耳から手を引っぺがし、思いっきり叫んだ瞬間だった。
ウウウウウ――。
突然、島全体にけたたましいサイレン音が鳴り響いた。音の波が心臓を震わせて痛い。鳴り止まないこの音は、一体どこから響いてくるのだろう。サイレン、非常事態に鳴らす音、正午の到来、警告音……。
「ねぇ、トビ――」
トビオは監視塔を見上げていた。その視線を辿って、同じように監視塔を見上げる。丁度、てっぺんに太陽が昇りきるところだった。カッと視界に鮮烈な日の光が飛び込んでくる。あまりの眩しさに思わず手で顔を覆った。
『ジジ……本日ノ宿題ヲ……発表……マス、ジジ……』
サイレンが止んだと同時に、今度は音割れのひどい合成音声が島内に流れた。塔の一番高いところからビリビリと、電気のように発せられる機械音。途端に体の奥から言い知れぬ不安の塊が顔を出したのが分かった。
だけどトビオは違った。肩に担いでいた鉄パイプがゆっくりと下される。先端が地面に当たってゴツンと鈍い音を立てた。彼の顔には笑顔さえ浮かんでいた。
「来たぞ、『宿題』だ」