第二話
ようやく峠を越えた。道が下り坂になるとともに視界が開け、遠くに光るものが見えた。
海だ。
午後の日差しを眩しいくらいに反射し、キラキラと輝いている。それはまるで、俺を歓迎しているように見えた。
「すげえ……」
海を見るのが初めてだったというのと、あまりに壮観な眺めだったのとに、思わず声が出た。さっきまでの疲れも忘れてしまった。
海の手前には港街が見える。街があることを地図で確認してなかったから安心した。今日はあそこに泊まるとしよう。
俺は山道を下って街に向かった。
下りは全然時間がかからなかった。三十分もかからずに、街を真っ直ぐ見下ろせる坂の上まで来た。あと二、三キロで街の中心に行けるだろう。
すぐにでも行こうかと思ったが、峠越えでTシャツがビチャビチャだ。このままでは風邪を引いてしまう。
どこかに着替えられる場所はないだろうか。
そう思って辺りを見ると、少し下の方に鳥居が見える。
周りを杉の木に囲まれた、小さな神社だ。ひどく寂れていて、どうやら参拝はほとんど無いらしい。
境内に自転車を停めると、俺は身体を拭き、別のTシャツに着替えた。そして、賽銭箱の前の階段にどっかりと腰を下ろした。
アブラゼミの鳴き声が身に染みる程よく聞こえてくる。
すると気が抜けたのか、忘れていた峠越えの疲れがどっと押し寄せて来た。
どうしよう。朝から水しか口にしていないから腹は減っているが、もうこのまま眠ってしまいたい気分だ。
これから街まで行って、テントを張れそうな場所を見つける気も起きない。
仕方ない。罰当たりかもしれないが、この神社の境内にテントを張らせてもらおう。人通りも無いし、明日早くここを出れば大丈夫だろう。
俺は財布から五円玉を取り出して、賽銭箱に放り込み、鈴を鳴らした。
「神様、申し訳ありませんが一日だけ境内をお借りします。そして、もしよろしければこの旅を、どうか実りあるものにしてください」
「お参りですか?」
「うわあ!」
不意に後ろから声を掛けられ、思わず変な声を出してしまった。
慌てて振り向くと、少し後ろに女の子がいた。
可愛い。いや、美人だ。肩甲骨まであるだろう髪は艶やかな黒で、白のワンピースがよく似合っている。小柄で中学生くらいに見えるが、たたずまいは奥ゆかしく、可憐だ。
隣にはリードに繋がれた犬が大人しく座っている。賢そうだ。
「あっ、すみません、急に声をかけて驚かせてしまって……」
どうやら俺の反応で、逆にびっくりさせてしまったらしい。
「ああ、いえいえ、こっちこそすみません。散歩ですか?」
「はい。いつもはここに来ても誰もいないんですが、今日は珍しく人がいて、つい」
「そうなんですか」
少し申し訳なさそうだが、嬉しそうに女の子は笑っている。
優しそうな人だ。俺の周りにもこんな人がいてくれたらよかったのにな。
「その犬の犬種ってシベリアンハスキーでしたっけ?」
「はい。ジャックって名前なんです」
「かっこいい名前ですね。撫でてもいいですか?」
「はい」
俺はしゃがみこんで、行儀よくお座りをしているジャックの頭を撫でた。
見知らぬ人に撫でられてるのに、ジャックはすごく大人しい。よくしつけられてるみたいだ。
「あの……」
「なんでしょうか」
「折角ですし、お名前を聞いてもいいですか?」
「えっ」
どうせ俺は明日ここを発つんだから、自己紹介なんてする必要があるのだろうか。
まあこれも何かの縁だと思ってしておくか。減るもんじゃないし。
俺は立ち上がり、再び女の子と向き合った。
「俺は松本雄介。高二です。あなたは?」
「白石葵です。高校一年生なので敬語じゃなくていいですよ?」
若干そんな気はしたが、やっぱり年下か。でも雰囲気は大人びてるし、初対面だしな……
「馴れ馴れしくて気を悪くしませんか?」
「全然そんなことないですよ」
「それじゃあ、葵ちゃんって呼んでも?」
「なら私は雄介さんって呼びますね」
いいなあ、この子の雰囲気。こんな子が部活の後輩だったら、何か変わってたのかな……
「どうかしましたか?」
「……いえ、なんでもないです」
「敬語になってますよ?」
「あっ」
「ふふふ」
「ははは」
なんだか、ものすごく久しぶりに人と話している気がする。一人旅が寂しかったわけじゃないのに、なにか満たされるものがある。
「そういえば、自転車にいっぱい荷物を積んで、雄介さんはどうしてこんなところに?」
「あー……」
どうしよう。この神社で一晩過ごすってことは隠し通したかったんだけど……
いや、本当のことを言おう。軽蔑されたりしないか心配だが、この子なら大丈夫な気がする。
「実は一人旅をしてて、この神社で今日は休もうかなって……」
「休むって、一晩過ごすってことですか!?」
流石に驚かれてしまった。いや、普通は高校生で野宿する奴なんていないから、むしろ当たり前の反応か。
「言いづらいんだけど、そういうこと」
「他に泊まれるところはないんですか?」
「ホテルは十八歳未満お断りが多くてね」
「そうなんですか……」
そう言うと、彼女は沈黙してしまった。やっぱり嫌われたのかな。
「あ、あの……」
しかし、しばらくすると口を開いた。
「もしよかったら、うちに泊まりませんか?」