瞼の裏
目を閉じると暗闇が訪れる。
暗闇では何も見えないはずなのに。
暗闇に浮かんで見えるモノがある。
アレは何?
「妹に訊かれたんだ」
近況報告ついでに話しておこう。さっきまでの話とは全然関係ないけど。
長期入院していた妹、優が2学期から登校できるようになり、準備のため夏休み中に小学校に来ていた。約1年意識不明で寝たきりだったため、リハビリしているけどまだ体力は戻りきっていない。登校時の荷物を少なくするため、イチローと共に担任教師にロッカーに置いても良いと言われた画材や教材を運んだ。
「残像?」
「何だろうな。目を閉じるのが怖いだけかも」
ずっと眠っていたから、眠るのが怖いのかもしれない。今度は目が覚めなかったら。このまま眠ったままだったら。そんな不安があるのかもしれない。まだ小学2年生なんだから、いろいろなモノが怖いっていうのもあるか。
「あと、この学校の七不思議で睡眠に関わるものがあるっていうのも原因かも」
「睡眠に関わるもの?」
「教室で、黒板の上の蛍光灯を見た後で目を閉じると暗闇の中に何かが見える」
「蛍光灯の光じゃないのか?」
「いや、人らしい」
人の形に見えるだけかもしれない。それでも小学生には十分怖い。
目を閉じると人が見えるから怖い。目を閉じるのが怖い。だから、眠るのが怖い。眠ると、その人が追いかけてくるから。
俺もこういう話は嫌いなんだけどな。優には言えないけど。
「人に見えるって形か? よくわからないから実際やってみるか」
イチローはロッカーから離れ、教壇に向かった。
まさか実際に試そうと思うとは。イチローは怖い話は苦手じゃないのか。よくわからないものをそのままにしておけないだけかもしれないけど。俺には真似できない。自ら心霊現象を起こそうだなんて。でも、どんな現象なのかは気になる。怖いもの見たさ、か。
イチローは黒板の上にある蛍光灯を見た後、目を閉じた。沈黙が重い。イチローは動かない。目を閉じてすぐに見えるんじゃないのか。何が見えるかわからないから、確認しているのかも。
10秒くらい経ち、イチローは目を開けた。
「何か見えたか?」
近くに寄ろうと一歩踏み出したところで、イチローは黒板を手のひらで叩いた。
バシッと痛々しい音に足を止めた。
「イチロー?」
「そういうことか」
イチローは俺の腕を掴み、教室の出口へ向かった。走るわけではないが、歩くには速い。
2年生の教室は2階にあるため、階段を下りる必要がある。イチローは、階段の手前で止まった。腕から手が放れた。
「ケータだけでも行くか?」
「は? 何で」
「俺は下りられない」
踊り場を見て、イチローは踵を返した。踊り場には何もなかった。何か置いてあるわけじゃないし、誰かいたわけでもない。でも、イチローには障害になる何かがあった。
荷物を運ぶのを手伝ってもらったんだから、自分だけ先に帰るわけにはいかないだろ。
「何があったんだ?」
「見えるんだ。普段は見えないものが」
イチローの隣に並んで歩いた。
説明しようかどうか悩んでいるようだったので、背中を軽く叩いた。
「言え」
「……ケータは幽霊とか苦手なんじゃないか? これはそういうものなんだ」
まさか俺が幽霊が苦手なことを知っているとは。そんな素振りを見せたことはないと思うけど。
さっきの話の話し方とかでわかったとか。イチローって結構人のことを見てるな。
「苦手だけど、知らない方が嫌だな」
「……さっきの階段の踊り場で、女の子が立っていたんだ。一部欠けた状態で」
俺に配慮したのか、具体的なことを避けた説明だった。
一部が欠けている。
どこが、と言われた方が良かったかもしれない。いや、具体的に想像しなくて済んだか。
手、腕、足、上半身、下半身。想像するのは止めよう。
「蛍光灯を見てから見えるようになったのか?」
「ああ。黒板の中から顔が出てきたから、思わず黒板を叩いた。それで引っ込んだけど」
見えなくて良かった。見えていたら、きっと正常でいられなかった。イチローが冷静に状況を整理しているのが頼もしく見えた。
今まで見えなかったものが見えるようになった。それは今まで存在していても見えなかったのか、自分が創り出したものなのか。蛍光灯を見てから見えるようになったということは、光の刺激で一時的に見えるようになったってことか。黒板の上の蛍光灯だけが、その条件を満たしている。
「で、さっきからついてくる奴がいるんだけど」
「! お前、先に言えよ!」
「走ったら追いかけてきそうだから、様子見てる。俺が見えていることに気付いていないみたいだし」
冷静すぎるのも怖いな。確かに、特別な動きをしなければ見えていることは気付かれないだろう。俺も言われないと気付かなかった。突然黒板を叩いた時は驚いたけど、蚊でもいたのかと思ったくらいで。
だから、走らないで早足で教室を出たのか。今ついてきている奴も、夏休みで生徒がいなくて俺たちくらいしか人間がいなかっただけで、そのうちどこかに行くかもしれない。
イチローの見えている世界はどんなものなんだろう。見たいとは思わないけど。
「見えていない風にすり抜けるのはできないか?」
「それはキツイ。結構グロイから、目線を誤魔化しきれない。横をすれ違うことはできるけど、さっきの子は真ん中に立ってたから」
見えていない風に装うのは無理か。見えているものを見えないようにするためには、自然に視線を移動させないといけない。視線を逸らすのも駄目で、凝視するのも駄目。その先にあるモノが見えているようにしなければならない。
まあ、俺には無理だから無理強いはしない。
「優ちゃんにはどう説明するんだ」
「一生目が見えなくなるからやるな、ってところだな」
こういうのは、取り返しのつかないことになる、と脅しておけば良い。一生目が見えなくなることを代償にしてまで試そうとは思わないだろう。お兄ちゃんが言うことだから、と信じてくれるだろうし。
中途半端な情報だから、馬鹿が真似するんだ。イチローも馬鹿だ。一番の馬鹿は、そういう奴に話してしまった俺だ。
「最悪、俺は窓から飛び下りるから。ヤバくなったら言う」
「今はどういう状況だ?」
「人が増えてる。出血が凄くて廊下が血だらけになってる。見えるだけだから音は聞こえないけど」
音は聞こえなくて良かった、とずれたことを言っていた。
いや、血だらけな廊下で十分気味悪いだろう。しかも、血だらけになっている原因も見えているわけだし。イチローのメンタルって強すぎるだろ。それか、論点をずらすのが得意なのか。
ズルズルと音が聞こえそうだった。ピチャピチャと、水音もしそうだ。何か恨み言でも言ってきているのかもしれない。口が動いているだけで、何を言っているのかわからないとか。
イチローは詳しいことは何も言わないけど、それはそれで想像を掻き立てる。
「あ、バレたかも。俺はここから出るけど、ケータは職員室に寄らないといけないだろ? 入口で待ってる」
イチローは窓を開け、飛び下りた。このくらいの高さなら、大怪我はしないだろう。
無事に着地し、来客用のスリッパを脱いで全力で走って行った。
ちょっと待て。さっきここには何人かいると言っていた。しかも血だらけな状況で。
見えないだけで、ここにいる。イチローについて行った奴がいるかもしれないけど、それを確かめる術はない。
そんなところに置いていくな。
今までイチローが対象になっていると思っていたから深くは考えなかったけど、今ここにいるのは俺だけだ。俺がイチローと同じように窓から飛び下りたら、俺も見えていると思われるかもしれない。
見えないけど、何かいる。鳥肌が立った。
走り出したいのを我慢して、職員室に向かった。階段を下りないといけない。そこには何かいるかもしれない。気付かないですり抜けているのかもしれない。
見えない方が良いのか、見えた方が良いのか。これだから、幽霊は苦手なんだ。
目を閉じて、何も見えないこと確かめた。