色は匂えど、散りぬるを
・色は匂えど 散りぬるを
いつの頃、何歳の時だったか覚えていないが、ある日。
目が覚めて起きると、全ての景色が、モノトーンになっていた。世界が、鉛筆書きで描いたキャンバスの絵のように、濃淡しかなくなってしまった。
今、退屈な授業そっちのけで見ている空の色は、白みの強い灰色で、ちっとも爽やかでない。
簡単に言えば色盲という病気なのだが、色覚障害としてRGBがすっかり消え失せることは非常に稀だと、お医者さんは言う。特にある日を境に突然症状が発覚するなどということは極めて異例であるとのこと。
何が原因だったのかさっぱり覚えていない。そのことからすると、なにか特別記憶から抹消したいような、そんな悲惨な出来事だったに違いないのだが、生憎そんな凄惨なリアルは僕には存在しないようだ。ごく普通の家庭に育ち、ごく当たり前として受け入れられている一般的な生活が送られている。
しかし、誰にも話していない、内緒にしていることはある。
音楽を聴いているときだけは、色が見えるのだ。
心が揺れ動く音ほどより色彩は豊かに彩られる。
雑音などでは駄目だ。不快な音を聞けば、それはそれで色味が見えることもあるものの、そこまで酷いことになる前に人間、対処してしまうらしく、今まで、音楽を聞く以上に色を感じたことは無い。
そして、音楽を聴いているときに決まって思い出す女の子の姿がある。
僕は、その女の子を知っているはず。なのに思い出せない。少女が愁いに満ちた顔でお花を見続ける。その姿が、見るに耐えられず涙がこぼれてくる。僕は少女に何をしてあげられるのだろう。そればかり考える。今でも、そう考える。僕はその時少女になにを与えることが出来たのだろう。
今、僕には何が出来るのだろう?
チャイムが鳴って、授業が終わったようだった。
あー終わった、という風に肩をなで下ろして、適当に号令をして去っていく教師を見送って、ちらほらと生徒が立ち上がったり、話したりし始める。
学年が変わり、僕、もしくは僕たちは高校二年生になった。
緊張感の漂う春の教室は未だに一つ前の学年の気配を残していて、以前から仲の良かったクラスメイトどうしが休み時間を共にするようだった。
しかし、僕は特に仲の良い人がいるわけでも、親しくしたい人がいるわけでもないので、小説読んだり漫画を読んだりして時間を潰すのが常だ。
しかし今日は全く頭が回転しない。早めの五月病だろうか。ひたすらぼーっとモノクロの空を眺める。
すると、不意に声が掛かった。
「よう、裕太郎」
新沢 克士。日焼けして色の濃くなった肌に、ニカリとした口から覗く歯が眩しい人だ。地元のサッカーチームに所属する彼は、なぜか僕を痛くご贔屓されており、帰宅を共にするばかりか、ことあるごとに僕の側に寄ってくる。昼食とか、休日の暇つぶしとか。学級活動とか、いろいろだ。
暇人である僕であるからして、気にはならないのではあるが、あまり気乗りはしない。同姓だからか、時折現れる、「でー」とか「だからー」とか語尾を伸ばす言葉遣いにうざったさを感じるからかは分からないが……。
「んあ」
僕は、回転しない頭を最低限に動かして挨拶に答えた。
「なんだよ、つれねえなー。折角一緒のクラスになったんだから、もっとウキウキしようぜー」
「ぉあー」
「な、なんだそのやる気の欠片もないような返事は!?」
あまりうざったいので、少々顔を手で拭って目を覚まし、そして答える。
「いや、やる気がないんですよ。実際」
「はぁ、嘆かわしいね。君という人間は」
克士はアメリカさんのように肩をすくめ、首を振る。非常に暑苦しい。
「こんなにも良い天気で、桜も満開で女の子のシャツも艶良く光っているというのに、心ときめかないのかい」
掌を差し出された。うざったいが、逆に芝居がかっていて滑稽にも思える、これが。
「おかげさまで、僕の脳内は平穏平常運転ですよ」
僕はようやっと頭を起動させた感じになり、体勢を整えた。
「オー、ノゥ! 刺激を求めましょうよ、熱くなる夏に備えてさ」
「まあ、それは暇だからやぶさかではないけれども、具体的にはどんな風に?」
「ふっ。それはよくぞ聞いて下さいましたね、と」
演出過多だ。克士の見せる白い歯が輝いているのにも少々うんざり……。
「あそこに、三つ編みの女の子がいるだろ」
克士はそう言って、丁度中央くらいの席に座っている女子を顎で指した。
三つ編みにメガネ。重ったるい制服のブレザーも真面目に羽織り、スカートもしゃなりとして、膝下にキープされている。典型的な優等生タイプ出で立ちに、それも感情があまり動かないのではないだろうか、というような顔立ちだ。
しかし、きりっとした頬が、お喋りしているキャピキャピ女子につられて微笑み、ふわりと上がる時、意外にさわったらぷにぷにしてそうな、可愛らしさのある丸みがあるんじゃないかということにも気づく。鋭利なだけではなさそうだ。
「いかにも地味ぃな感じだろ。だけど意外に美女なんだぜ」
克士はささやくように言う。
それは否定できない。ふっくらした頬の割に、足首が華奢で締まっている。制服のせいでよく見ないと分からないが、言われてみると美人かも知れない、と感じた。
「しかしまあ、どこでそんな情報を?」
「そりゃ決まってるだろ。大体の女子高校生が自分の体型を公然と発表してくれる機会と言ったら……」
「……はいはい」
なんだ、水泳か。それにしてもよく観察しているものだ。
「お前、ああいうのタイプなんじゃね?」
「まあ、相対的に見て好感は覚えるね」
「ちっ……たくー、小難しく皮肉っぽい言い方だなー。まあ、有り体に好きなんだろ。親しくなればそれは刺激のある毎日が送れると思わないか?」
「ま、そうだな」
現実味がない分、妄想し甲斐のあるネタであることには間違いない。タイプなら尚更。
「運命的にお前とあの子は同じクラスにもなったんだぜ。夢を叶えてやるよ」
「は?」
運命? ぴんと来ないのだが……。
「万事任せておけ」
「お、おおおい。すっげー不安が過ぎるんだけど」
タイミング悪くチャイムが鳴って、克士がタイミング良く去っていく。
どんな悪巧みを仕組んでいるか分からないが、めんどくさいことにはなりそうなので、凄く嫌な気分になった。
めんどくさい……。
僕にとって女の子に恋することは、何かを失うことと同意義なのかもしれない。僕はそれが怖いだけなのかも知れない。
僕の望み通り……いや、それも別にそんなに強く望んだわけでもない望みは即日かなってしまった。
僕の隣に彼女がいる。
名前は布佐部 るう子という。名前も中々珍しいというか可愛らしい語感であるが、今間近で見ると、彼女の真な属性はエレガントなんじゃないかと思った。
オーラすら感じてしまうのが、横から見える彼女の目の勢いだ。分厚いメガネはあえてそれを隠すためにしているのではないかと思う。盛ったのでないまつげと二重のパッチリさ加減は予備知識のない少年にはちょっと刺激が強そうだ。手慣れた具合に香水が爽やかに香っていて、高校二年生にしては大人びている。
ちょっと惚れそうだった。
「ガッテム(連呼)!」
しかしながら、心の中でそう叫ばずにはいられなかい。
僕は完全にはめられた。
裏でクラス一致の悪質な談合が繰り広げられているとは知らず術中にまんまとはまってしまったのだ。
今日のホームルームだ。
学級委員を決めるなどというイベントがあり、僕はいつものように無関係を決め込んでいたのだが、克士によっていきなり僕に白羽の矢が立ってしまったのだ。
「千崎君が良いと思いまーっす」
凄く嬉しそうに克士が口火を切ると、クラスの男衆がそれきた、とばかりに千崎推薦をまくし立てた。そのような訳で、大して親しくない人達の上辺ばかりな熱い推薦を受けて、息つく間もなく祭り上げられた僕は、立候補した布佐部と共に学級委員などという実にめんどくさい役割を担わされることになったのである。
早速、春の陸上競技会の運営について検討するための会議とやらに出席させられ、こうしてめでたく隣通しの席で相棒のポジションを獲得した。
今し方終わったところだが、僕は布佐部が書類の整理をし終わるまで待っていた。
生まれて初めて委員長になどなってしまったせいで、さっぱり勝手が分からない。改めて思うに、僕にはリーダーシップとかディスカッションとかいう才能は持ち合わせていないのではなかろうか、と思う。流れで決まった議長が原稿を読むのを、お約束とばかりに耳の左から右にすり抜けながら聞いたり、方々であがる意見を、ぽけらと聞くのが精一杯だ。みんな本気の討論ムードの中、僕は浮いた心地で時間が過ぎるのを待つのみ。布佐部が隣にいなかったら結構ピンチになっていたかもしれない。
「ごめんね」
布佐部が書類を整えながら、言った。繊細で柔らかそうな指が紙の束を掴み、机にトントンと落とし込む。リズムが刻まれているのか、もたげた頭からしっかり結わえられた髪の毛が垂れて、ゆらゆらと揺れる。
「え、あ。うーん」
曖昧な返事が出る。ただ見とれていた。
「無理矢理押しつけられて迷惑だったんでしょ?」
「……」
正直、本音が自分でも分からなかった。
「今からでも先生に言えば代わってもらえるんじゃないかな」
ちらりと、布佐部が目線をくれる。
「いや、ま、うーん。良い機会だし、めんどくさいのは事実だけど、それを押してやってみようか、くらいには思ってるよ」
「ふーん、良かった」
僕たちは立ち上がった。きちんとファイリングされた書類を鞄にしまい込み、会議室を出る。
「まあ、布佐部みたいに率先してじゃないし、学校行事にさして関心があるわけじゃないけど……」
「そんなのわたしだって同じよ」
「え?」
僕は思わず布佐部の顔をまともに見てしまった。布佐部はうつむいて、恥ずかしそうに耳元の後れ毛をなでていた。
「だって、学校ほど面白くない所もそうそうないわよ」
「いや、そうだけど。君は、そういう風には見えないっていうか……」
「そうかしら。ふふ……」
半ば自嘲ぎみに微笑する布佐部は諦観としているようだった。しかし、表情はすぐに切り替えられて布佐部はポツッと話を切り出した。
「千崎君って、すごく正直に生きてそうよね」
このことは青天の霹靂というか、思ってもいないことだった。別に身に覚えがないわけではないが、自己弁護を図る。
「なんだよ、いきなり。これでも結構気ぃつかってんだぜ」
布佐部は手と手を合わせて膝辺りに鞄を垂らして歩く。ゆっくりとだ。そんな静にして清らかに歩を進める彼女が、僕の方を見て、頬をゆるます。
「それは分かる。でも、周囲の作るキャラクターに縛られることはないでしょ?」
「おいおい。それこそ初対面でその悟りは、君の言う、『作られたキャラクター』だろよ」
「ふふ、だ・か・ら。こういうトコで、そういう反応するところが、ね」
布佐部が笑う。今度はしてやったりとして、満足そうに。
「なんだぃ……」
話を都合良くすり替えられたように思えたが、悪い気はしなかった。
昇降口に到着する頃には、なんだかただの知り合いから一歩先に進んでいたような気がした。少しほっとした。
「あっ」
布佐部は靴を置くためにしゃがんでいた。何かに気づいたように声を上げたので、僕も布佐部の方を見やると、すのこの上に生徒手帳が残されているのが分かった。
布佐部は迷うことなくそれを拾い上げ、生徒の名前を見る。
「二年D組。上月鈴子……」
布佐部が呟く。
「あれ? Dってうちのクラス……て、ああ。この下駄箱、うちのクラスの所だから当たり前か。しかし、こうづきって誰だっけ……あはは」
学級委員なのにクラスの顔と名前が一致しない。これでいいのか? と我ながら不安に思う。
「うん、まあ、あんまり学校に来てない子だから知らないのも無理ないと思うよ。わたしはちょっと、訳あって知ってるのよ」
「ふうん。病気か何かか?」
「うん……まあ、そう聞いてる」
「ん? なんかはっきりしない感じだな」
ストレートに疑問を口にすると、布佐部は困ったように顔を歪ませて、肩をすくめた。
「実際、病気って何がどう悪いのかはっきり知らないと、よく分からないものなのよね。ちょっと影のある内気な子としか……わたしも。正直わたしにとって腫れ物なのかも」
「ああ、そうか……ところで……」
これ以上突っ込んで聞いたら悪い気がするので、僕は話題を転換させることにした。
「その手帳どうするんだ? その……えっと、こうづき、だっけ? 教室のそいつの机にでも放り込んどくか?」
「そうね……」
布佐部は、左手で唇をさすりながらしばらく考え込んで、それから僕の方に顔を向けた。
「おうちに届けて上げましょうよ」
「はい?」
予想外の返答に戸惑う。
「あんまり学校来ない子だし、実はわたし……家近いのよ。それに、定期が入ってるでしょ。可哀想かなって」
布佐部が手帳の中身を開いて、中に入った定期を見せる。電車の定期だ。この学校の最寄り駅である『S駅』から五つ先にある『Z駅』まで、と書かれている。
「そうだな。確かに困るかもな。でも、だとしたら、今日はどうやって帰ったんだ?」
「親御さんが稀に迎えに来られるから、たまたま今日、忘れたままになったんじゃないかしら」
「うーん、そっか」
「一緒に……来てくれる? ちょっと一人じゃ不安なの」
「え! ええ!?」
またの予想外発言に戸惑ってしまった。僕の動揺を見て、布佐部は気まずそうに顔を伏せてしまう。
「迷惑だよね」
「その……」
確かに僕の家はZ駅とは別方向になってしまうから大変なことになってしまう。しかし、この機会を逸したら後悔するかも知れない、と思った。
「じゃあ……わたし、これで……」
靴を履き、お辞儀をする。僕はそれを見て、何か、電気でも走ったかのような刺激に襲われた。
「いや、待って。僕も行く」
「え、でも……」
「まあ行きはこの上月の定期で乗り込めばただで電車が乗れてしまうし、ぶっちゃけ僕は暇人だ。問題ない」
「あ、ありがとう」
布佐部が安堵して微笑む。大きく息づく彼女の半身と表情の柔らかさを、思わず見とれてしまった。
何故か視界一杯田んぼになる我がA高校は、S駅までの一キロの道のりが風吹きすさぶ農道だ。どうやら開発してはいけない地区に指定されているらしく、家やコンビニすら立たない。駅前に行かなければカイグイすらままならないのだ。
下校時間ともなると、人が沢山溢れかえって波が出来るほどだ。僕が珍しく女子と一緒に帰っているとなれば、それはそれは目立ったことだろうが、幸い学級委員の会合が終わったのは、下校時刻でも部活の終わるような時刻でもない中途半端な時間だったので、通りには人が少なく、閑散としていた。
田植えはまだ始まっておらず、水の抜かれた土は未だかぴかぴとひび割れ、ちょぼちょぼと前年度の稲の茎が突き出ている。
一面に広がる枯れ草の原っぱ。人が一人でいるには非常に落ち着かない場所だ。風に煽られて歩きにくいし、それになにより寂しい。いつもなら駅への足を速め一刻も早く脱出してしまうのだが、今日はそうもいかない。隣にいる布佐部の足取りはゆったりとしていて、一歩一歩を味わっているような勢いなのだ。
僕は所在なく空を見上げたり、近そうで遠い駅舎を睨んだり、時折線路を走る電車の姿を追っていた。布佐部は、何を見ているんだろう。よく分からなかった。色が感じられると、発見できる景色もあるのだろうか。
「布佐部」
「ん。なに?」
布佐部がこちらを見上げる。勢いのある風に当てられて、瞳が細められている。
「なに見てんのかなって」
「別に特に、何も見てないけど……なんで?」
「ああ。なんかゆったり歩いてるのが、不思議でさ。なんか、怖くならないか? このただだだっぴろいだけの小道って」
「え? そうかなあ」
「僕が小市民なだけかもしれないけどさ。なんか落ち着かないんだよね、この道」
「それは言えてるかも。遅刻しそうな時とか、この近そうで遠い道ってイライラするんだよね。見えてるのになかなか学校に着かないし」
「そうそう。この風もやっかいでさ。歩くのに、邪魔なんだよな」
「うんうん」
二人の笑い声が風に散って流れる。
「日本人って小さい世界が好きなのかもね」
布佐部がしみじみそう言った。
「国土も狭いしな」
「作られた美的空間を好むのかも知れないね。枯山水とかもそうだし」
「僕は枯山水も見たこと無いけどな」
「え、そうなの? 京都のお寺とか、良いよ。なんだか入り口から縁側に至るまで考え抜かれてる感じ」
「はあ」
「男の子はそういうの、興味ない?」
「まあ、男全体がそういう気質だとは限らないけど、僕自身は、今まで関心を払ったことが無いのは事実だな」
「そうなんだ。じゃあ……音楽は?」
その言葉が出たとき、ドキッとして、世界が一瞬だけ色づいた。その時布佐部の唇の色が凄く赤く、血の際だったような艶を放っていた。
「え、音楽?」
「うん。作られた世界って音楽こそ最たるものかなって思って」
「なんだかやけに抽象的だな」
「良いじゃない。音楽なら話題になるかなって思っただけだし」
「そうだなぁ。あんまり流行の曲とか聞かないんだよな。クラシックなら少々聞いてるけど」
「え! 逆に意外」
「みんなそう言う」
自然に振る舞まうことはできたが、内心では動悸との戦いがあった。
僕の伯父にプロで活動するヴァイオリニストがいる。昔は度々演奏を聞かされた。ただ、それだけのことなのに、なぜか動悸がする。久しぶりにその事実を打ち明けたからか、そこに色を失った意味が関係するからか。全く思い出せない現実に焦りが生まれて、更に鼓動が早まる。
「じゃあ、ベートーヴェンとか知ってる?」
「まあそれくらいは常識の範囲で」
「交響曲七番二楽章って聞いたことはあるかしら」
「ああ。同じ旋律を繰り返す曲か」
「そうそう。あの曲、わたし結構好きなんだよね」
「へえ、なんで?」
「うーん……なんでだろ」
「おいっ! そこまで話を膨らませておいてそれかい」
「へへ、ごめんね」
お茶目に笑う布佐部。しかし、そこには、どことなく隠された憂いがあるような気がした。
なんだろう、この底の知れない感覚……。
でも、このただだだっぴろいだけの道と違って、布佐部の心はすぐそこにあるような不思議な距離を感じてしまった。
※
Z駅の周辺はなだらかな丘陵地帯になっている。開発の進んだ谷間の平原に工業団地と新興住宅街が広がり、丘を登っていくと再開発されたショッピングモールや大型量販店。そして、巨大なZ市立集合住宅団地が広がる。裏にそびえるT山の根本にまで伸びる団地の一角はうっそうとしていて暗い。まるで森を必要最低限伐採してその中に無理矢理立てたように感じてしまう。一階の日当たりが心配なほどだ。
駅から歩いて十数分。
なだらかな上り坂を登っていると、やがて幅六メートル、高さ三メートル位の立派な階段が今まで歩いてきた歩道の脇に現れる。
それを昇ると、大層ご立派な石造りの看板で『天川団地』という文字。そして広大な敷地にででん、と林のように集合住宅群がそびえる。位置関係や、公園などの施設案内が看板として記されているほどだ。昔は、それはもうトレンドの最先端というか近代化の象徴みたいな輝きを放っていたのだろうが、今はそのかすかな痕跡を錆と埃が覆おうとしている。
布佐部は案内の看板を一瞥して目的地を探し出し、歩き出した。
全体の構造は全室南向きで、今東側から団地を見ているのだが、そこから見て横三列、縦五列。左からA棟B棟、と数えて最後が右奥のO棟ということになる。
ただ気になったのは、歩いていても、日も傾く前なのに団地の隙間に置かれたベンチや日陰。また、簡単な広場に人の気配があまりない。井戸端会議の一つや二つあっても良いのに、と思う。
僕は、高いコンクリートの塊を見上げながら布佐部に言った。
「なあ、上月の家はどこにあるんだ?」
布佐部は何故か上の空といった風にとぼとぼ歩いていて、さっきまでの楽しそうな雰囲気が失われていた。ようやく僕の声に気づいて、びっくりしたようにこちらを向く。
「え、ええ。えっとね……はい」
布佐部は懐から手帳を取り出し、僕に渡してきた。こんなものを渡されたら自分が本人と応対しなければいけなくなる。それはごめんこうむる。はっきりいって受け取りたくなかったのだけれど、否応無しだ。
「Nの304。つまりぃ……かなり奥の方だな。なんか一番奥にアスレチックもあるみたいだし、結構木が茂ってる所なんだな、奥は」
「そうね」
素っ気ないつもりは無いのかも知れないが、布佐部は元気がなく、落ち着きがない様子だった。
奥に行けば行くほど、団地の壁が分厚く感じられる。それにつれ、彼女も圧迫されたような息苦しいような面持ちが色濃く、強く、なっていくように見えた。別に悪いことをしているわけではないのだが、どこかで誰かが見ているかも知れないような錯覚を引き起こすからかも知れない。
やがてR棟に到着する。
塗り替えを怠っているのか、所々の塗装が剥げていて、中も薄くらい。
304ってどの辺りだろうか、と三階辺りを見上げていると、閑散とした三階の通路に一人、ぽつんと制服姿の女子が佇んでいるのが見えた。
ロングヘアのなで肩で、小柄だ。
「あ、人がいる」
僕が呟く。
すると、布佐部が突然駆けだした。何の前触れも、何の言葉もないままだったので唖然としてしまった僕は一瞬、出遅れてしまう。
何故だか分からないが、布佐部の不可解な動揺ぶりは気になるし、ちょっと怖かった。
「布佐部!」
三階まで駆け上がって左右を確認する。
しかし、布佐部も小柄女子もいない。
「え?」
色が分からないだけでなく幻覚を見るようにでもなったのか。
目を丸くして、辺りを見回す。どこかで誰かがピアノを弾いているようだった。ショパンのエチュード三番目の曲だ。耳なじみの曲の微かな旋律は僕の頭の中で綺麗に補足されて、かつて聞いた、誰かの音を思い返す。
階段の先。廊下の奥。外の景色。緑の森。どこにも僕の見知った世界は存在しない。オレンジ色の光を受けて、剥げてつるんとした壁や、屋外灯に張った蜘蛛の巣が光っている。
真っ茶色の各玄関はまるで異次元の扉のように素っ気なく、また怖いくらいの存在感で人がノブを回すのを待っている。
目の前に304という数字。
動悸が止まらない。
そうか……こんなに動揺すると結構色が見えるようになるんだな、と変な所だけ冷静に自己分析をして、この不可思議な状況から頭だけ逃げだそうとしていた。
見ず知らずの人の家の呼び鈴を押すのは躊躇われた。
布佐部もひょっこり現れるかも知れない。
そう心に言い聞かせているのに、ちっとも本心は霧の様に消えた、布佐部の存在を認めない。二度と現れないんじゃないか、とさえ思える。
全て幻で、今までの流れも嘘っぱちなんじゃないかとも考えたが、生徒手帳だけは残っていた。何度見ても『Nの304』と書かれた住所は変わらない。
意を決して、長方形の小さなボタンを押す。
びーーーっという呼び鈴が部屋の中からボタンを押した分だけ聞こえてくる。
留守だったらいいのに、と願ったがしばらくして「はい」という可愛らしい声が聞こえてきた。
「どちらさまですか?」という声と共に、真っ茶色のドアがさび付いた音を立てて開かれる。
ドアの隙間から女の子が顔を出した。
色なんか見えなくても分かるくらい薄い瞳が印象的な子で、パーマの掛かったロングヘアも色素が薄く、外国人のようなイメージだ。さっき外から見えた女の子によく似ていると思ったが、今着ているのは制服ではなく、水玉柄のパジャマに肩からショールを羽織る格好だ。
案の定怪訝に僕を見るので、益々動揺してしまう。
「あの。僕はA高校二年D組の千崎と申します。実は学校で上月鈴子さんの生徒手帳を拾ったので、同じクラスの学級委員、布佐部さんと一緒にお届けに来ました」
そう言って上月の生徒手帳を取り出す。
「ご、ごめんなさい。ほんとに、お手数をお掛けします」
上月は慌てて生徒手帳を奪うように受け取り、中身を見た。
「あの、実は布佐部さんとさっきはぐれてしまって、探していたのですが、布佐部さんと上月さんはお知り合いだって聞いてたので、もしかしたら先に来て待っているのかな、とも思ったんですが……」
「ごめんなさい。確かにるう子とは知り合いなんですけど、今日るう子は来てないです」
「そ、そうですか」
わずかな希望が消えた。
「あの……千崎さん?」
適当に挨拶して、踵を返そうかと思っていたら、上月が遠慮がちに声をあげた。
「はい?」
「うちでちょっとお茶でもどうですか? るう子……ひょっこり現れるかも知れないですし。お礼も言いたいので」
「え。あ……どうしようかな」
申し出は嬉しく思うものの、初対面の女の子の家にあがるのはいかがなものか。考えてしまう。
「ほんの十分くらい、大丈夫ですから」
「そ、そうですか。分かりました」
本当は逃げ帰りたかったのだが、布佐部のことが気になって立ち去るに去れなかった。
「こんな格好でごめんなさい」
上月は言う。
「いえ、僕の方こそ無理を言ってしまって申し訳ないです」
コーヒーの良い匂いがダイニングに広がる。
上月の家にはあまり生活感が感じられなかった。
アニメや漫画で出てくる団地のイメージは、小さな空間に家族が住んでいて、それぞれの趣味や生活必需品が所狭し、うずたかく積まれ、騒がしく家族が右往左往するシーンで、整然と片付けられるような感じではない。
少なくともお洒落に手が回る空間ではないような気がするのだが、上月の家は玄関の洒落た木彫りの人形から、ダイニングテーブルの装飾から、形作られていて家が出来上がっている。
思わず見渡してしまった。
「家の中、良い感じですね。食器とかテーブルとか、なんか綺麗だし飾り付けも良いです」
僕がそう言うと、彼女は恥ずかしそうに答える。
「ありがとうございます。中々家の外に出れないから、時間が余って。それで余計なことまでやっちゃうんです。それだけです」
「ふーん……」
布佐部が言っていた、なんかよく分からない、という言葉がなんとなく分かった気がする。健康な様な、何か事情を抱えてそうな、突っ込んで聞けないラインが怖くて、身動きが取れなくなる。そんな危うさがあった。
でも、布佐部が思っているほど『取扱注意』の人間ではないと、感じた。多分、僕自身が病気なんだか違うんだか曖昧な疾患を持っていて共感出来るところもあるのかも知れない。それに彼女はマイペースでのんびりしている。コーヒーを挽いて、お湯を沸かして、ドリップする。キリっとしないで常にふわっとして、慌てるような様子がない。初対面なのにこれだけのんびりされるとなんだか落ち着くわけだ。
あれこれ考えている内に、コーヒーが差し出された。
何色かわからないが、朝顔の花がソーサーにもカップにも描かれている(濃淡が濃いので濃い紫か赤……黒はないだろうから、そうだと思う)。その姿はあでやかで、尚かつ小さなカップの優雅な歪みが持ち手にも、見た目にも心地よい。贅沢な一皿だと思う。
上月は、ふうと一息つくと、自分もダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、僕と向かい合った。
コーヒーを一口含むと、すぅっとコーヒーが喉の奥に沈んでいく。舌に触らない苦みと、熱すぎない温度が独特の香りを鼻の奥で感じさせる。これは飲みやすい
「おっ」
正直、ミルクを入れないでコーヒーを飲むことが初めてだった。だって、上月は何もオプションを出さないし、カップを思わず手に取ってしまった時点で一連の流れが出来上がってしまったのだ。しかし図らずも良い出会いになった。
「ご、ごめんなさい。砂糖とかミルク入れる方だった?」
今、上月も気づいたようで再び立ち上がろうとするので、僕はそれを止めて言う。
「いや、大丈夫。本当はいつも入れているんだけど、これ、入れなくても飲みやすいや。巧いですね、淹れるの」
上月が恥ずかしそうに、頬を染めて笑う。まるで絵に描いたような瑞々しい笑顔だ。
「そうですか?」
「ええ、とっても。結構コーヒー挽いて飲むんですか?」
「そうですね。むしろ行きつけの珈琲屋さんで飲むのが好きだったんですけど、次第に自分でも作るようになった。それだけなんですけど」
「ふーん。行きつけって、どこですか?」
「うーんと、カフェ『B』というお店があるんですけど、名前、知ってますか? 有名らしいんですけど」
「いえ。僕、あんまりそういうのに興味対象が向いていなくて」
「いえ。普通の高校生で、そんなのにそんな興味が湧く人少ないですよ。実はるう子の家の近くなので、今度一緒に三人で行けたら嬉しいです」
「え、あ、そうだね」
嬉しそうに上月は言う。初めて共感を勝ち得たような、人として認められたような、安心したような、そんな……。
僕は自意識過剰なのだろうか?
コーヒーを淹れるとき以外、常に握りしめている生徒手帳……。
大切なもののように、愛おしいもののように、離さない。
それはずっと変わらず、僕が家を出るときまでそうだった。
「るう子、来ないですね」
「そうですね。帰っちゃったのかな」
「るう子は友達を置いて帰るような子じゃないです。帰ったとしたら……それはきっと何か事情があったんですよ」
うつむき加減に上月は、それでも力強く言った。
「そうだろうね。ま、いつまでも待っていても何ですし……じゃ、帰ろうかな」
「あ、はい」
玄関に立つ。
綺麗に整頓された下駄箱は泥や砂埃さえ見あたらない。
「あ……あの!」
上月が、遠慮がちにだがはっきりと、声を出す。
「ん?」
僕は靴を履き、とんとんとローファーにかかとを無理矢理入れながら振り返った。
すると、なぜだか突然だ。僕から消えた世界の色が蘇り、真っ赤に染まった上月の頬や、色素の薄い茶色の髪の毛が、一日最後の日の光に照らされて、一層白くなっていた。
しかし、この作られたような一室には金色の粒子が満ち、シャボンのように現れては消えていた。まるで、ここから発光しているかのように、ホワイトアウトしようとする景色から逃れ、僕の目に、この玄関の景色が焼き付く。
それで、僕は美しいんだか、状況に順応できないんだか、ぽけらっとしてしまっていた。
どこかでフランツ・リストの『ノットゥルノ』が弾かれている。あの壮大な愛の夢はどの船に乗り、どこへ行き着くのか。誰しも、あの曲を聞けば暖かな揺りかごに揺すられる幼児へと戻ることが出来るのだ。
「また……また会いしましょうね」
「お、おう」
別に立ち止まっている理由はなく、再び真っ茶色のドアに振り返り、ドアノブに手を掛ける。
(また、会おうね)
頭の後ろ側から記憶の扉が叩かれる。
僕はこの言葉と光の粒子を知っている。
その時は少女に、この言葉をもらったのだ。
記憶の中の彼女の顔が逆光のせいではっきりしない。
はっとして再び振り返ると、さすがに僕の焦った様子が不思議だったのか、上月は首を傾げて、笑顔を振りまいてきた。
全てが元に戻っていた。
僕は、ため息を殺して「さようなら」と、さも何も無かったかのように、味気なく振る舞う。
真っ茶色(今はすっかり色が消え失せてしまったが)のドアを開け、日が傾いて今にも消えそうな外へ出る。うるさい扉が閉まった。
団地の廊下は暗いところ、明るいところの世界がはっきり分かれ、暗いところがより一層暗く感じられる。この北向きの通路は、西からの光を取り入れていない。足下や、部屋の先の先は吸い込まれるような暗さだ。屋外灯の光が点いていたが、照らしたい場所には当たっていなかった。
明るい所に目を向けたくて僕は、集合住宅の谷間にある広場に目を向けた。
そこには西日が嫌と言うほど照らされて、煌めくほどに明るい。
人の気配の無いその空間は、作り物のように思えた。
しかしそこにぽつんと……人が、寂しげに佇んでいた。
布佐部が、脅えるようにじっと俯いて、ただ立っていたのだ。
「布佐部!」
僕はたまらなくなって、叫んだ。なにに脅えているのだろうか。早く、解放させてあげたい、と心がはやった。
色々浮かぶ疑問はどうでもよくなってしまった。布佐部が、強張った表情でこちらの声を受け止め、瞬間、とんでもない笑顔に変わる姿を見たら……。