第八話
オトラント公、失いし愛娘を想い涙す。
※なお今回の話は後半を読まずに、前半のみを読むことをお勧めします。
帝都中心部から少しばかり裏に入ったところに、その神殿孤児院は位置していた。
救貧対策と、治安対策、それに教義上の兼ね合いという微妙な関係で設置されている孤児院。
一応、名目上は清貧を重んじる神殿が『蓄財』しているのは救貧のためだ。
当然ながら、浄財は『貧者』救済のために使われることになっている。
そして、孤児を収容してくれる施設程行政担当者にとって有り難いものもなし。
押し付けてくる行政に、笑顔で微笑みながら、権限・権益以上を要求する神殿という構造は恒常化している。
だが、少なくない孤児院で虐待やネグレクトが行われていようとも何事にも例外はある。
そう、腐りきった神殿の救貧施設にも多少はまともな施設が当初の理念に忠実なまま残っているのだ。
最もある意味皮肉以外の何物でもないが、そういったところほど貧窮して久しい。
だが、そのような孤児院だろうともしっかりとした大人に育てられる孤児たちはまだ幸いだろう。
少なくとも、しっかりとした教育を受けた基本的には善人な人々が世のあら風から守ってくれるから。
だから、成人しても彼らはその恩を忘れない。
もとより厳しい運営状態だということは皆が知っているのだ。
余裕がなくともある程度の寄付が、出て行った孤児らから送られてきていた。
そういった孤児院と、元孤児たちのつながりは未だに根強い。
だから、久々に孤児院の門をくぐったヴィルを偶々庭で繕いものしていたシスターは見つけるや否や声をかけた。
「おやおや、ヴィルじゃないか、久しぶりだねェ。元気にしてたかい?」
「ああ、元気にやってるとも。シスター・カトレーヌ。」
たまに、顔を見なくなった子が病気になっていないか?
何か、トラブルに巻き込まれたのではないか?
そんな心配をしている孤児院の聖職者らにとって、顔を見て元気が確認できるのは何よりの喜びだ。
「本当かい?仕事は、順調なのかい?」
やんちゃばかりしていたヴィル坊。
最初は、若くい無産階級者でも入れる補助軍団に入って早く独り立ちしようとして散々気をもませた悪がき。
彼が、ようやく軍団時代の知己に紹介されて堅気の仕事に戻ってきたと知ったとき。
シスターらもようやく、安堵したものだった。
「もちろんさ、親方もなんだかんだと面倒見てくれるし、最近はフロントを任せられつつあるんだ。」
「そうかいそうかい、おっと、お連れさんかい?珍しいね。」
仕事に誇りを持てているのは、よい傾向。
そう思ったとき、話し込んでいたことにシスターは気が付く。
そして、ヴィルの後ろに珍しくも連れがいることに気が付いた。
「おっとミーシュさん、すみません。つい話し込んでしまって。」
「いや、構わないとも。心配してくれる人がいるのは、いいことだからね。」
だが放置されていた男は気にした様子もなく羨ましげに、そしてどこか寂しげに呟く。
「ヴィル、こちらは?」
「こちらミーシュさん。今度、神殿孤児院に寄付を申し出てくれたんだ。」
ミーシュと紹介された男を見遣ると、どこか嘆き疲れ果てたような雰囲気を漂わせている。
先ほどの言葉といい、何かを後悔している素振り。
…カトレーヌは、彼のように人へうまく言えない悲しみを抱えている人間を数多く見てきている。
「で、こちらのシスターがシスター・カトレーヌ。まあ、育ての親みたいな人だ。」
「初めまして、シスター・カトレーヌ。ご紹介にあずかりましたミーシュと申します。」
「こちらこそ、ミーシュさん。…その、なにか事情が?」
ヴィルに紹介され、丁寧に挨拶をしてくる姿勢はどこか教養を感じさせた。
間違いなく、ある程度の教育を受けている人間特有の姿。
しかし、同時に酷く疲れた印象もカトレーヌとしては受けてしまう。
だから、心の重荷を少しでも取り払えればとの思いから彼女は尋ねる。
「ええ、…何から、話したものか。」
こうして、紹介されたミーシュという行商人は少しばかり躊躇した後、ヴィルに促されて重い口を開く。
それは、珍しくもない始まりだ。
ガリアの生まれであること。
四男だった彼は、早くから家を出て丁稚奉公に勤めていたこと。
そして、奉公先で出会った妻と結婚。
祝福されて、ようやく独り立ちした彼ら。
なんとか、生計が軌道に乗ったころに娘にも恵まれ順風な人生を歩んでいた。
その話を聞いた時、シスターには珍しくもないが幸せな家庭生活が容易に想像できる。
当時を思い出すように話すミーシュは、本当に幸せそうな口ぶり。
それは、きっとかけがえのない家族の団欒だったに違いない。
しかし、神はそこからミーシュに試練を与えたもうた。
ひょんなことから、折からの流行病で妻が倒れてしまう。
偶々仕事でシチリーの方へ出ていた彼は、船着き場で顔見知りの船員から知らされ慌てて帰郷。
だが帰郷した時には妻は既に危篤状態で、神殿の祈りも虚しくあっけなく息を引き取ってしまう。
それからの、ミーシュの人生は妻が残した生まれたばかりの娘のためにあった。
幸か不幸か貯金もできていた頃なので、遠方へ赴かずに地元で細々と商いを行い娘の面倒を見る毎日。
初めは、右も左も育児のことをわからなかったミーシュも周りの助けを得て何とかやり遂げていた。
何とかそれが軌道に乗ったときミーシュは娘に何かプレゼントを、と思ったらしい。
そして、字を教えてあげられる本を買うことを思いついたという。
そして、つい先日のことだ。
マリウス亭でヴィルはミーシュから小さな子供が喜ぶような絵本を売っているところを知らないかと相談された。
ようやく言葉を覚え始めた娘への誕生日プレゼント探し。
そう、字が書けるようになれば仕事で遠出しても手紙で連絡を取れるようなるとミーシュは考えていた。
そして、喜んで買ったプレゼントをもって帰ったミーシュ。
だが、彼を待っていたのは冷たくなった娘の亡骸だった。
…また、流行病にやられ寝込んだ次の日にはもう取り返しがつかなかったらしい。
「…娘に、字を教えてあげよう、そんなことを思って私が出歩かなければ。」
ミーシュは、やつれた表情のまま淡々と言葉を口から紡ぎだす。
だが、その内容は。
家族の最期に立ち会うことすらできなかった、父親の悔悟の告白だった。
「せめて、最期にだけでも立ち会えたのではないか、といつも自分を責めていました。」
いや、自分を責めているのだろう。
彼が仕事に出ているとき、娘はさびしく冷たくなっていっていたのだ。
ミーシュの心情はカトレーヌとて到底想像できないほどの悲嘆に満ちている。
「お恥ずかしい話ですがその時、ほかの子たちも娘のように寄る辺がなく死んでいくという現実を知ったのです。」
そこまで話したとき、ようやく気が付いたようにミーシュは笑おうとして失敗して歪んだ表情を浮かべる。
自分を笑おうとしたのか、それとも感情をうまく表情にできないのか。
どちらにしても、彼が酷く苦しみ悩んでいることが彼を蝕んでいるかのようですらあった。
「せめて私が娘にしてやれなかったことを、と思い来ました。ずっと、忘れないという証拠に。」
「…ご立派な心がけ、神も喜ばれることでしょう。何より、娘さんも天国で、きっと。」
人は失ってから、初めて失ったものが如何にかけがえのないかを理解するという。
彼は、もっと家族と過ごせばと悔いている。
だが、もはやそれは叶えられない。
だから、それは彼の贖罪の形。
許しを希い、そして自らの手で贖罪と追悼を行うことを決意したミーシュの祈りだ。
そして、それがミーシュという商人が真摯に寄付を申し出るに至った背景かとカトレーヌは理解した。
「妻と娘を失った家はさびしい。ガリアに帰るつもりですが、時折手紙を子供たちとやり取りさせてもらえないでしょうか?」
そして彼は娘と同じ悲しみを子供たちに与えたくないのだ、と語った。
きっと、娘は一人さびしかったに違いない。
子供には、もうそんな思いをさせずにすませたいのだ、とも。
だから、時折よそからの手紙で、色々な話をしたいという。
…本来ならば、それは子供たちにとってもよい影響がある話だ。
シスターらが面倒を見ているとはいえ子供たちは自分たちを気にかけてくれる外へのつながりを欲している。
だから、出ていった誰かからの手紙があると繰り返し読んでくれとせがむのだ。
もちろん、厳しい懐事情というのは大きく響いていた。
返事の手紙すら、滞るようなところでは子供たち一人一人に十分な教育のための時間も道具も足りていないのが現実。
「お恥ずかしい話、字を教えられるだけの時間も余裕も全員にあるわけではありません。」
申し出は、ありがたい。
本当に、感謝しても感謝しきれない善意の申し出。
だが、カトレーヌは子供たちの多くは勉強を続けようという意思を持てない子も少なくないことを知っている。
遊びたい盛りの子供たち。満足にない食事でおなかをすかせている子供たちは、パンを手にできない勉強を面白がらない。
「子供たちには、学ぼうという意思がない子も少なくないのです。」
本当であれば、本を読み、あるいは何か面白い教材を使い。
彼らにせめて字程度は、関係者は皆思う。
だが、限られた予算は日々の食事と最低限度の衣類や生活費でカツカツ。
彼らの繊細な心は、酷く傷つきやすい。
そんなところに、外に知己を持てる子供と持てない子供がいるのはもめごとの種だった。
「最初のうちは字が読めない子への、代読もお願いさせてください。その分の負担は、私が。」
だが、ミーシュは寂しげに断ろうとしたシスターを制すると恥ずかしげに笑う。
「…あの子たちに、誰かは気にかけている人がいるんだと。そう、教えてあげたいのです。」
それは、彼の真摯な感情が伝わってくる声だった。
寂しい子供たちを思う、ミーシュという男の想い。
「幸い、私は独り身で誰かのために取っておくべき必要もありません。」
それは、彼の悔悟、自らの心の呵責が生み出しているのだろう。
だからこそ、彼は自分にできる形での償いと追悼を求めていた。
「分かりました。…ミーシュさん、あなたのお申し出を有り難く受けさせてください。」
「おお、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。」
外聞も何もなく、涙を流しこちらの手を握りしめて感謝の言葉を紡ぐミーシュ。
その姿を見ているヴィルと、カトレーヌも思わず涙しかけていた。
だから、この日カトレーヌは少しばかりいつもより長く祈った。
…神よ、この真摯な迷えるミーシュさんの魂をお救いくださいますように、と。
さて、フーシェについて語ろう。
彼は確かによき父だ。
家族に対しては、本当によき父だ。
妻と娘を慈しみ、何よりも家庭を大切にしていた。
だから、家庭を失った彼はただ陰謀のみを愛する。
そのフーシェにとって情報というものは、必要な時に手元になければ意味がない。
逆に、情報は適切な時にありさえすれば信じられないような成果すらあげうるのだ。
例えば、タレーランが事例。
彼のしたことは単純だ。
ブリュメール十七日に公債を買って、三日後に売り払っただけ。
本人がナポレオンに語ったところによると、実に簡単な投資だ。
だが、それも知っていればこそできるテクニック。
そう、知っていると知っていないでは雲泥の差が世の中には存在する。
当然ながら、陰謀情念の塊であるフーシェ氏はそのようなことは徹底的に理解していた。
だからこそ、自分だけのオトラント公爵にしか使えない情報網を徹底していつも整備する。
オトラント公爵専用の秘密機関つまりは、そのままフーシェ機関。
それは、他の誰にも使われないように配慮され、かつ精巧に作られている。
かの偉大なボナパルトですら、取り上げたが最後。
稠密無比に稼働していたはずの諜報機関は、一瞬でガラクタと化す。
お蔭で、ボナパルトは暗殺されかけるはガセ情報を掴まされるわと散々であった。
そればかりか、子飼いの秘密警察が一向に尻尾を掴めないでいる陰謀。
それをどうやってか、諜報機関を取り上げられたはずのフーシェが先に察知している始末である。
にこやかに差し出されるフーシェの秘密報告を、ボナパルトはついに受け取らずには入れなかった。
だが、それを維持するためには相応の努力が必要となる。
当然ながら、一から作り上げるのにはフーシェですら気が遠くなるような日々を必要だ。
実際、リヨンで人道的処置に邁進しているうちにパリの情報が少しだけ遅れてしまった。
お蔭で、危うくあのいけ好かないロベスピエールに処刑されかけたことは記憶にこびり付いている。
以来、フーシェにとって辺境に赴いたがために政治情報が途絶えたり先細りしたりするのは断じて許容できない。
必然、どこかに信頼できる情報源を大量に確保しておかねば気が済まないのだ。
少しばかり情報網を帝都に作ったくらいで辺境赴任せねばならないとすれば、フーシェは発狂しかねないだろう。
だが、オトラント公爵ジョゼフ・フーシェ氏は困ったことに信頼できる手駒を持ちかねていた。
理由は単純明快極まるだろう。
信用できるか、できないかは長い年月をかけねば確認できない。
よしんば利害関係でつながったとしても同じだ
相手のことを知らねば、相手の行動原理を信用できない。
つまり、予期せぬ変数が混じり込み想像を狂わしかねないだろう。
直感で、信頼できる人間を見つける?
それこそ、論外だろう。
情報は、一つであって絶対ではない。
勘を否定しようとは思わないが、勘だけで生きていくのは知性無き動物のみ。
なによりも、大体において人は誰もが仮面を被っている。
フーシェがその気になれば、大体の人間相手に誠実で誤解されやすい人間だと信じ込ませることが初対面で可能だ。
あのタレーランですら、初対面のご婦人には心底信頼できる誠実な男性と信じ込ませることができると報告を受けている。
そんな人間心理を知っていれば、間違っても裏付けのない相手を信用するわけにはいかないだろう。
人を雇ったところで、雇い主にどこまで忠実かわからなければ秘密維持すらままならない。
故に、フーシェ氏は困惑する。
方策がないわけではない。
一つは、屑情報だろうとも大量にローラ式にかき集める手段だ。
存外馬鹿にしたものでもなく、塵の中から宝石を発掘することとて可能な手法。
だが、いかんせんこれは分析官を大量に必要とする手法だ。
フーシェ自身、勤勉な能吏ではあるが限界があることを知っている。
別の方法などとしては、相手が自発的に情報を漏らすように誘導することもあるだろう。
例えば、赤の他人を演じて日々の日常を手紙で交換するだけでも政治情勢を掴むことはできる。
相手がこちらを騙すインセンティブが働きにくいというメリットは大きい。
が、いかんせん誰と連絡を取り合うかという問題は依然として無視できないもの。
例え善意の情報提供者だろうとも、役に立たないのであれば悪意あれども有能な情報提供者をフーシェは選ぶ。
ところが、だ。
それ以前の段階ともなれば、本来であればフーシェとしては頭を抱えざるを得なくなっただろう。
いや、何より早馬や腕木通信が使えた立場と異なり今では一般の郵便かメッセンジャー依存という弱点も大きい。
だが、フーシェという人間は実に勤勉かつ応用力があることにかけては定評がある。
ナポレオンをして、遂に忌々しいまでに有能で追い出せないと言わしめた頭脳は解決策を見繕っていた。
その一つの方策が、子供だ。
そう、子供たちを使えばよいのである。
例えば、孤児がどこをうろついていようともたいていの人間は気にもしない。
そして、彼らの多くは自分たちに関心を抱いてもらうことを望んでやまないのだ。
愛情に飢えているといってもよい。
…だから、フーシェはほくそ笑む。
書いていて、なんだろう、いい話なのか良心が痛むのか難しく感じています。
あと、なんかちょっとなろうに投稿していることに違和感すら感じてしまう…。作風の違いかな?
まあ、そのうちフーシェが異世界蹂躙するんで結局は同じでしょう。