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第一話

フーシェ氏、忠義を誓う。

帝国、またの名をインペリウムと称する列強国。

皇帝は、インペリウムの保持者でありインペラトルと号す。


その帝国が宮殿。


そは歴代の皇帝が絶え間なく増改築したがため、あまりにも広大であった。

幾度かは統廃合が試みられるも、結局は踏み込みにくい因襲が諸般の事情という形で立ちふさがり整理は頓挫。

故に、帝国を隈なく探したところで全貌はもはや誰も知りえない。

歴史から忘れ去れた曰く付の小部屋や隠し部屋が人知れず数多放置されているのが実態だった。


その離宮は、弱者にとって一時の雨宿りが場所を提供する。

現インペラトルが第四子、アウレリウス・アントニアウヌス・ヴェルター。

世が世ならば、帝国においてもっとも輝かしい血族の一党として遇されるべき皇族。

だが、今の帝国においては踏みにじられるべき存在としか見做されずにいた男。


そんな彼が呪詛の呪い声を人知れず叫び続けられたのは、単純に人の目を憚り隠れる様にして生きていたからに過ぎない。

数多ある離宮、その中で長らく活用されていない荒れた宮の片隅にある崩れかけた異教の小礼拝堂。

古き時代インペリウムが帝国と号するはるか彼方から、崇拝されていた異教の残滓。


権力闘争に汲々たる神官らにとって、権益とならぬが故に忘れ去られ。

自らの真理探究に没頭する魔導師らにとり、関心外である故に放置され。


宮中の顕官・皇族らどころか下男ですら、気に留めもしない崩れかけた遺構。

だから、微かに囁くような声がしたかと思った次の瞬間。

彼は忽然と現れた男を前に思わず腰を抜かさずにはおれなかった。


現れた男の容貌は、青白い顔の痩せこけて陰気な雰囲気を身に纏うもの。

尖った鼻と、重たく眠たげで感情が込められていないような眼は死んだ魚の眼が如く濁り果てていた。

鉛色、あるいは色のない表情。


身に纏う衣服は、見覚えのない典礼服。


だが、それらをゆっくりと考慮する余裕まではヴェルターにない。


ヴェルターは自らの立場を知っている。

胸中に燻らせているやり場のない怒り。

それは、誰にも知られてはならない類のものだ。


「い、何時からそこに居た!?貴様は、何処の手の者だ!?」


狼狽しつつも、在りし日に父帝、ヴェルギンニウス帝より賜った腰の剣に手を伸ばす。


だが、剣に手を伸ばしつつもヴェルターは一つの困惑を覚えざるを得ない。

小礼拝堂が入り口は、背後の一つのみ。

男が忽然と現れるまで、そう、確かにそこには誰もいないはず。


自らの気が付かぬ間に忽然と現れるなど、宮中の魔導師か。

しかし、ではなぜ俗世を省みぬ奴らがここに?

あまりに不可解な事象。


それが、剣の柄を握りしめる力を震わせる。

だが皇子は意志の力でそれを抑え込む。


今は、ことによっては斬らねばならない。


「名乗れ!然らずんば、斬り捨てるっ!」


だが、そこまで叫び抜刀しかけたヴェルター皇子の次の言動は現れた男の言葉によって遮られる。


「御身が御前にあるは、望まれたが故に馳せ参じたる臣でございます。殿下。」


囁くような声。

それでいて、その紡がれる言葉はヴェルターの心が欲してやまない『力』を感じさせる。

彼とて、帝国を統べる血族の一人。


それがため、魔導の基礎や伝承の中に手招きする誘惑の術があることは聞き及んでいる。

いや、宮中において踏みにじられる立場にあるのだ。

甘い希望はとうの昔、母が崩じ姉から引きはがされたときに断ち切ったはずだった。


だが、微かな囁き声は彼に微笑んだのではなかったか。


「な、名乗れ、何者だ!」


これまであれば、躊躇うことなく振り下ろしていたであろう。

彼は宮中で狩られる立場。

本来であれば、斬り捨てねば危うい身。


剣を構えたヴェルター皇子はしかし、躊躇した。


自分にも理解しかねる感情と、遥か彼方に投げ捨ててきたはずの希望。

手にできるかもしれないその果実の誘惑。


故に、眼前で挙措正しく跪く男に皇子は振りかざした剣を振り下ろすことなく問う。


「ご無礼を致しました。殿下。」


一方で、問われた男は芳しい陰謀の匂いを天性の嗅覚で嗅ぎ付け内心で歓喜する。

彼、ジョゼフ・フーシェにとって陰謀とは血液のようなもの。

その陰謀情熱は知らない陰謀という蠱惑的な響きに魅了されている。


だが、彼はロヨラの戒律で叩き込まれた泰然自若たる態度のまま謹厳実直な官吏の仮面を被ったままひれ伏す。


「私、フランス王国が元老院議員を拝命しておりましたオトラント公爵、ジョゼフ・フーシェでございます。」


淡々と、言葉を紡ぎつつフーシェは目の前で剣に手をかけた皇子と思しき若者を観察。

なるほど、容貌の線を見る限りは形こそ整っている。

だが同時に、酷く脆そうな印象だ。


それに、貧窮しきった貴族特有の疲れた表情が微かに見える。

加えてなかなかに愉快なことだが、助けを求める従者すらいないらしい。

信を置けるものがいないのか、臣を雇う懐すらないのか。


雰囲気を嗅ぎわける事にかけては天才的な嗅覚。

フーシェは愉快な渇望してやまない陰謀と謀略の匂いに満たされた空間に自分があることを理解する。


何よりも、大切なこととして。


「フランス王国?聞いたこともない王国が公爵を騙るか!」


目の前の若造は、世に轟いたオトラント公爵のことを知らない。

悪名轟き、ありとあらゆる秘め事を机に仕舞い込んでおそれられた警察大臣をだ。


何故、言葉が通じているのかは知らないがフランスですら知らない。

革命とナポレオン戦争で、世界を騒がせ動乱を引き起こした世界の軸をだ。


つまりは、自らを掣肘するすべてがここには存在しない。


内心に浮かべるは、悪魔が惚れ惚れとするような微笑み。

愉快な将来を思うだけで、フーシェの心は躍らずにはいられない。

だが、だからこそその熱情を表面に表すことなくフーシェは淡々と言葉を紡ぐ。


「殿下、囁き声が私をこの地に導きました。殿下が望み、その一助たれと囁かれたのです。」


「偽りごとを申すな。」


否定しつつも、否定されたくないという歪んだ願望。

いや、希望的観測を否定したくとも縋りたいという追いつめられた人間の心があげる叫び声。

耳触りの良い言葉、彼が欲するであろう言葉。


ヨーロッパの伏魔殿において、ただ囁きだけで数多の英雄・英傑を屠ってきたオトラント公だ。

その揺らいだ若者の葛藤など手に取るように、容易く察しえる。

何より、渇望して久しい舞台の匂いだ。


待ち焦がれていたフーシェは、その才覚のすべてでもって蕩けるような甘言を囁き声に込める。


「恐れながら、殿下。望まれればこそ、私は此処に馳せ参じたのです。」


孤立して、孤独な若者。

強がる姿の裏でその心は、あまりにも脆い。

あまりにも、彼は叩かれすぎたのだろう。


その程度のことも泰然と聞き流し、心に怨念を養えない程度に高い矜持と自尊心。

なりふり構わず助けを求め、あるいは地位をなげうち隠遁することも叶わぬ自縛の精神。

そこに、優しく染み込む言葉を流し込むのはフーシェにしてみれば面白くもない作業も同然だ。


渇いたものが、水を渇望するがごとく。

追いつめられたものは、希望を渇望するのだ。


故に、沁み込む篤実な言葉は若者にとってはあまりにも蠱惑的。

抗おうにも、よもやと思う心。

希望にすがりたいという思い。


そして、若者は禁断の果実をそれと知らずにそれへ手を伸ばしてしまう。


「・・・では貴様、いや、公爵。卿は私に兵をもたらすというのか。それとも、財をか。」


「おお、お許し下さい殿下。私が兵ども、財貨は異郷の地に。この身だけが御前に捧げうるものにございます。」


微力を悔いるというフーシェの演技。

顔面を動かし、あたかも慙愧の念に堪えないという態で彼は告白。


これが、彼を知る人間であれば。

ナポレオン、タレーラン、あるいはメッテルニッヒならば。

カメレオンの浮かべる色に意味など見出さなかったであろう。


だが、オトラント公爵という政治的怪物を前に年端もいかない皇子にそれを悟る術はない。


「では公爵よ、汝は私の助けにはなってくれないだろう。私が必要なのは、私が欲するのは力なのだ。」


絶えて久しく捧げられることのなかった忠義の言葉。

何故だかは分からずとも、ヴェルターには彼が異郷より馳せ参じたということが理解できた。

あるいは、何者かが囁いた声が耳に残っていたからもしれない。


それを、それと確かめる術はヴェルターにはないだろう。


それでも、彼のものが異郷の地より参ったということだけは厳然たる事実として彼に理解できている。

そう眼前で跪くオトラント公爵と名乗った男は、彼が欲したがためにこの地に招かれたというのだ。

召喚魔法など、魔導院が聞きつければ飛びつく神秘に違いない。


だが、とヴェルターは自嘲する。

如何に、彼のものがかの地において力を有していたのか知る由もないとしても。

追いつめられているヴェルター第四皇子にとって力なき異郷の公爵などは助けたりえない。


「悪魔が私に微笑んだとしたら、それは卿という希望を与え、私に無力さを思い知らしめるために違いないのだな。」


次の瞬間に、悪魔が感嘆する手際の良さでオトラント公爵は若者の心に入り込む。


「殿下、いまだご尊名を賜っておりません。嘆きの前に、御身のご尊名を賜りたく。」


穏やかな、囁き声。

嘆きを前に、それを包み込むような声に思わず素直にヴェルターは口を開く。


「現インペラトルが第四子、アウレリウス・アントニアウヌス・ヴェルターだ。」


そして、自嘲気味に皇子は付け加える。

物々しい名前、高貴と讃えられる血統。

たしかにインペリウムにおいて、皇族というのは並ぶもののない名族だ。


とはいえ、いずれ滅ぶものにとってそれは単なる肩書にすぎない。

いや、なまじ輝かしいだけに今の惨めさを否応なく実感させる重荷ですらあるだろう。


「公爵。どのみち、滅びる者の名など知ってどうするというのか。」


そんな思いを抱き煩悶し続けていたヴェルター皇子。

だは、しかし次の瞬間に不遇に追いやられていた彼は思わず涙する。


「ヴェルター殿下。剣の持ち方もろくに知らぬ身ではありますが、何より主君の名も知らねばお傍で最期の名乗りも上げられませぬ。」


「オトラント公!」


共に、果ててくれるというのか。

誰からも、見捨てられたこの自分と共に。


この忠義の士は、それほどの覚悟を有しているのか?


その瞬間、姉と引きはがされて以来流したことのない涙が思わず頬を伝う。


いや、しかし。


脳裏において、打ちのめされ叩きつけられた記憶が微かに警鐘を鳴らす。


母が、父帝が健在なりしとき忠義を謳った輩を思い出せ、と。


奴らは忠義を誓った口も乾かぬうちに、背を向けわが身を見捨てたのだ。

母たる第三皇妃を守りもせず、汚い金に忠義を売った逆賊ども。

どうして、どうしてこの者がその一党でないと断言できようか。


脳裏によみがえる唐突に現れたときの男の表情は、呆然としていて曖昧なものだ。

だが一瞬見たような、冷たそうな男の表情を思い出せ!


第四皇子という存在をただ、過大評価して一時の忠誠を誓っているのではないのか?

実態を知るや否や、すぐに手のひらを返すのではないとどこに保証があろうか!


だが、一方で彼は信じたかった。

何よりも、篤実に言葉を紡ぐオトラント公爵に対し後ろめたく思う若者らしい誠実さが彼にはある。


疑わしく思えても、同時に信じてしまいたいという思い。

ヴェルターとしては、思わず何もかも打ち明けて話ができればと思ってしまうほどだ。

それでも、彼は決断しかねる。


これまで、宮中で誰にも真意を漏らさずに生きてきた皇子だ。

意図容易く胸中をさらけ出して、打ち解けようというのは望むべくもない。

だからヴェルターは葛藤し、オトラント公爵の言葉によって葛藤を解きほぐされる。


「ヴェルター殿下、御身が晒されたであろう悪意は察するだに余り有ります。それゆえ、私をお疑いになるのも当然でしょう。」


寂しげに。

だが、わかっているとばかりに微笑む表情。


そこにあるのは、理解し、共感してくれる優しさの色だ。


「公爵、私は。」


「どうぞ、何も仰られますな。疑わしき身であることは、重々承知の身。」


猜疑心を受けてなお。

醜い、自分の疑念に晒されてなお。

わざわざ、異郷から馳せ参じてくれた公爵は微笑んでくれているのだ。


その優しさ。


それは、自らが嫌悪した宮中の逆賊共と同じ性根に自分が堕ちたことを否応なく彼に突きつける。

ヴェルターにとって、それは自らの矜持と誇りが腐っていたと突きつけられるも同然の衝撃にほかならない。

助けを求め、助けを乞い、そしてさし延ばされた手を自分で撥ね付けかけたのだ。


若きヴェルター皇子にとってそれは、自分を許し難く感じるほどの自己嫌悪を催す。


彼は、許しを請わねばならなかった。


彼の矜持は、正義を思う心は、オトラント公爵に詫びなければならないと良心に訴えた。


だが、彼は躊躇してしまうのだ。

痛めつけられ、虐げられた宮中での記憶が彼の心を束縛するがために。

それでも、謝るべきだと彼は口を開きかける。


そして、次の瞬間に紡がれるオトラント公爵の言葉によって謝罪の機会を遮られた。


「殿下、御身が臣を疑いになるのはごもっとも。なれど、臣を僅かなりとも信じていただければ犬馬の労を厭いません。」


微かに込められた共感と、理解した上での優しさ。


「どうぞ、臣をお使いくださいませ。私とて多少の知恵はございます。なにか、お役にたてることもございましょう。」


紡がれる言葉。

それは、オトラント公爵が深い知性を有することを覗わせてくれる。

なにより、常に孤独であったヴェルターには信を置いて相談できるものすらいなかった。


学友は、離れていくか信じるに値しない不実な輩のみが侍るに過ぎない。

従僕ですら、信用できない孤独な環境。


「よしんば、使い物にならずとも。お話し相手くらいならば、この不肖の身とて幾ばくかはお役にたてます。」


彼は孤独だった。

気が付けば思わず駆けより、両手を握りしめていた。


頼む、私に力を貸してくれと涙ながらに紡がれた言葉。

感極まったかのようなオトラント公爵。

応じるように、彼がしっかりと力を込めて握り返してくれた時。


初めて、この孤独な宮廷において信ずるに値する味方を自ら得たと信じてしまった。







だから、彼はついに悟りえない。

愉快なおもちゃを見出したジョゼフ・フーシェ氏が如何に心中で歓喜していたかを。

陰謀の芳しい匂いと、懐かしい権勢争いに躍り上がらんばかりに随喜していたことを。


そして、それこそ悪魔のもくろみ通り彼はオトラント公爵を心底信頼してしまう。


何しろ彼は、知らないのだ。


オトラント公爵、ジョゼフ・フーシェ氏はいまだかつて誰にだろうとも自分以外に忠義を尽くしたことがないということを。





どうして、オトラント公爵ともあろうものにとって。

こんな若造の心に取り入ることが難事だろうか。

近いうちに、更新します。

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