AI使用、不使用でガーガー言ってるけどさぁ、そんなモノ無意味じゃね?
最近、「AI不使用」という言葉をよく見かける。
小説サイトを覗くと、商品の包装に「無添加」と書いてあるような感じで、作品に「AI不使用」と書いてあるのだ。
ただ、これを証明するとなると話は別だ。
私は考えているうちに、だんだん遠い目になってきた。
まさに悪魔の証明だからだ。
悪魔の証明というのは、「ないこと」を証明するのがとんでもなく難しい、という話である。
たとえば私が「うちの冷蔵庫に、プリンは入っていません」と主張したとする。
これを証明するには、冷蔵庫を開けて、全段をのぞいて、野菜室もチルド室も確認して、ついでに総菜が入ったタッパーの裏も見なければならない。
それで見つからなかったとしても、「いや、さっき母が買ってきて、あんたが風呂に入っている間に食べたのかもしれない」と言われたら、もう反論できない。
実際、うちではよくあることだ。
そもそも「ある」ことの証明なら簡単だ。
プリンを出して「ほら」と見せればいい。
実物一個あれば勝ちである 。ところが「ない」ことの証明は、世界中のすべての隙間を確認し終えるまで終わらない。
しかも終わったその瞬間に、誰かが冷蔵庫にプリンを入れてしまうかもしれない。
「AI不使用」も、まったく同じ構造をしている。
「使った」ならば話は早い。履歴を出せば一発だ。
ところが「使っていない」と言うためには、執筆中の三日間、いや生まれてから今日までの全時間、スマホも、パソコンも、ふと開いたブラウザも、一度も触れていないことを示さなければならない。
しかも途中で風呂やトイレに立った十分間まで、である。
んなもの、出来るわけがない、入浴やトイレに入った画像が出てきたら ソレこそ別の意味で大問題、人権侵害物である。
他の証拠を出そうにも、出せるのは「使っていない証拠」ではなく、せいぜい「使っているところを見られなかった記録」だけだ。
それは潔白の証明ではなく、ただの「見つかっていない」である。冷蔵庫の中に今のところプリンは見つかっていませんが、というレベルの話で、母のポケットの中までは保証できない。
そんな証明を求められたら、人間は途方に暮れるしかないのだ。
こうなったらもう、カンニング厳禁の創作会場を作るしかないのではないか。
机と椅子と鉛筆しかない部屋に作家を閉じ込めて、試験官が後ろをぐるぐる歩く。「はい、締め切りまであと3日」などと言われながら、小説を書かされるのである。
想像しただけで、私なら最初の一行で「漢字が判りません」と手を挙げてしまう自信はある。
いや、さすがに此れは創作ではなくテストだろう。
なら、大いに妥協して最初の一文を紡ぐところから、ライブ配信をすればいいのだ。
白紙の画面を前に、ガリガリと頭をかきむしり、麦茶を飲み、麦茶がなくなったのでまた麦茶を入れに行き、戻ってきたらまだ白紙。
その苦悩を全世界に晒して、「ほら、一文字も裏でGeminiやChatGPTに頼っていませんよ!」と叫ぶ。
そこまでやって初めて、「AI不使用」のスタートラインに立てるのかもしれない。
ちなみに私の苦悩は、配信しても即垢凍結だと思う。
そもそも挿絵でエロい画像を作成するのにAIをガンガン使うわけだし、ライブ配信中に挿絵の幼女のマッパな女性が出た瞬間に通報され、BAN確実である。
もっとも、そんなライブを見る物好きも居ないと思うのではあるが。
……と、ここまで考えて、ふと気づいた。
仮にその配信中が奇跡のノーAIだったとしても、である。配信が終わって、カメラのスイッチがぷつんと切れたあとの控室で、こっそりプロンプトを叩いていたらどうなるのか。
トイレに立つふりをして、トイレの個室でスマホを開いていたら?
カメラの死角、つまり人類の死角はいくらでもあるのだ。
結局、潔白というものは、本人にしか見えない。
しかも本人だって、「あの言い回し、AIに教わったんだっけ、昔読んだ本で覚えたんだっけ」と、だんだん怪しくなってくる。
そう思うと、生成AIが当たり前に存在するこの世界で生まれた作品は、もう例外なく全部グレーなのではないか。
AIが登場してから、人類の創作史のページをめくったその瞬間から、私たちは全員、「真っ白」の証明書を没収されてしまったのだ。
没収した犯人は誰かと聞かれても困る。
たぶん、時代である。時代は証明書を返してくれない。
ここまで来ると、「使った」「使わない」と声高に論じ合っているのが、だんだん馬鹿らしくなってくる。
絵画に例えて見よう。
みんながギャーギャー言うルールの厳格さだの、プロセスの純潔だの、あれはほとんど「建前」という名の立派な額縁なのだ。
額縁の細かい傷については、みんなずいぶん熱く語る、でも肝心の絵がつまらなかったら、誰も見ないしソモソモ評価されようがない。
では、世の中は本当は何を求めているのか。
答えは、驚くほど身も蓋もない。
「で、面白い作品が、どれだけ早く読めるの?」
これである。
読者というのは、実に正直な生き物だ。
作者が三日三晩うなって書いたものでも、つまらなければ三秒で閉じる。そもそも選ばれもしない。
逆に、作者がAIを使い、昼寝のついでに書いたものでも、面白ければ最後まで読む。
しかも、できれば続きも早く出してほしいと言う。勝手なものだ。でも私も読者のときは同じ顔をしているので、何も言えないのであるが。
其処から言えることは、つまり作品が面白ければそれで良いのだ。
AIを使おうがどうしようが、要は、面白い作品が、早い、上手い、安い、の3拍子揃って読者のもとに届けばよいのである。
身も蓋も、それ以前の収納箱すらない結論であるがソレが真実であろう。
文字をAIが並べようが、人間を並べようが、はたまたネコがキーボードの上で歩いてランダムで文字を並べようが、そこに読んで面白いように文字が並べば、読者が読んで面白い小説である。
逆に、人間が何時間かかろうが、読んで面白ろくないように文字が並べば、読者が読んでつまらない小説であろう。
小説は文字の羅列、其処には 文字の並び以上の物もなく、それ以下の物もないのだから。




