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転生した俺は、観客席ではなくピッチに立つ

作者: TanaKyte
掲載日:2026/05/21

 有馬慧ありま・けいは、目覚ましが鳴る五分前に目を開けた。


 窓の外はまだ薄い。春の朝の空気は冷たく、布団から出るには少し勇気が要る。けれど、慧は迷わなかった。上体を起こし、両手を開いて、指を一本ずつ曲げる。膝を立て、足首を回す。深く息を吸う。胸が痛まない。息が詰まらない。心臓が乱れない。


 それだけで、今日も十分すぎるほどありがたかった。


 前の人生で、慧の身体はいつも頼りなかった。走るどころか、階段を上るだけで息が切れた。体育の時間は見学が多く、同級生がグラウンドを駆け回る姿を、校舎の影から眺めていた。


 その代わり、サッカーを見ることだけは誰にも負けないほど好きだった。


 海外リーグの試合、代表戦、育成年代の大会、戦術解説、個人技の動画。誰がどのタイミングで体の向きを変えたか。ボランチが一歩ずれた瞬間、どこにパスコースが生まれたか。ストライカーがクロスの前にどこを見ていたか。何度も、何度も、食い入るように見た。


 見ることしかできなかったから、見ることだけは誰にも負けたくなかった。


 今は違う。


 慧には動く身体がある。走れる足がある。ボールを蹴れる膝がある。


 だから、雑に扱う気にはなれなかった。


 洗面所で顔を洗い、軽くストレッチをしてから台所へ行くと、母が味噌汁の鍋をかき混ぜていた。


「またそんな早く起きたの?」


「習慣」


「中一になったばかりの子が、習慣って言う?」


 母は呆れたように笑った。


 食卓にはご飯、焼き魚、卵、野菜の小鉢が並んでいる。慧は牛乳を一杯つぎ、魚を残さず食べた。小学生の頃からそうだった。お菓子より食事、夜更かしより睡眠、遊ぶ前には準備運動。周りの大人たちは、不思議そうに慧を見た。


 でも、慧にとっては当たり前だった。


 身体は、失ってから大事にすればいいものではない。


「今日から中学生なんだから、少しは肩の力抜きなさいよ」


「抜いてる」


「抜いてる子は、入学式の朝にふくらはぎの張りを確認しません」


 母の言葉に、慧は黙って味噌汁を飲んだ。


 言えるはずがなかった。


 この身体が、どれだけ欲しかったものなのか。朝起きて、何も苦しくないことが、どれほど特別なことなのか。


 今世の両親は普通の人だった。父は会社員で、母はパートをしながら家を見ている。家にトレーニングルームがあるわけでも、元プロの血筋があるわけでもない。


 それが、慧にはむしろありがたかった。


 誰かの期待ではなく、自分の意思でサッカーを選べるからだ。


 中学校の入学式は、思ったより早く終わった。


 桜は少し散り始めていて、校門の横には新入生と保護者が列を作っていた。慧も一応、母に写真を撮られた。新品の制服はまだ硬く、首元が少し落ち着かない。


 けれど、慧の頭の中は放課後のことばかりだった。


 川原町フットボールクラブ。


 町でまともに活動しているサッカークラブは、そこしかない。小学校から通っている場所で、土の匂いも、古いゴールネットのほつれも、コーチの笛の音も、もう身体に染みついている。


 ただし、慧はチームの中心ではなかった。


 足元はそこそこ上手い。視野も広い。パスは褒められることが多い。けれど、派手なドリブルで抜くわけでも、ゴールを量産するわけでもない。


 周囲の評価は、いつも似ていた。


 賢い。便利。落ち着いている。


 けれど、怖くはない。


 小学校の頃、慧は何度も「もっと自分で行け」と言われた。


 相手が一人なら抜ける。二人目が寄る前に、味方を使えばいい。慧はそう考えた。実際、その判断は間違っていないことが多かった。けれど、子供の試合では、正しさだけでは目立てない。


 ゴールを決める子が褒められる。強引に抜く子が歓声を浴びる。外しても、撃った子の名前が残る。


 慧はそのたびに、自分の胸の中で何かが小さく軋むのを感じていた。


 自分も撃ちたい。


 だが、その感情に名前をつける前に、慧はいつも別の理屈を置いた。


 ここはパスの方が確率が高い。


 味方を使う方が正しい。


 自分はそういう役割ではない。


 そう言い続ければ、本当にそうなる気がした。


 慧自身も、自分はトップ下の選手だと思っていた。味方を前に向かせる。空いている場所を見つける。パスで相手の守備をほどく。それが自分の役割だと、納得しているつもりだった。


 それなのに、夜に一人で見る動画は、いつもストライカーのゴール集ばかりだった。


 裏へ抜ける一歩。ニアへ飛び込む角度。GKの重心を外すシュート。観客が立ち上がり、味方が駆け寄り、すべての視線が一人に集まる瞬間。


 研究のためだ、と慧は自分に言い聞かせていた。


 ただ、その言い訳が薄いことも、どこかで分かっていた。


 練習場に着くと、いつもより空気がざわついていた。


 グラウンドの端に見慣れない少年が立っている。背は同年代の中では高い。細すぎず、重すぎず、姿勢に無駄がなかった。黒い練習着の胸元に、まだクラブのエンブレムはない。


 その隣で、コーチが少し緊張した顔をしていた。


「今日から一人、新しく入る。鷹宮怜央たかみや・れおだ」


 その名前が出た瞬間、周囲が小さくどよめいた。


 慧も、息を止めた。


 鷹宮。


 前の人生で、何度も見た名前だった。


 鷹宮蒼真たかみや・そうま。元日本代表のエース。欧州でも得点を重ね、日本人ストライカーの一つの到達点と呼ばれた男。その息子が、目の前にいる。


「父親の仕事の都合で、この町に来た。しばらくうちでプレーする」


 誰かが小声で「本物かよ」と言った。


 別の誰かが「なんでうちに」と呟いた。


 怜央はその声を聞いているのかいないのか、表情を変えなかった。挨拶も短い。


「鷹宮怜央です。ポジションはフォワードです」


 それだけだった。


 堂々としている、というより、そう見られることに慣れているようだった。歓迎も好奇も羨望も、全部ひとまとめに受け流す顔。


 コーチは補足した。


「鷹宮蒼真さんが、県の育成プロジェクトに関わることになった。それで家族でこっちへ来たそうだ。怜央はしばらくこの地域で活動する」


 その説明で、ざわめきはさらに大きくなった。


 この町には強豪クラブがない。ここ以外に選択肢らしい選択肢もない。だからこそ、怜央は川原町FCに来た。


 地元唯一のクラブに、日本最高級ストライカーの息子が入る。


 それは、ひどく不釣り合いに見えた。


 慧は、胸の奥が少しざらつくのを感じた。


 サラブレッド。


 その言葉が、嫌でも浮かぶ。


 父親は日本最高級のストライカー。幼い頃から最高のものを見て、聞いて、教えられてきたに違いない。自分が映像の向こう側で憧れていたものを、怜央は生活の中に持っていた。


 羨ましい、と思った。


 そう思った自分に、慧は少し驚いた。


 練習の最後に、紅白戦が組まれた。


 慧はビブス組のトップ下。怜央は同じチームのセンターフォワードに入った。


 ボールが動き始めると、慧はすぐに分かった。


 怜央は、あまりボールに触ろうとしない。


 足元で受けに来るタイプではない。中盤に下がって組み立てに参加するわけでもない。相手センターバックの間に立ち、時々、半歩だけ位置を変える。


 周りは少し戸惑っていた。


 期待が大きかった分、もっと派手にボールを持つ姿を想像していたのだろう。


 だが、慧には違って見えた。


 何もしていないわけではない。


 怜央は、ゴールから逆算して立っている。


 味方の右サイドがボールを持った瞬間、怜央の体の向きがわずかに変わった。相手DFの視線がボールに寄る。その裏へ、怜央が一歩だけ消える。


 クロスは高くなかった。


 速くもない。小学生の延長のような、少し雑なボールだった。


 それでも怜央は、DFの前に入っていた。


 右足の内側で軽く合わせる。ボールはゴール左隅へ転がった。


 派手さはなかった。


 けれど、誰も止められなかった。


 グラウンドが一瞬静かになり、そのあと遅れて声が上がった。


「すげえ」


「今、何した?」


 慧は声を出せなかった。


 今のは、偶然ではない。クロスが上がる前に、もうそこに入る準備を終えていた。DFがボールを見た瞬間だけ、視界から消えた。


 たった一回で、試合を変えた。


 それがストライカーなのだと思った。


 数分後、慧の足元にボールが入った。


 相手のボランチが寄せてくる。右サイドは詰まっている。左のウイングは空いているが、トラップに不安がある。怜央は中央にいる。


 慧は一瞬で周囲を見た。


 DFの右肩の外側にスペースがある。そこへ怜央が流れれば、前を向いて受けられる。得点確率は高い。


 慧は迷わず、そこへスルーパスを通した。


 だが、怜央は走っていなかった。


 ボールは誰もいない場所を抜け、相手DFに回収された。


「そこじゃない」


 怜央の声が低く飛んだ。


 慧は反射的に言い返した。


「空いてただろ」


「空いてる場所と、点が取れる場所は違う」


 怜央は戻りながら、淡々と言った。


「今のは俺が外に流れたら、DFも外に逃げる。ゴールから遠ざかるだけだ」


「でも、中央は閉じられてた」


「閉じてるように見えただけだ。あのDFは半身が逆だった。足元に入れば、前を向かなくても撃てた」


 慧は言葉を失った。


 見ている場所が違う。


 自分は空間を見ていた。怜央はゴールを見ていた。


 同じピッチに立っているのに、世界の中心が違っていた。


 その夜、慧は布団に入る前にスマートフォンを開いた。


 検索したのは、鷹宮蒼真のゴール集だった。今世の自分にとっては昔の映像でも、前世の記憶の中では何度も見た場面だ。クロスの落下点に先に入る動き。DFの背中側から前へ出る一歩。シュート直前に足首だけでコースを変える技術。


 画面の中の蒼真は、ほとんど迷わなかった。


 ゴール前で、正解を探しているように見えない。


 最初から、そこが自分の場所だと知っているように動く。


 その息子が、今日、自分と同じグラウンドにいた。


 慧は画面を閉じ、しばらく天井を見た。


 怜央にパスを出せば、きっと点になる。


 そう思った瞬間、胸が高鳴った。


 そのすぐあとで、別の感情が湧いた。


 自分が決める未来は、どうしてすぐに想像できないのか。


 それから一週間、二人の距離は近づいたようで近づかなかった。


 慧のパスから怜央が決める場面は増えた。怜央が動き出す場所を少しずつ覚え、怜央も慧がどこを見ているか理解し始めたからだ。


 チームは急に強くなった。


 慧が組み立て、怜央が決める。


 単純で、強い形だった。


 翌日から、怜央は少しずつチームの空気を変えた。


 練習の強度が上がったわけではない。コーチのメニューも大きくは変わっていない。ただ、全員がゴール前を見る時間が増えた。


 クロス練習では、怜央が入る場所を皆が見る。シュート練習では、怜央の蹴り方を真似しようとする。紅白戦では、誰もが「怜央に出せば何かが起こる」と思い始める。


 それはチームにとって良いことだった。


 同時に、慧にとっては危険でもあった。


 なぜなら、怜央に出すことは簡単に正解になったからだ。


 自分がリスクを背負わなくても、怜央が決めてくれる。自分が撃たなくても、試合は動く。


 慧は、その楽さに気づいていた。


 そして、その楽さが怖かった。


 コーチは満足そうに頷き、チームメイトも口々に言った。


「慧が出して、怜央が決めるの、反則じゃん」


「今年、結構いけるんじゃね?」


「やっぱ鷹宮ってすげえな」


 慧は笑って頷いた。


 嬉しくないわけではない。自分のパスがゴールになる。前世で何度も見ていたような、ストライカーの動きにボールを届けられる。それは確かに楽しかった。


 けれど、怜央がゴールを決め、仲間に囲まれるたびに、胸の奥に小さな痛みが残った。


 俺が、あそこにいたら。


 そう思ってから、すぐに打ち消す。


 自分は作る側だ。怜央は決める側だ。その方がチームは勝てる。


 合理的には正しい。


 だから余計に、苦しかった。


 練習が終わったあと、慧は一人で残ることが増えた。


 ペナルティエリアの手前にボールを置き、右足で狙う。枠に飛ぶ時もあれば、大きく外れる時もある。力を入れると軸足がぶれ、丁寧に蹴ると威力が落ちた。


 頭の中には、何千回も見たフォームがある。


 だが、自分の身体はその通りに動かない。


 それが悔しかった。


 それでも、やめられなかった。


 シュートを打つたびに、胸の奥に隠していたものが少しずつ輪郭を持つ気がした。


 最初の練習試合は、隣町のクラブが相手だった。


 相手は、事前に怜央のことを調べていたらしい。試合開始から、センターバック二枚が怜央を挟み、ボランチがパスコースを切った。怜央が動けば、必ず一人がついていく。


 それでも慧は何度か通そうとした。


 足元。裏。ニア。ファー。


 けれど、相手は怜央を徹底して消した。怜央が受ける前に潰す。受けても前を向かせない。シュートの体勢に入る前に身体を寄せる。


 前半は零対零。


 ハーフタイム、ベンチに戻った怜央は息を整えながらも、苛立ちを隠していなかった。


「俺だけ見られてる」


「分かってる」


 慧はボトルの水を一口飲んだ。


「後半は一回、俺が外に流れる。空いた中央に誰か入れ」


 怜央がそう言うと、周囲は頷いた。


 慧も頷きかけて、途中で止まった。


 誰か。


 その中に、自分は入っているのか。


 自問した瞬間、胸が重くなった。


 後半、相手の守備はさらに分かりやすくなった。


 怜央へのコースはない。サイドも詰まっている。けれど、慧の正面だけが薄い。ペナルティエリアの手前、少し右。左足で持ち出せば、撃てる。


 相手のDFが半歩下がった。


 誘われている、と慧は分かった。


 撃たせていい。


 相手はそう判断している。


 慧は奥歯を噛んだ。


 視界の端で、怜央が二人に挟まれながらも小さく動いた。いつものように、決めるための場所を探している。


 慧の前にはシュートコースがあった。


 右にはパスコースがなかった。


 左にも、ない。


 分かっている。


 ここは、自分が撃つ場面だ。


 それでも足が止まった。


 シュートを外す光景が頭をよぎる。ボールが枠を越え、味方が肩を落とし、相手が息を吹き返す。前世で何度も見た、ストライカーが責められる瞬間。


 違う。


 自分はストライカーじゃない。


 作る側だ。


 その言葉が、逃げ道のように頭に浮かんだ。


 次の瞬間、慧は無理に怜央へ縦パスを入れていた。


 ボールは相手ボランチの足に引っかかった。


 カウンター。


 戻らなければならない。分かっているのに、慧の一歩は遅れた。相手の右サイドが抜け出し、低いクロスが入る。中央で合わせられた。


 零対一。


 それが決勝点になった。


 試合後、グラウンドの隅で、慧はスパイクの紐をほどけずにいた。


 指先がうまく動かなかった。


 チームメイトは「惜しかった」と言った。コーチも「次だ」と言った。誰も慧を強く責めなかった。


 それが、余計に苦しかった。


「なんで撃たなかった」


 背後から声がした。


 怜央だった。


 慧は顔を上げなかった。


「コースはあった」


「見えてたよ」


「なら、なんで出した」


「お前が――」


「俺は消されてた」


 怜央の声は冷たかった。


「俺が消されたなら、お前が決めればよかった」


 慧は唇を結んだ。


「俺は、そういう選手じゃない」


「嘘だな」


 短い一言だった。


 慧は初めて顔を上げた。


 怜央は怒っているようには見えなかった。ただ、まっすぐに慧を見ていた。


「お前、ゴールを見てる時だけ目が違う」


「何を」


「練習後、一人でシュート打ってるだろ」


 慧は息を詰めた。


 見られていた。


 誰もいないと思っていた時間。ゴール前にボールを置き、何度も、何度もシュートを打っていた。うまくミートせず、枠を外し、それでもやめられなかった。


「研究のためだ」


 口にした瞬間、自分でも薄い言い訳だと分かった。


 怜央は目を逸らさなかった。


「向いてるかどうかじゃない。なりたいかどうかだろ」


 その言葉は、胸の奥の一番柔らかい場所に刺さった。


 慧は何も言えなかった。


 なりたい。


 本当は、ずっとなりたかった。


 前の人生で、画面の向こうにいた選手たち。ゴールを決め、叫び、仲間に抱きしめられるストライカー。自分には一生届かないと思っていた場所。


 今の自分には、足がある。


 走れる。


 息もできる。


 それなのに、ゴール前でまた見ていた。


 自分が外すことを恐れて、誰かが決める瞬間を待っていた。


「お前はサッカーを知ってる」


 怜央は言った。


「でも、まだ見てるだけだ」


 慧はゆっくりと視線を落とした。


 スパイクの先に、土がついている。


 前世では、こんな汚れすら欲しかった。ピッチに立った証。走って、止まって、踏み込んだ証。


 見るだけなら、前の人生で十分やった。


 喉の奥が熱くなる。


 悔しさなのか、恥ずかしさなのか、ようやく本音に触れた痛みなのか、自分でも分からなかった。


 ただ、一つだけ分かった。


 自分は、怜央にパスを出したいだけではない。


 怜央のように決めたい。


 いや、怜央とは違う形で、自分のゴールを決めたい。


 慧は立ち上がった。


「……次は撃つ」


 声は小さかった。


 それでも、言った瞬間、胸の奥にあった重いものが少しだけ動いた。


 怜央はしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。


「次じゃ遅い時もある」


「分かってる」


「分かってるなら、練習しろ」


 怜央はそれだけ言って、踵を返した。


 遠ざかる背中を見ながら、慧は拳を握った。


 悔しい。


 羨ましい。


 腹が立つ。


 でも、それ以上に、感謝に近いものがあった。


 怜央が来なければ、自分はきっと、ずっと上手いパサーの顔をしていた。味方を導く役だと言いながら、ゴール前で逃げていた。


 慧はグラウンドの中央を見た。


 夕方の光が、土のピッチを赤く染めている。ゴールは遠い。けれど、初めてそこまでの道が、自分のためにも伸びているように見えた。


 味方を導くことは、嫌いではない。


 むしろ、自分の武器だ。


 でも、それだけでは終わらない。


 自分自身も、あそこへ行く。


 慧はボールを拾い、ペナルティエリアの手前に置いた。


 誰もいないグラウンドで、深く息を吸う。


 胸は痛まない。


 足は動く。


 今度は、見るだけでは終わらせない。


以下、**短編終盤の差し替え用**として書きます。

位置としては、前回本文の「後半、相手の守備はさらに分かりやすくなった。」以降を差し替える想定です。


---


 後半、相手の守備はさらに分かりやすくなった。


 怜央へのコースはない。サイドも詰まっている。けれど、慧の正面だけが薄い。ペナルティエリアの手前、少し右。左足で持ち出せば、撃てる。


 相手のDFが半歩下がった。


 誘われている、と慧は分かった。


 撃たせていい。


 相手はそう判断している。


 慧は奥歯を噛んだ。


 視界の端で、怜央が二人に挟まれながらも小さく動いた。いつものように、決めるための場所を探している。だが、そこへ出せば潰される。怜央は消されている。右もない。左もない。


 分かっている。


 ここは、自分が撃つ場面だ。


 それでも足が止まりかけた。


 シュートを外す光景が頭をよぎる。ボールが枠を越え、味方が肩を落とし、相手が息を吹き返す。前世で何度も見た、ストライカーが責められる瞬間。


 違う。


 自分はストライカーじゃない。


 その言葉が、いつものように逃げ道になりかけた。


 だが、その瞬間、怜央の声が頭の奥で鳴った。


 空いてる場所と、点が取れる場所は違う。


 慧は、シュートコースから目を外した。


 ゴールを見る。GKを見る。DFの肩を見る。怜央に二枚が寄っている。ボランチは自分の足元を見ている。右サイドの味方は、慌てて開き直している。


 そして、ペナルティエリアの中に、誰も見ていない細い線があった。


 空いている場所ではない。


 点が落ちる場所。


 慧は、右へ短く預けた。


 相手DFがわずかに緩んだ。やはり出した。そう思った顔だった。ボランチも一瞬だけボールへ目を向ける。怜央についていたCBの片方も、サイドへ意識を流した。


 その一瞬で、慧は消えた。


 走り出したのではない。


 まず、一歩引いた。


 相手ボランチの視界から外れるための一歩。次に、斜めへ入った。CBの背中とGKの視線が重なる、黒い隙間へ入り込む一歩。最後に、止まった。


 止まったことで、周りだけが流れた。


 ボールを持った味方が、苦し紛れに低いクロスを入れる。怜央へ向けたボールだった。相手CBが足を出す。軌道が変わる。ボールは怜央の前をすり抜け、誰もいないはずの場所へこぼれた。


 そこに、慧がいた。


 怜央の目が見開かれる。


 慧は叫ばなかった。呼びもしなかった。ボールが来る前から、そこに落ちることを知っていたように、右足の内側を静かに置いた。


 強いシュートではなかった。


 けれど、GKは一歩も動けなかった。


 ボールは、伸ばされるはずだった腕の横をすり抜け、ゴール左隅のネットを揺らした。


 音が遅れて届いた。


 誰もすぐには叫ばなかった。


 中学生のゴールではなかった。


 少なくとも、その場にいた誰もがそう感じた。


 派手なドリブルでもない。豪快なミドルでもない。だが、ボールがこぼれる前に、慧だけがその場所を知っていた。相手がボールを見た瞬間に視界から消え、守備が怜央へ寄った瞬間に、逆側の死角へ舞い降りていた。


 まるで、土の上に落ちる餌の影を、誰よりも早く見つける賢いカラスのようだった。


 いや、ただのカラスではない。


 道を見つけ、影を渡り、最後の一点へ降り立つ黒い鳥。


 その三歩は、偶然ではなかった。


 一歩目で視線を外し、二歩目で死角へ入り、三歩目でゴールの前に現れた。


 慧自身も、しばらく動けなかった。


 ネットが揺れている。


 自分の蹴ったボールが、ゴールの中にある。


 前世で何度も見た光景だった。画面の向こうで、誰かが決めていた光景。観客席から見上げるしかなかった場所。


 そこに、今、自分が立っている。


 怜央は、その光景を見ていた。


 胸の奥に、鋭いものが走った。


 怒りではない。悔しさに近い。だが、それだけでもなかった。


 怜央は、自分がストライカーとして育てられてきたことを知っている。ゴール前の立ち位置、DFの背後を取る角度、GKの重心を外すタイミング。幼い頃から何度も叩き込まれ、何度も身体に刻んできた。


 それでも、今の慧の動きは、そのどれとも違っていた。


 ゴールを狙っていた。


 だが、ゴールだけを見ていたわけではない。


 相手の視線、怜央に寄る守備、ボールの逃げ道、味方の苦しいクロス。その全部を使って、最後に自分だけが落下点へ立っていた。


 怜央なら、もっと速く撃てる。


 怜央なら、もっと強く決められる。


 だが、あの入り方は違う。


 自分が知っているストライカーの動きではなかった。


 だから、腹が立った。


 そして同時に、認めるしかなかった。


 今の一点は、偶然ではない。


 あいつは、決めた。


 自分のやり方で。


 ベンチ側では、コーチがまだ呆然としていた。チームメイトたちが遅れて叫び出す。誰かが慧の背中を叩いた。誰かが「何だよ今の」と笑った。


 慧は笑い返そうとして、うまくできなかった。


 その慧に、怜央が近づいた。


 慧は少し身構えた。


 けれど、怜央は短く言った。


「ナイスゴール」


 慧は一瞬、言葉を失った。


「……ありがとう」


「今のは、すごかった」


 それだけだった。


 余計な説明も、皮肉もなかった。


 怜央は慧の肩を軽く叩き、すぐに前を向いた。


 慧はその横顔を見た。


 怜央の表情はいつも通りに戻っていた。だが、拳だけが強く握られていた。


 その少し離れた場所で、一人の男が静かに立っていた。


 鷹宮蒼真。


 怜央の父であり、かつて日本中がゴールを託したストライカー。


 彼は、息子の得点を見る時とは違う目で、慧を見ていた。


 驚きではない。


 興味でも足りない。


 もっと鋭く、もっと冷たい。完成された選手が、未知の才能を測る時の目だった。


 蒼真はスマートフォンを取り出すと、短くどこかへ電話をかけた。


「俺だ」


 声は低かった。


「今日、面白い子を見た」


 蒼真の視線は、まだ慧から外れていない。


「名前は有馬慧。川原町FCの中一だ」


 少し間があった。


「いや、怜央じゃない。別の子だ」


 蒼真は、ゴール前に立つ慧を見つめたまま言った。


「映像を送る。確認してくれ。あれは、ただの偶然で片づけない方がいい」


 電話を切ったあとも、蒼真はしばらく動かなかった。


 慧はその視線に気づいていない。


 ただ、ゴールの中から転がってきたボールを拾い、両手で包むように持っていた。


 胸は痛まない。


 足は震えている。


 息は乱れている。


 それでも、慧は立っていた。


 見るだけなら、前の人生で十分やった。


 今、自分はピッチの中にいる。


 慧はゆっくりと顔を上げた。


 ゴールは、もう誰かに届かせるためだけの場所ではない。


 自分が辿り着いていい場所だった。


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