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理、狂いたる者たち シリーズ3部作  作者: makubes


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2/2

狂えりし男、怒りを為す――眠れぬ者の独白

 最初に気になったのは、笑い声だった。


 引っ越してきてひと月も経っていない夜、俺は布団の中で天井を見上げていた。

 複数の男の声。何かを言い合って、笑っている。缶を開ける音。椅子を引く音。

 それから、何かを床に叩きつけるような音。


 まあ、大学生だろう。仕方ない。


 そう思った。本当にそう思っていた。俺は耳栓を買って、眠った。最初の二週間は、耳栓で眠れていた。


 しばらくして、頻度が上がった。


 週に一度だったのが、週に三度になった。深夜になってから複数人で集まる。

 笑い声、怒鳴り声、何かを叩く音。天井から振動が降りてくる。

 重いものを床に叩きつける音。また叩きつける。

 また。規則的ではない。気まぐれに、思い出したように打ってくる。


 その音が、俺にはずっとハンマーの打撃音に聞こえた。


 何かを組み立てているのか、壊しているのか。硬いものを叩く、鈍い響き。

 深夜二時に、三時に、それが繰り返された。

 耳栓を二重にしても、ノイズキャンセリングのイヤホンを買っても、骨の中まで届いてくる。


 眠れない夜が続いた。


 翌朝、ぼんやりした頭で職場に出る。画面の文字が滲む。

 会議で名前を呼ばれても、一瞬体が動かない。上司の声が、水の底から聞こえるような気がした。



 最初に声をかけたのは、ひと月ほど経った頃だった。


 夜の十一時頃、上の階のドアをノックした。出てきたのは二十歳前後の男だった。

 坊主に近い短髪で、スウェット姿。俺の顔を見て、眠そうに目を細めた。


 「夜分にすみません、下の階の者ですが」と俺は言った。できる限り穏やかに言った。

 「深夜に音が響いてきていて、眠れなくて困っているんです」


 男は俺に顔を向けた。少し首を傾げていた。


 「音?」


 それだけ言った。俺はもう一度繰り返した。深夜に、複数人で、何かを叩く音が、と。


 男は眉を寄せて、部屋の中を一度振り返った。

 それから俺に向き直って、「俺、今日一人なんですけど」と言った。


 ドアが閉まった。閉まる直前、笑い声が聞こえた気がした。


 俺は階段を降りながら、手すりを強く握っていた。


 その夜の深夜一時、何かを床に叩きつける音で目が覚めた。


 管理会社に電話したのはその翌週だった。


 担当の男は「ご不便をおかけして申し訳ございません」と言った。

 マニュアル通りの声だった。「上の方にも確認いたします」。


 一週間後、また電話した。「先日の件はいかがでしょうか」。


 担当は少し間を置いてから言った。

 「ご連絡はしたんですが、お部屋での生活音はある程度やむを得ないもので、上の方も特別大きな音は出していないとおっしゃっていまして」


 「深夜二時に人が複数で集まって騒いでいる話です」と俺は言った。


 「夜間の音については難しいところもあるんですよね、実際に計測したわけでもないので」と担当は言った。声に微妙な色があった。面倒な住人をあしらうときの、丁寧さの形をした無関心。

 「一度、直接お話し合いいただくのが一番早いかもしれません」


 電話を切った後、しばらく受話器を握ったままでいた。


 直接話しに行った。無視された。管理会社に言った。取り合われなかった。

 上の男は笑っていた。笑っていた。俺を見て笑っていた。


 俺には何もできない。


 しばらくして。


 会社に診断書を出した。適応障害。医者が何か言っていた。睡眠がどうとか。当たり前だ。


 昼間も眠れない。目を閉じると音がする。実際には静かなのに。叩きつけ。また叩きつけ。叩きつけ。


 ハンマーだと思う。あの音は。


 なぜ叩いているのか。なぜ。俺への、嫌がらせなのかもしれない。笑われた。

 注意しに行って笑われた。その後で音が増えた。偶然か。偶然なのか。


 わからない。考えがまとまらない。眠れていないから。眠れれば考えられる。眠れない。叩きつけ。


 ホームセンターに行った。いつだったか。覚えていない。


 工具コーナーで足が止まった。


 ハンマーがあった。


 大きいやつ。柄が長くて頭が重い。手に取った。重かった。

 こんなものを毎晩打ち続けているのか。あいつらが。俺の天井で。俺の頭の上で。


 買った。


 梯子も買った。三日後だったか。二日後だったか。覚えていない。


 部屋の隅に並べた。ハンマーと梯子。

 毎晩それを見ながら天井を見た。叩きつけ。叩きつけ。見ていると静かな気持ちになった。不思議と。



 ある夜。


 また音が始まった。深夜。何時だったか。一時か。もっと遅かったか。叩きつける音。笑い声。


 起き上がる。頭の中が静かだ。


 怒り? 俺は怒っていない。


 廊下に出る。階段を上る。


 聞こえる。笑い声が聞こえる。ドアの向こうから。


 しゃがむ。ストッパーを押し込む。力いっぱい。もう一度。もう一度。もう一度。

 ゴムが床に食い込む。もう一度押す。


 ドアの向こうで笑い声がする。何も知らない声だ。


 部屋に戻る。ハンマーを持つ。軽い。こんなに軽くて大丈夫か。


 三ヶ月。三ヶ月眠れなかった。話した。笑われた。電話した。取り合われなかった。


 梯子を出す。ベランダに立つ。夜気が冷たい。梯子を立てかける。


 上を見る。灯りがついている。笑い声が降ってくる。


 右手にハンマー。


 これで眠れるな。


 そう思うと、俺は知らずに高らかに歌いながら梯子を上っていた。


*本作はフィクションです。実在の事件・人物とは無関係です。*

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