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事務所の休憩室で座る男を見て、お昼ご飯から戻ってきたフィデルは眉を顰めた。テーブルには飲みかけのペットボトルが置かれている。
「今日は休みじゃないのか」
彼の顔を見るなり、男は機嫌良くニヤニヤと笑った。思った通りの反応を得られて喜んでいるようだ。ルギーは答える代わりに、ホワイトボードへ視線を誘導させた。
「あ?」
ボードの左上には今日のシフトと予定が、右側には連絡事項が基本的に書かれている。大体は団体客や特別な要望をしてきた客についてだが、今日は知らない男のパスポート写真が貼られていた。しかも三人分ある。
「毎年恒例のやつですよ」
ルギーがさらに情報を付け足した。
「だからって何でお前がいる」
「別に。家でのんびりしてるよりはこっちにいた方が男たちの情報を集められると思って。この島に来るのにツアーに参加しない人はほとんどいませんからね」
ルギーはそう言いながら、スマホを軽く叩いた。画面には、ボードと全く同じパスポート写真と、彼らの滞在先の情報が表示されている。ルギーの笑みは、これから起こる面白い事態を歓迎しているかのようだ。
「ザ・マリン・クレスト宿泊予定、推進器及びウェットスーツの持ち込み、ダイビング目的の申告、そしてパスポートの品質が疑わしい。それから第一便にも同種の装備の客がいた、と。」
フィデルは補足情報を読み上げた。三人の顔写真を見つめ、顎に手を当てて静かに分析する。わざわざ疑われるのを承知で持ち込んだというのだから、戦利品を島の外へ持ち出す手段にあてがあるのだろう。自信がなければこんな真似はしない。
「偽造パスポートなら常習犯、今までに何回も盗みを繰り返し、ついにレヴィアス島に目をつけたのか」
フィデルは冷ややかに結論づけた。ここを選ばなかったらもう少し外の空気を吸えていただろうに。
ルギーは楽しそうに笑った。
「チャルはパスポートのことに大分引っかかっていましたね。『チープかつ下品だ』と。ですが、結局ボスの指示に従って通した。偉いですよ、チャルは」
「当たり前だ。あえて通させるのが最も効率的だからな」
フィデルは首を横に振った。彼の瞳には、彼らの運命に対する、深い憐憫が宿っていた。
「ダイビング自体は問題ない。だが、ボスのものに手を出すことは、海の理に触れるということだ」
ルギーはフィデルの言葉に相槌を打った。
「まぁ情報を集めると言っても、俺たちがすることはほとんどないですからね。彼らが海に消えていくのを見届けたら、あとは勝手に海が処理してくれますから」
「そうだな。せいぜい客として来るのを待つしかない」
フィデルがルギーの対面に腰掛けた時、一つ前の便でシフトが終わった社員が、ちょうどロッカルームから出てきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ〜」
「あぁお疲れ」
可愛い貝殻シャツから、シンプルな茶色のタンクトップに着替えた彼女は、二人の話を聞いていたようだった。扉には向かわず、テーブルの方へと近づいて来る。
「今日一番左の男性を見かけましたよ」
悪戯な笑みを浮かべて、黒髪の男を指さした。
「どんな奴だった」
「うーん身長が180センチくらいで髪型はこのまんまでした。普通の格好で、散歩してるみたいでしたね。海に潜った様子はなかったです」
「他二人は一緒じゃなかったの」
ルギーが口を挟んだ。
「ええ。一人で島の光景を楽しんでる感じでしたよ」
特筆すべきことは無かったというのが彼女の感想だった。見た目にも不自然な様子は見受けられなかったらしい。
「そうか。まぁ対処を求められてるわけじゃないからな。尾行とかするなよ」
この会社の社員なら承知の上だが、一応フィデルは釘を刺した。
「分かってますよ。たまたま見かけただけですから。大人しくこのまま帰って家でのんびりする予定なので」
彼女はそう言って、バッグを肩にかけ直した。
「助かる。何かあればすぐ連絡を入れろ。ただし、自分の安全が最優先だ」
「もちろんです」
彼女は軽く敬礼にも似た挨拶をすると、休憩室のドアを開け、昼過ぎの強い日差しの中に消えていった。
彼女が消えていったドアの反対側では、潜水艦のドアがぐっと押し込まれ、きらきらと輝く海へと沈んでいくところだった。はしゃいでいた観光客がいなくなると、一気に桟橋は静かになった。少しすると波も勢いを失い、平和な地平線が帰って来る。
「あいつら絶対一回は潜水艦狙ってきますよ」
海の方を眺めながらルギーは、またもや楽しそうに呟いた。
「戸締り忘れるなよ」
鍵があったところで動かないだろうがな、とフィデルは心の中で付け加えた。
「分かってますよ。しばらくはいつも以上に気をつけますから心配しないでください」
ルギーはそう言いながらも、警戒心というよりは、獲物を待つ猟師のようなわくわくした眼差しで海を見つめている。
フィデルとは違い、彼はこの海も海底の石像も好きだった。自分には想像もつかないほど大きな力というのにロマンを感じるタイプらしい。それゆえグランヴィア水族館の年間パスポートまで持っている。時折従業員が足りなくなった時はヘルプにも入るというのだから、その情熱たるや。
フィデルは、そんな彼の興奮に水を差すことはしなかった。再びホワイトボードへ視線を移し、写真の男をぼんやりと見直す。
この島に目をつけてしまった時点で結果は決まっている。彼らはどれだけ自分たちがちっぽけで無力な存在なのかをまざまざと見せつけられるだろう。
俺たちはただの傍観者、今更何をすることも出来ない。犯罪をする奴が悪いのは自明。可哀想だとは思いながらも、彼らに考え直せなど甘いことは言わない。
フィデルの視線は、遠い水平線に吸い込まれていく。
太陽は中天を過ぎ、光はまだ強いが、すでに午後の気だるさが始まっている。この島は、一年中同じように美しく、同じように倦怠感を漂わせている。
ここを終の住処にするとフィデルは決めていた。仕事内容は気に入らないが、収入は申し分ない。食べ物も美味しいし、治安もいい。
島の平和は今日もボスのおかげで守られている。最後の便が終わるまで二人は休憩室で、のどかな午後を楽しんでいた。




