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海に愛された男  作者:
第一章

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6/22

6

 レヴィアス島から北に離れた、海洋国の一つ。冷たい潮風が街を吹き抜ける。


 ここは、レヴィアス島の灼熱の太陽とは無縁の、鉛色の空と石造りの街並みが広がる港湾都市だ。海の色は、エメラルドグリーンではなく、深く重いインクのような藍色をしている。


 通りの建物は、スノーダクト式の屋根が並び、重厚なスレート色で統一されている。外壁は煤けた赤レンガが隙間なく積み重なり、窓には厚いガラスがはめ込まれている。その機能的で質実剛健な佇まいは、荒々しい北の海と共生してきた人々の歴史を物語っていた。


 街の主要な通りには、灯台や錨をオブジェにした店が連なり、ダウンやニット帽を深く被った人たちが足早に行き交っている。


 派手さや鮮やかさはないものの、グレーの世界に浮かぶ暖かみのある家の相性は良く、人をどこか寂しくも懐かしい気持ちにさせる。


 その一角、大通りから一歩路地裏に踏み込んだところに喧騒から隔絶された場所があった。


 扉のすりガラスには、半分地平線に隠れた夕陽と、静かなビーチが描かれている。視線を上げれば、真鍮製の小さなプレートに、筆記体で「コバルトライン」と刻まれている。


 重厚な木製のドアを開けると、冷たい外気とは打って変わって、暖炉の微かな熱と芳醇な香りが鼻をくすぐる。店内の照明は極端に落とされ、小さなテーブルに置かれたキャンドルの炎だけが、琥珀色の光を放っている。



「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」

 扉を開けて最初に声を掛けてきたのは、背の高い男だった。綺麗な笑みでこちらを見下ろす。カウンターにいるバーテンダーはボトルの位置を調整しているようだ。


「予約で来ました」

 三人組の男の一人がそう言うと、店員は表情を変えることなく、奥の扉へと案内した。


 ラスは店内をくまなく見渡した。入ってまず、至って普通のカウンターがあり、奥にはもう一つドアが、そして右手には上へと続く階段がある。後ろを歩くアステルのカバンには、今日のために貯めておいた札束が隠されている。


 足音が嫌に大きく感じられ、ラスは自分が緊張していることを実感した。わざわざこんな遠いところへ赴いたのは、酒を飲むためではない。店の外に比べれば暖かいはずなのに、暗い穴の奥へと進んでいる心地がしてならない。いつもの強気な態度はすっかり形を潜めていた。

 


 男がドアノブを回すと、そこには先程と同じカウンターといくつかのテーブルがあった。照明が一段と暗くなった。簡易的な木製の椅子に、何人かの男が既に腰掛けているようだ。思ったよりも広いスペースにラスたちは軽く目を見開いた。


「いらっしゃいませ〜」

 覇気のない声でバーテンダーがカウンターへと誘導する。男たちの視線が集中する中、ラスたちは一歩一歩踏みしめながら近づいていく。


 アステルは椅子に乗り上げ、金の入った鞄を大事そうに膝の上で抱える。隣でロニールは居心地悪そうに視線を彷徨わせている。



 まだ何も注文をしていないのに、グレーの髪の男はマグカップにコポコポと何かを注いでいる。先客を含めて、誰も口を開かなかった。バーテンダー以外の時が止まったようだった。


 沈黙を破ったのはラスだった。


「商品の回収を手伝って欲しい」

 男はマグカップを三人の前に置き、ラスを真っ直ぐ見据えた。うっすらと湯気が立っている。どうやら紅茶のようだ。見慣れた赤茶色の液体が静かに揺れている。


「俺たちが単独で?」

「いや、俺たちも潜る。ただダイビングにしても、そこそこの深さがあるから人魚の手を借りたい」

 

 海は気まぐれだ。たかがウェットスーツを身につけ酸素ボンベを背負ったところで、人間は自由には動けない。流れが強くなれば簡単に体は攫われてしまう。潜る時間帯を考えても、命綱として人魚の存在は必要不可欠である。

 

「こういう事にはスピードが大切だろ?」

 アステルはそう付け加えた。好意的な反応が得ようとする焦りが声に滲み出ていた。


「子供みたいに抱えてるその中身が報酬か?」

 彼の視線が初めて口を開いたアステルへと移った。


「あぁ」

 アステルはラスに目配せした後に、膝の上の鞄の留め具を慎重に外し、中身を露わにした。中には分厚い札束が、ゴロゴロと積み重なっている。テーブルのキャンドルライトが、わずかにその束の端を照らした。

 

 男はカウンターから身を乗り出し、覗き込むようにして札束を一瞥した。表情は相変わらず退屈そうに見える。見定めるようなじとっとした視線が自分から外れて、アステルは人知れず胸を撫で下ろした。


 年齢は自分より上に見えるが、同い年だと言われてもそこまで衝撃はない。肩くらいまでの髪を緩く一括りにしている。肩幅は広く、薄いシャツの上からは体が引き締まっていることがよく分かる。


「おーけい、場所を聞いても?」

 

 パチンと、留め具の音が響く。ラスたちの目の前にはまだ手付かずの紅茶が鎮座している。



「レヴィアス島だ」


 その一言で張り詰めていた空気が霧散した。まるで舌がひりつくような緊張が、一瞬で馬鹿げた冗談に変わったかのようだ。バーテンダーは呆れたように眼球を半周させて、仕事は終わったとばかりに椅子に腰掛けた。


「残念。他をあたりな」

 あまりにもあっけない拒絶だった。ラスは、自身の緊張とアステルの持ってきた大金が、まるで紙屑のように扱われたことに、怒りを覚えた。


「待て、理由を聞こうか。俺たちは真面目にーー」


「理由?」


 バーテンダーは鼻で笑った。その笑みには、まだ世間を知らない無知な人間への嘲りが込められていた。


「坊や、ここはあくまで、海じゃなーんにも役に立たない可愛い人間の依頼を受けてるとこなんだよ。自殺志願者の集まりじゃねえ」


 はぁ、とため息をついてウィスキーのボトルを掴んだ。大きな手だった。ボトルを一周してもまだ余裕がある。綺麗にカットされたグラスが蜂蜜色に満たされていく。


「いやでも、金ならこれだけあるんだぞ!品物を持って帰れればこの倍、いや三倍は余裕で稼げる!」


 そう易々とは引き下がれないラスは、すっかりやる気を失った男へと食ってかかるように矢継ぎ早に言葉を紡いだ。人魚が一人いるかいないかで、成功率に大きく差が出るのだ。何とかして協力を取り付けたい。そのためにわざわざこんな所まで出向いたのだ。



 そんなラスの気迫にも、男は態度を崩さない。強者故の余裕か。グラスを煽りながら彼は静かに答えた。


「あぁそうだな。確かに大金だ。海の中のもん拾ってくるにしては十分な金だ」


「ーーなら!」


「ただ保険金にしては安すぎる。そうだろ?何事も命あっての物種、金なんて死んだら何の価値もないんだから」

 

 バーテンダーは、グラスをカウンターに軽く置き、琥珀色のウィスキーを静かに揺らめかせた。先客の男たちは、トランプを片手に静かにその言葉に耳を傾けている。


「通行証があってやっとこの話はスタートラインだ。まぁあってもやる奴はいないだろうが」


 三人は顔を見合わせた。その様子を見て男は話にならないとばかりに、顔の前で手を振った。あそこの海域を通る船は、民間でもそうでなくても通行証が必要だ。特別な、通行証が。それすら知らずに、ここにやって来るとは。リサーチ不足と言わざるを得ない。自分たちがしようとしている事の大きさを理解していないようだ。


「諦めきれないか?」

 一向に立ちあがろうとしないのを見て、男は眉をクイッと上げた。泥舟には大人しく沈んでもらいたいのだが、しょうがない。人生の後輩へのアドバイスだ。なんて自分は温情深いのか。


 男の視線は、既にラスたちではなく、バーにいる他の客へと向けられていた。


「聞いてたな。報酬は500万ティール、内容はレヴィアス島でのお宝回収だ」

 

 その呼びかけに、様子を伺いながらテーブルでカードゲームをしていた男たちが一斉に口を開いた。


「馬鹿言え」

「エイプリルフールにはまだ早いぞ」

「レヴィアスは体が受け付けないからパス」


 当然承諾する者はいなかった。全員があそこの危険性を理解しているのだ。人魚なら誰もが知っている事だった。


 その時、隅の席で静かに酒を飲んでいた、一番の年長者も口を開いた。


「500万ティールで、死にに行く人魚がいると思うのか?」


 薄暗い店内で、彼の瞳が怪しげに光る。その低く落ち着いた声には誰よりも説得力があった。


「そういうことだ。レヴィアスにはどれだけ金を積まれようと無理なんだ。他の所なら考えるんだがな」


 男に促され、ついにラスたちは冷め切った紅茶を一気に流し込んだ。喉にへばりつくような味だった。ラスは、煮えたぎるような屈辱を感じていた。ここまで足を運んだというのに、子供扱いされ手ぶらで帰る羽目になるとは。


 ロニールは、立ち上がろうとするラスの背中に隠れるようにして、全身を硬直させていた。予想以上に危険な場所なのだと、初めて認識させられたのだ。


「ベルニダ」

 バーテンダーの合図で、扉の前をずっと守っていた案内人が、最初の時と変わらぬ笑みで彼らを先導した。


 ラスは唇を噛み締め、悔しさと怒りに震えながら、アステルとロニールを促した。


「行くぞ。こんなところで時間を潰している場合じゃねぇ」


 三人は、店内の冷たい視線を受けながら、重い足取りで来た時と同じ奥の扉へと向かった。


 


 

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