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フィデルが微睡から目が覚めると、ビールはぬるくなっていた。瓶を掴むと日差しを吸ったせいで熱い。
ツアーは大盛況で、新たな観光客たちが色とりどりの荷物を抱えて賑わっている。フィデルはデッキチェアから体を起こし、客の群れを眺めた。
老若男女、さまざまな人々が、輝く水面を前に興奮を隠せない様子で列に並んでいる。彼らの顔には、この島のパンフレットが約束する「海の楽園」への期待が満ち溢れていた。
「これ終わったらグランヴィア水族館行って、その後ランチね!」
「ねえパパ、あと何分待てばいいの」
子供たちの無邪気な声が耳に届く。フィデルは、彼らが先ほどまで自分がいたあの場所へ向かうのだと思うと、内心で複雑な感情を覚えた。彼らは、これから「呪われた三体」を通り、「海の涙」を目にする。彼らの瞳に映る海は、ただの美しい観光地なのだ。
フィデルは空になった瓶をケースへと戻し、制服である前開きのシャツのボタンを全部外して立ち上がった。気温が上がってきたのだ。
淡いブルーに全体的に貝殻があしらわれ、胸元のポケットには人魚のシルエットもプリントされている。いい年した男が着るには可愛すぎるデザインだが、文句は言えない。
会社の横を抜けて近くの屋台へと向かう。レヴィアス島は、中心が最も高く、そこから海に向かってなだらかに、建物の高さが低くなるように作られている。パワーバランスは一目瞭然。その独特の構造は、遠くから見ると、まるで巨大な階段状の都市のようにも見えた。
熱帯地域らしい石造りの建物に原色のペイントが施された看板は、いかにも南の島といった風情で、観光客の目を引く。
一番上を占拠しているのは当然本社兼ボスのお家である。大きな岩をそのまま利用した建物は、側から見ればザラザラとした岩肌が剥き出しで、島のてっぺんに崖があるかのような感覚を抱かせる。
元からその岩があったのか、それとも持ってきたのかは分からない。ただ明らかにあのサイズをあそこまで持ち上げるのは人間のなせる業ではないということは、付け加えておこう。
舗装された美しい道を歩いていけば、すぐに視界が開け、「アイギス・ポート」と呼ばれる港町が現れる。お目当ての屋台は、島の特産品を使った「タイダル・フライ」というフィデルの好物を売っている。
「今日は早いな」
屋台の主人である漁師のサウルは、大きな魚を捌きながら、顔見知りに向ける気さくな笑みを浮かべた。
「席が埋まっちゃあ困るからな」
フィデルは、空いていたイスに腰掛けながら答えた。桟橋から歩いてくる間、観光客で賑わう土産物屋やカフェの様子を見て、早めに昼食を確保しておきたかったのだ。
「お前のとこに比べればマシだが、こっちも捌いても捌いても売れるから大変だ」
サウルはそう言って、まな板の上でナイフを軽やかに動かした。年中観光に適した気温のレヴィアス島だが、やはりサマーバケーションが始まった8月、9月が一番人が多い。島の通りは、肌を焼いた観光客と彼らを呼び込む地元民の活気で溢れていた。
「人が多すぎるのも困ったもんだ」
「そろそろ、トレジャーハンターやらも出てくるんじゃないのか?」
サウルがニヤリと口角を上げた。
「…だろうな。迷惑な話だ」
フィデルは、グラスの水を一口飲んだ。この島にしか生息しないブーケシェルは、中の宝石はもちろんのこと、その貝殻だけでも高く売れる。そのせいで金稼ぎの奴らが、無断で潜る事例が後を立たなかった。潜水艦は当然あのペンダントなしでは動かない。となれば残る手段は一つ、ダイビングだけだ。
「連中、まさかあの三標にまで手を出そうとは思わんだろうがな」
「潜るのは勝手だが、命の保証はない。それだけだ」
フィデルは、冷たく突き放すような口調で言った。トレジャーハンターだろうが何だろうが、許可なしで海に入れば、彼らの運命は決まっている。どれだけ海に精通していようと関係ない。ここの海域はボスの言葉一つで流れさえ変わるのだから。
サウルは、それ以上何も言わなかった。ただ静かに頷き、揚げたての「タイダル・フライ」を差し出した。黄金色の衣が美しい。ボスは魚は生で食べるのが一番だと豪語していたが、フィデルは揚げた方が美味しいと思っている。
「ほらよ、今日の朝獲れ、最高級の奴だ」
フィデルは礼を言い、熱々のそれを口に運んだ。外はカリッと、中は驚くほどふっくらと仕上がっていた。一口噛みしめると、サクサクの衣の中から、芳醇な潮の香りと、魚介が持つほのかな甘みが一気に広がる。これがエメラルドの海の、最も美味しい部分を凝縮した味だとフィデルは信じて疑わなかった。
サウルが添えたレモンの果汁を絞ると、その爽快な酸味が、魚介の持つ濃厚な旨味をさらに引き立てる。
一心不乱にフライに齧り付いていると、サウルが思い出したように声を掛けた。
「そういやフィデル。悪いが、水族館の割引チケットを二、三枚くれないか?」
フィデルは食べる手を止め、サウルを見た。特に変な意図がある様子ではない。サウルは、魚のヒレを切り落としながら続けた。
「孫がこの週末に遊びに来るんだ。あの子、ブーケシェルを見るのが楽しみでな。まだ小さいからツアーじゃなくて、水族館でじっくり見せてやりたいんだが、普通のチケットじゃ結構な額になるんでな」
島の住民とはいえ、観光地の施設は割引が効かないことも多い。特に、この島でしか見れない水族館のブーケシェルは、島の人間にとっても特別な展示品だった。フィデルが持つツアー会社の割引券は、「内側の人間」としてのささやかな恩恵だ。
「ああ、いいぜ。割引券なら、次来る時に持ってきてやる」
フィデルは、口の中に残ったタイダル・フライを飲み込んだ。サウルはホッとしたように顔を緩めた。
「助かるよ、フィデル。あんたのおかげで、孫にいい顔ができる」
「別に大したことじゃねえ。これからも作り続けてくれりゃいい」
最後にグラスを煽り、フライの余韻と共に乾いた喉を潤した。本格的に混雑する前にフィデルは立ち上がり、店を後にした。
島の外側をなぞるように歩けば、ドーム状の屋根が白く輝いている。半地下の構造をしているグランヴィア水族館は、一階には目玉であるブーケシェルや比較的小さな生物が展示されている。
地下は海と直接繋がっており、運が良ければ鯨だって見れるようになっている。10メートルはあろうかという特殊なガラスが視界の両端にずらっと並ぶ様は圧巻である。実際の海を感じられると専門家からの評価も高い。
フィデルは、腕時計を確認した。まだ最終便まで時間がある。彼は、水族館から少し離れた、日陰のベンチを見つけ腰掛けた。潮風が、彼の顔を撫でる。彼は、再び静かに目を閉じ、午後の残りの時間をやり過ごすのだった。




