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海に愛された男  作者:
第二章

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 集計室の静寂の中、ルギーはまずアナログな「紙」の山と対峙することにした。何千枚もの用紙を一枚ずつ手で数えていては、朝が来ても終わらない。そこでルギーが取り出したのは、精密なデジタル計量器だった。


 最近はネット投票が主流になりつつあるが、この水族館では「実際に足を運んだ」という証である現場投票の重みを、今でも大切にしている。


「さて、と」


 ルギーは手際良く机を片付けると、空の投票用紙を十枚ほど秤に乗せ、その平均重量をコンピューターに叩き込む。用紙一枚あたりの微細な質量。それを基準に、袋ごとの総重量からおおよその枚数を算出するのだ。これが集計に必須のショートカット術だった。



 最初に秤に乗せたのは、一階のメインエリアから回収してきたひときわ膨らんだ袋。中身は言うまでもなく、ブーケシェルの票だ。


 秤のデジタル表示が、恐ろしい速さで跳ね上がっていく。


「うわ……相変わらずだな」


 表示された数値を見て、ルギーは呆れたように息を漏らした。他の袋とは明らかに密度が違う。束になった用紙の厚みは、もはや鈍器のような質量感を持っていた。一階の陽光を浴びて輝く女王の座は、今年も揺るぎそうにない。


 銀色の回遊魚、企画展、次々と計量器に載せていき、数字をパソコンに打ち込んでいく。マルジェッタが推していた、「発光体の秘密」の生物たちは、残念だがトップ争いからは離脱してしまったようだ。ネット投票での逆転が無いとは言えないが。



 一階エリアの集計を終え、いよいよ地下エリアのアナログ投票結果の算出に入る。


「…やっぱ強いなあ」


 秤に乗せられた地下エリアの袋たちは、どれも「予定通り」の数値を叩き出した。 巨大クリオネのミラージュ、そしてあのスティロドンの袋。


 秤のデジタル数字が示す重さは、昨年の記録と照らし合わせても、誤差の範囲内に収まっていた。トップ10には間違いなく入るだろうが、ブーケシェルは手強い。家族連れやカップルには絶大な人気を誇るのだ。分かりやすく綺麗で、目を引く。色合い、希少価値、どれをとっても文句のつけようがない。



 一方地下エリアの生物は主に常連客や、生物に強く関心がある層からの支持が強い。彼らの好みは岩のように固く、容易には揺るがない。


「安定している、と言えば聞こえはいいけどな……」


 ルギーは、去年の集計表を画面の端に呼び出し、現在の数値と見比べた。 ミラージュも、相変わらずマニアックな支持を得ている。だが、そこには爆発的な広がりや、勢力図を塗り替えるような熱気は感じられなかった。



 そして、最後に残ったシアンインカーの袋。 セーラがあれほどまでに想いを託していた、タコたちの票。


 ルギーはそれを慎重に秤に乗せた。 少し前に「吸盤の不思議」をやったおかげか、それともメスのコバルトが追加されたおかげか。停止した数値は、昨年の同時期と比較して二割近い伸びを見せていた。


「へぇ……大健闘じゃないか」


 ルギーは、わずかに上がった口角を隠すことなく呟いた。だが、ルギーの表情はすぐに引き締まった。 シアンインカーがどれほど躍進しようと、一階の絶対女王ブーケシェルが築き上げた、あの「鈍器」のような票の山を切り崩すには、まだ決定的な何かが足りない。


「アナログ票の合計は出た。あとはネットの結果次第だ」


 ルギーは作業用コンピューターのメインモニターを起動させた。昨夜の十二時で投票は締め切られている。ネットで投票出来るのは、インターネット上で会員登録の上、年間パスポートを購入した者のみだ。しかし、一年間の営業日分の投票権を持つため、その影響力は絶大だ。



「……ん?」


 キーボードを操作していたルギーの手が、不自然に止まった。 数値を統合した瞬間、モニターに表示された順位グラフが、ルギーの予想だにしない形へと急速に変形していったからだ。


「ブーケシェルが……1位じゃない?」


 画面のトップ、不動の女王であるはずのブーケシェルを僅差で抑え、猛烈な垂直上昇を見せている「名前」があった。 それは、一階の隅にひっそりと展示されていたはずの、



『1位:アネモネット』




「……ネットの力ってのは、時々怖いくらいだな」


 ルギーは椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰いだ。 「幽霊の触手」「水中の氷細工」と称されたその姿が、SNSで爆発的に拡散され、水族館に一度も来たことがないような層の票までをも根こそぎ吸い上げていた。


 それが、今まで水族館に関心のなかった層までをも巻き込み、巨大な組織票となってランキングをハックしていたのだ。



 クリスタルのように透き通った体組織を持ち、千本もの細い触手が、実体のない陽炎のように水中に溶けている。確かに美しいが、あまりにも色が無く、広大な特設会場を埋めるにはどこか虚無的で、冷たすぎた。

 


「1位がこれじゃあ、特設ステージが水だけになっちまうな」


 ルギーは、青白く光るモニターを見つめたまま、溜息混じりに呟いた。アネモネットは、ウミユリの仲間であり、その植物のような姿とは裏腹にヒトデと同じ棘皮動物だが、実際に展示場で対面してみれば、あまりにも実体感がなく、背景に溶け込んでしまう儚い生き物でもある。


 これと、シアンインカーをそのまま組み合わせては、メインの立場がない。間違いなく主役を喰ってしまう。どうしたものか。


 ルギーがキーボードの端を指で叩いていると、静まり返った集計室のドアが、遠慮がちな音を立ててノックされた。


「ルギー、入ってもいい?」


 セーラの手には二つ分の温かいコーヒーが握られている。


「はい、差し入れ。…どうだった? 現場の票」


 ありがたく受け取ると、自分の方が優しい色をしていた。ブラックは苦手なのを覚えていてくれたらしい。


「現場票は、相変わらずのブーケシェル帝国だよ。でも…」


 ルギーは、机の横に置かれたシアンインカーの投票袋を指差した。


「君のタコたちは大健闘だ。去年より二割も伸びてる。コバルトの導入が効いたのか、それとも君の熱意が客に伝わったのか…とにかく、地下エリアの中ではダントツの伸び率だ」


「本当!? あぁ、よかった。あの子たち、最近すごく表情がいいから、誰かには伝わってるって信じてたの」


 セーラは胸を撫で下ろし、本当に嬉しそうに微笑んだ。だが、すぐにモニターの電源に目を向け、声を潜める。


「それでネットの方は? 合算した最終順位は、出たの?」


「出たよ。信じられないような波乱が起きた」


 ルギーはモニターを点灯させた。そこには、ブーケシェルを二位に引きずり下ろし、頂点に居座る「アネモネット」の文字が映し出されている。


「アネモネット…。一階の、あの透明な子が1位?」


 セーラは目を見開いた。彼女の知識を持ってしても、植物のような、イソギンチャクのような、あの生き物が王者に選ばれるのは想定外だったようだ。


 そして、自分の推したシアンインカーの順位を探し、モニターの少し下の方で目が止まる。


「4位…。でも昨年に比べて大幅に順位を上げてくれたわね」


「ああ。セーラの願いが届いたんだろうな」

 そう言うと、照れくさそうに彼女はカップに口をつけた。


「けど、問題はここからだ」


 ルギーはセーラを真っ直ぐ見据える。


「この『1位』が曲者なんだよ。ネットの拡散力で祭り上げられた、美しくも虚無的な生物。こいつを単体でメインステージに置いても、観客は五分で飽きる。白すぎて、静かすぎて、背景の岩肌と区別がつかないからな」


 彼女は頷く。水槽にギリギリまで近づき、目を凝らす人々の様子を思い浮かべているのだろう。アネモネットの体の全容は、エサの時間にでもならないと掴めない。

 

「セーラ、俺は諦めるつもりはない。アネモネットをちゃんと主役にしつつ、シアンインカーを上手く使う方法が必ずあるはずだ」


「ええ」

 彼女の顔つきが引き締まっていく。順位を上げた喜びも、1位を取れなかった落胆も、もう既に無くなっていた。考えているのはこれからのことだけだ。


「期限は12月末日まで。理屈はまだ、霧の中だ。だから、少し時間を置こう。今すぐじゃ、安っぽいアイデアしか出てこない」


「分かったわ。じゃあ私は一度現場に戻るわね。自分なりにシアンインカーとアネモネットの接点を探してみる」


 セーラはぐいっとコーヒーを煽り、もう一度だけモニターを見つめてから、踵を返した。


 再び一人になった集計室で、ルギーは静寂に包まれる。キーボードを叩く音が、規則正しく室内に響き始めた。数字の羅列が、ルギーの指先を通じてデータベースへと整理されていく。


 全ての生物の票数が確定し、pdfを社内用連絡ツールにアップすると、すぐにボスからのスタンプがついた。ナイスと親指を立てる、うちの公式スタンプである。既読も一つ、また一つと増えていく。


 これで、今年の「総選挙」はひとまず終止符を打った。ルギーは深く椅子に沈み込み、大きく息を吐いた。作業机の上に並んだ袋たちが、祭りのあとのような静けさを湛えている。


「アネモネットと、シアンインカー、か」

 ルギーは甘いコーヒーを飲み干すと、集計室の主照明を落とした。

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