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海に愛された男  作者:
第二章

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  一階と地下のエリアの間には、水槽の掃除や入れ替えのためのスタッフ専用のフロアがある。そのため、エスカレーターは途方もなく長く、来場者を深海の底へと誘うようだった。


 一階の陽光を模した暖かい色は消え去り、頭上を照らすのは、青白い蛍光灯の光だけになった。湿度の高さからか、むわっとした水の匂いが一気に体を覆う。潮の匂いまで鼻を掠める。この空間は、巨大な水塊の冷たい圧力に四方から囲まれていることを、肌で感じさせる。


 ここは本当の海に近い。


 ドーム状になった通路。特別なガラスがぐるっと右から左まで覆い被さる。頭上にはどこまでも水の層が重なり、天井が見えない。地下のエリアで最初に全員を迎えるのが、この海との直結トンネルだった。中の水は当然海水、出来るだけ人の手を加えないようにしているので、環境もグランヴィアとほとんど同じだ。


 運が良ければ鯨だって見れる。それくらい大きなトンネルなのだ。立ち止まって水槽に張り付く客を横目に、ルギーは袋の回収へと急ぐ。回収して終わりではないのだ。そこから集計をして、ランキングを作り、ファイルに纏めなければならない。


 

 トンネルを抜けると、通路の中央に巨大な水槽がどんと立ちはだかる。縦長の形をしたガラスの中には、通常の数百倍も大きなクリオネがいた。


 透き通ったスケルトンの体は人の背丈ほどもあり、内臓や発光器官のようなものがうっすらと透けて見える。その巨大な軟体をなぞるように、小さな光がまるで血液のようにゆっくりと頭上へと流れていく。「ミラージュ」とボスに名付けられた彼女は、美しく神秘的だっだ。

 

 近づくとその大きさは圧巻の一言。ひらひらと優雅に揺れる翼足ですら、自分と同じ背丈もある。そして遠目には見えなかった投票箱を回収した。生物のインパクトが凄すぎで、中々この箱が目に入らないのだ。


 壁沿いの椅子に座って、じっとミラージュを観察する研究者を横目に、ルギーは通路を右に進んだ。




 次は超大型のタコだ。頭に比べて足が長く、青色の墨を吐くのが特徴だ。墨を構成しているのはほとんどが自分の血液であり、かつ強い毒性を持っている。最近オスのアプローチが上手くいったので、で、この水槽には、オスのノワールとメスのコバルトという二匹の番が収容されていた。


 ルギーが水槽の前に体を寄せたとき、ちょうどノワールが岩陰から姿を現した。その柔軟で巨大な体は、ガラスの手前までぬめりと迫り、まるで神話の怪物を彷彿とさせる。彼の苔むしたような体表は青い蛍光灯の光を吸い込み、不吉な影を生み出している。もう一匹の姿を探すと、岩礁に擬態しながらも、そのじとっとした瞳はこちらを捉えていた。


「どうも〜」

 思わず小さな声でルギーは挨拶をした。彼らの強い警戒心に当てられて、出た言葉だった。当然普通の言語だが、伝わってないとも言えないのが、この生物たちの恐ろしいところである。



 二匹の視線を感じながらも、袋が設置された水槽の反対側へと周る。するとそこには、袋の中身を覗き込んでいる仲間の姿があった。



「セーラ」

 名を呼ぶとハッとしたように顔を上げた。ルギーの顔を見ると、少しばかりバツの悪そうな顔をする。


「どうしたの」


「…どれくらい票が集まっているのか知りたくて」


 別に水族館の従業員が、館内の見回りをするついでに興味本位だとしても、袋の中身を確認することに何の違法性もないのだが。なぜ彼女はそんなに居心地が悪そうなのだろうか。


 ひとまずルギーも中を覗き込む。票数はそこそこといったところだろう。少なくともトップ争いに加われる程ではない。チラッと彼女を振り返れば、パチリと目が合う。ルギーは彼女が口を開くのを待った。彼女は何度か視線を地面に彷徨わせた後言った。


「票はどうかしら。一位狙えそう?」

 答えは分かりきっているようだった。


「うーん。彼らも人気だけど、一位は厳しそうだね」


「そっか」

 悲しそうな、残念そうな、どちらにせよ彼女の表情は暗い。そこでルギーは一つの答えに辿りついた。


「確かタコが好きだったんだっけ?ノートにタコのチャームが付いていたよね?」


 スタッフルームで彼女が書き込んでいたノートのリングには、水族館の公式グッズであるノワールのチャームが揺れていた。コバルトのはまだ制作されていない。


 タコ好きなのか、ノワール好きなのかは定かではないが。


 ルギーが知っていたことに驚いたのか、セーラは照れくさそうに頷いた。

「えぇ。彼らにもっとスポットライトが当たってほしいの。だけど…中々一番になれなくてね」


 

「そうだね〜」

 悲壮感を漂わせる彼女に何を言えばいいか分からず、ルギーは語尾を伸ばす。ランキングで一位を取ると、グッズが増えたり、特別な企画が組まれたりするのだ。推しがいる人には、願ってもやまないことだろう。


 タコというのは一定の人気がある。現に、前回の企画展示では「吸盤の不思議」として、様々なタコが展示されたわけなのだから。


 ただ彼女の希望が叶う可能性は低い。ノワールとコバルトは決して人気が無いわけではないのだ。彼らシンクインカーは、毒性を持つ珍しいタコであり、捕縛もしにくい。ただ一階のブーケシェルの圧倒的な知名度や、そして地下エリアの巨大生物の学術的な注目度に比べると、一位を取れるほどではない、というだけの話だ。



「…あのお願いがあるのだけれど」

 ルギーが言葉を探している間に、セーラがおずおずと問いかけた。モップを両手でにぎにぎと握りしめている。


「うん」


「本当に良ければの話なのだけれど」


「うん」


「企画書、一緒に考えてくれないかしら」


 今度はルギーが目を丸くする番だった。企画書。それはめでたく一位を取った生物の、企画のアイデアである。自分はあくまで臨時従業員のようなものなので提出は必須ではないが、普通は何かしらのアイデアが求められる。自分の企画書が採用されると給料がプラスされるが、彼女の狙いはそれではないはずだ。


「企画書って、あの企画書?」


「えぇ、あの企画書」


「俺ほとんど書いたことないけど」


「知ってるわ。でも私あんまり、こういった才能ないみたいで、中々採用されないのよね。ランキングでは一位をとらせてあげれないし、出来れば上手く一位の生物と絡めて、何かしら焦点が当たってほしいの」


「なるほどね」

 例えばブーケシェルがトップを飾った場合は、「ブーケシェルとシアンインカーの共演」みたいにすることで、サブでも出番を与えたいというわけだ。流石にこのタイトルは適当すぎたが。


 ルギーは一瞬考えた。海は好きだし、海の生物も好きだ。しかし自分は考察とかが得意なタイプではないのだ。映画や漫画でも素直に受け止めてしまうので、先の展開や与えられなかった情報に対して考えを巡らせることはない。採用されるような企画書のアイデアが思いつく自信はさっぱり無かった。


 けれども、セーラのタコへの熱意と、純粋な表情を見ていると、断る理由がなかった。同僚に恩を売っておいて損はないだろうし。一階のマルジェッタが発光性の甲殻類に光を当てたがっているように、セーラはノワールとコバルトにスポットライトを当てたいのだ。


「いいよ。集計が終わって、票数が確定してからで良ければね」


 ルギーは軽く肩をすくめ、笑顔で快諾した。


「ありがとう。今回こそは採用を勝ち取ってみせるわ」


 水槽のガラスの向こうで、ノワールが触手をわずかに動かしたような気がした。ルギーは、袋を握り直した。彼の任務に、予期せぬミッションが加わったのだった。

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