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海に愛された男  作者:
第一章

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2/22

2

「皆さまお待たせいたしました。グランヴィアの三標の一体が今目の前に!」


 ほとんど真っ暗闇だった船内が、彼女の声と共にパッとスポットライトに照らされたがごとく明るくなる。船外のライトも出力が最大になり、黒いもやからぽっかり顔が浮かび上がる。


 乗客たちの間から、一斉に息をのむ音が漏れた。


 子供たちは興奮した悲鳴を上げているが、大人の顔には、期待と好奇心だけではない、静かな動揺が広がっていた。


 彼らは皆、この遺跡の噂を聞きつけ、この光景を待ち望んでいたはずだ。しかし、実際に目の当たりにした像は、観光パンフレットで見た「神秘的な古代の遺物」という言葉では片付けられない、異様な圧力を放っていた。


 

 フィデルは、毎度のことながら全身に寒気が走るのを感じた。

 

 目の前に現れたのは、巨大な人型の銅像。海水の浸食を受けて所々崩れてしまっている全身は、光を当てても鈍く反射するだけで、どことなく生々しい。その立ち姿は、まるで海中で長い間、何かを待ち続けていたかのように見える。


 人型と言われているのは、その形状が曖昧だからだ。一枚の白いワンピースを着ているようではあるのだが、裾が長く足が彫られていないのだ。そしてちょうど太ももにあたる部分の膨らみが、どうも二つには見えない。


 研究は行われているが、謎が謎を呼び、いまだに大したことは分かっていない。海のことはやはり専門家に、と数多くの人魚にも聞き取り調査が行われたが、ここ一帯の海域に本能的な忌避感があるらしく、ほとんど情報は得られなかった。


 

 我々人間にとっては言うまでもないが、そもそも暗闇など、目の効かない俺たちの領分ではないのだ。生身では水の中で呼吸もできやしない。どこまでも深くどこまでも広い、圧倒的な存在。



 ネプチューン2号は両手を広げた像と一定の距離を保ちながら、頭から爪先まで一往復し、次の場所まで移動を始める。

 


 潜水艦が像の視界から外れた瞬間、フィデルは無意識に息を長く吐いた。まるで、水面下でずっと息を止めていたかのような解放感だ。ペンダントの力で安全だと分かっていても、あの像の無言の圧力は、彼の神経を常に刺激し続けている。


「さあ、皆さま。ここからは、次の三標まではしばらく深い青の海中を進みます」


 ドルテの声には、先ほどまでの熱狂と、静かな緊張が混じっていた。



「船内照明を、再び落とさせていただきますね。深海の青、静寂の闇をぜひご堪能ください。そして、窓の外に『何か』が見えても、けっして声を上げないようにお願いいたしますね」


 明るく弾む声。当然場を盛り上げる冗談の一つのつもりだが、ドルテの言葉に、船内の乗客たちはざわめいた。


 フィデルはこのセリフに苦言を呈しているが、どうもお客様からの評判は悪くないようで改善が見られない。よく人魚にも言われる通り、人間は何だかんだ言って深淵が好きなのだ。怖いもの見たさというのはもしかしたら、人間の本質的なものかもしれない。


 照明が再び落ち、操舵室の窓の外は、濃いインクのような青の世界に戻った。潜水艦のライトが届かない領域に入ると、視界は極端に狭まる。


 フィデルは、舵輪に触れもせず、ただ前を睨んだ。ペンダントの導きに従い、ネプチューン2号は一定の速度で進む。


 そして、船体が闇を切り裂いてしばらく進んだ頃、ドルテの控えめな声が無線越しに響いた。


「フィデルさん。そろそろ、次の印が見えてくる頃です」


 次の像は、手を顔に当てて何かを拒んでいるような姿勢だ。最初の像よりも、さらに不吉な印象を受ける。フィデルは、太ももの上で組んだ指に再び力を込め、深呼吸を一つした。


「到着だ」


 フィデルは、操舵室の窓に広がる深い闇をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。


「皆さま、グランヴィアの三標、二体目が姿を現します!」


 ドルテの抑揚のある声が響くと、再び船内は光に満たされ、同時に船外のライトがぎゅっと凝縮する。曖昧だった視界から、二つ目の像がパッと姿を現す。


 それは、最初の像とは全く異なっていた。


 人型であることは同じだが、まるで両手で顔を覆い隠し、何かを拒絶しているような姿勢で立っている。その全身は、最初の像よりもさらに激しく浸食されており、見る者によっては、顔を覆ったまま泣いているようにも、あるいは激しい痛みに耐えているようにも見えた。



 乗客たちの間からは、先ほどのざわめきとは違う、静かで重い空気が漏れた。


「…怖い」


 子供たちの興奮した声は消え、代わりに、小さな女の子の震えるような声が聞こえた。その言葉に、大人たちは何も言えずにただ像を見つめている。


「…誰かに、何かを拒絶された悲しみや、絶望の感情を象徴しているのかもしれませんね」


 ドルテの声は、もう観光ガイドの声ではなかった。まるで、この像の気持ちを代弁するかのように、静かに語りかけている。乗客たちは、その言葉にさらに深く沈黙した。



 一体目より感情を感じられるからこそ、こんなにも不快な気持ちになるのだろうか。フィデルは体の表面が軋むような感覚がした。



 乗客たちは、もはやカメラを構えることさえ忘れている。誰もが窓に顔を張り付けたまま、ただじっと、この不気味な光景に心を奪われている。彼らの視線は、好奇心から恐怖へと、そして一種の執着へと変わっているようだった。



 ネプチューン2号は、相変わらず正確に、像の周りをゆっくりと旋回する。ペンダントは微動だにせず、その役目を果たしている。


 この不気味な光景が終わり、再び闇の中へと船が進んでいくのを、フィデルはただひたすら待っていた。その時間が、永遠のように感じられた。

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