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足首に当たる水の感覚が変わり、そろそろかとルギーは視線を上げた。白波が形を変えている。程なくして、仰向けで流される男の姿が目に入った。
「一人目ですね」
男は抵抗することもなくただ流れに身を任せているようだった。ちょうど数メートル先あたりで動きが止まったのを確認し、ルギーはゆっくりとバイクを近づける。顔を覗いてみると、しっかりと視線が交わり、ルギーは思わずびくっと肩を跳ねさせた。意識があるのに、なぜ抵抗しないのだろうか。
そう思いながらもルギーは、後ろのビート板を沈めて下から掬うように男の体を乗せた。海水を吸い込んだロニールの重みが伝わってくる。その時彼の顔が顰められたのを見て、ルギーはボスの方へ振り返った。
「なんかそこそこ重症じゃないですか?この男」
「うーん?そいつはただこちらに寄越してきただけなんだが」
困惑したような表情を浮かべたボスが近づいてくる。心当たりはないらしい。その時ボスの後ろからさらに声がした。
「すみません。力加減を間違えました」
影の中から足音もなくにょきっと現れたのは、彼の部下だった。白いシャツに濃紺のパンツという、オフィスカジュアルのような服を着ていたため、その男だけ浮いて見えた。
「ミス…」
嗜めるようにボスが彼の愛称を呼ぶ。
「すみません」
ミストラスはもう一度謝罪を繰り返した。彼の顔からは感情の起伏が見て取れないが、態度は素直だった。そして手に持っていた袋を手渡す。ボスは数秒彼の顔を睨んだ後、その袋を受け取った。
「流石に綺麗に取ったな」
中身を確認して、賞賛の声をあげる。袋の大きさからしても相当な数の貝殻が入っているのだろう。ボスは桟橋の端っこにしゃがみ込み、袋から一つずつ丁寧にブーケシェルを取り出していった。
シェルは誰に言われずとも分かっているのか、一つまた一つと後を追うように、島の中央部へと吸い込まれていく。まるで意志を持った生物のように、白い鱗光を揺らしながら元の場所へと消えていく。
それを瞬きすら惜しいようにルギーは見つめる。最後の一つが完全に見えなくなるまで見送り、ビート板に乗せられたまま、激痛に顔を歪ませているロニールを指差した。
「じゃあ、この男はどうしますか?このまま台に乗せておきますか?」
「血は流れていなようだからせいぜい骨が折れたくらいだろう。そのまま縛りつけておけ」
ボスは、ロニールの顔を一瞥するだけで、冷徹に判断を下した。彼の優しい童顔に、一瞬たりとも躊躇や憐憫の色は浮かばない。
「他に物は無かったな」
「はい」
ミストラスは、白いシャツに包まれた体を微動だにさせず、直立したまま答えた。
「蹴ったのは一発だけか」
「はい、次から投げ飛ばします」
ボスは空になったペットボトルで、彼の胸元を叩いた。その仕草は、まるで躾をする親のようだった。それにまたミストラスは、「すみません」と口にした。謝罪の言葉は繰り返すものの、彼の瞳はあくまで無感情で、ただボスからの指令を待っているだけだった。
「しょうがない男だ」
そう言って、ボスは視線を再び海面へと戻した。簪の青い石が、次の動きを予期するように、微かに揺れていた。
そのまま待機すること、わずか数分。最初にロニールを引き寄せた表面をなぞる水流が、元の穏やかなものに戻ったかと思えば、今度は水塊が押し上げられるかのような圧を感じた。空気がボコボコと浮き上がる。
強い光を放つ二つのライトが、海面を照らしている。それに続くように、黒いウェットスーツに身を包んだ二つの影が、まるで吐き出されたかのように、海面に打ち上げられた。
「なんだ意識がないのか。俺も力加減を間違えちゃったな」
おどけた仕草を見せ、ボスは誘うように、指をくいっと動かした。すると波は、徐々に彼らの体を桟橋の方へと寄せていく。
「ミス」
「はい」
ミストラスは、二人の体をそれぞれの手で一気に引き上げた。水に濡れることなど全く気にしていないようだ。そして慣れた手つきで、アステルから心臓マッサージを始める。
肋骨が軋むような音が数分続き、アステルは咳き込むような声を上げ、大量の海水を吐き出した。彼のウェットスーツの間から、泡だった水が溢れ出し、桟橋のコンクリートを濡らす。
体が丈夫なのか、数回のマッサージの後ラスもまた激しく咳き込んだ。
二人は、死の淵から引き戻されたばかりで、意識は混濁しているようだが、命に別状はなさそうだった。そればかりか、先に感覚が戻ったらしいラスは、目の前に知らない男がいるのを見て、反射的に足を振り上げた。
その鋭い蹴りは、ミストラスの腹部を正確に捉えるはずだった。しかし、彼は微動だにせず、ラスの足が自分の身体に触れる直前で、その足首を片手で完璧に掴み止めた。
「流石に人魚の血が入ってるだけあるな」
ボスは軽く目を見開いた。
「縄で縛りますか」
しかし、人間相手ならまだしも、相手は純血の人魚である。力の差は歴然だった。
「いや…そろそろ」
彼の申し出を制止し、ボスは辺りを見回すように視線を動かす。視線の先からは軽いエンジン音が聞こえてきた。
「お待たせしました」
制服に身を包み、銃を携えたチャルがスクーターに乗って現れた。敬礼のような仕草を見せた後、嬉しそうに手を振るルギーにも手を上げて応える。
「ナイスタイミング。そこの二人に頼めるか」
ボスが確認すると、チャルは無駄な動作を一切せず、銃をラスとアステルに向けた。
ミストラスによって身動きを封じられていた彼らは、多少みじろぐのが精一杯だった。
「グッ…」
太ももに強力な鎮静剤が打ち込まれ、体からふっと力が抜けていく。二人は短く呻き声をあげたきり、動かなくなった。
「お疲れ〜」
ルギーは、楽しそうにチャルに声をかけ、水上オートバイを桟橋に寄せた。彼は、板の上で虚ろな目をしたロニールの隣に、麻酔で眠らされたラス、そしてアステルの順に、濡れた体を次々と横たわらせていく。
「よし。じゃああとは運ぶだけだな」
「そうですね、後は任せてください」
そう自信満々に親指を立てたルギーのポケットに、ボスは二つ折りにした一枚の紙を入れた。これはいつもの相手に渡せばいいのだろう。
そしてボスはずっと持っていたペットボトルを部下に押し付けた。
「頼んだぞ〜」
ボスは、満足そうな笑顔を浮かべたまま、優雅な足取りでその場を後にしようとする。彼の紺色のカーディガンが、夜風に揺れた。
「チャル!せっかくなら一緒に行こうぜ」
突然指名されたチャルは、困惑した表情でボスの顔色を窺った。
「好きにしてくれ」
ボスは、振り返ることなく、軽く手を振るだけで答えた。
「夜の特別クルーズといこうぜ!」
チャルは、渋々といった様子で頷いた。制服が濡れるの恐れているのだろうか。彼は、銃がホルダーに入っていることを確認し、ルギーの後ろに跨った。それを合図に、隣国までの道筋を示すように海面が凹む。側から見ると、バイクが水中に沈んでいるように見えた。目線には海が迫る。
水色の水上オートバイは、海を裂くように静かに滑り出す。ルギーの楽しげな笑い声と、水を吐き出す音が、すごいスピードで遠ざかっていった。




