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穏やかな海がどこまでも広がる。こんな時間に空いてる店はなく、街灯の光が存在感を強めている。白波が寄せては返してを繰り返す。それをどれほど見続けていただろうか。星空の下、少しばかりひんやりとした潮風を浴びていると、つい思考が現実逃避を始めてしまう。
「マズい」
小さく呟いて頭を揺らし、ロニールは目の前の海を見つめた。もうじき最初のものが浮上してくる頃だ。自分の仕事は戦利品をヴィラに持ち帰ること、それまでは黄昏ている男を演じなければならない。
周囲に人影は見えないが、潮の満ち引きの微かな音や、遠くで犬が吠える声など、少しの物音でも耳がそちらへ占領されてしまい、全身が硬直する。何回仕事をこなしても、この感覚には慣れなかった。
緊張で乾いた唇を舐め、海を凝視するが、彼らの水中推進器の推進音や、光の揺らぎが、この海面に伝わるはずもない。
早く、早く……
彼は、自分の役割を果たし、この作戦を終わらせることを、ただただ切望していた。彼の耳には、自分の心臓の激しい鼓動と、ズボンの裾が擦れる微かな摩擦音だけが、不規則なリズムで響いていた。
それからロニールが、数えきれないほどの貧乏ゆすりを繰り返した後だった。
無限に広がる海面から、異質な光沢を放つ小さな塊が、極めてゆっくりと姿を現した。音もなくそれは浮かび上がる。
間違いない。あれだ。思わず立ち上がりそうになる気持ちを堪える。その塊は予定通りこちらへ流れてはいるが、ポイントからズレ、やや右に逸れてしまっている。
握りしめていたコントローラーのボタンを押すと、モーター音は掻き消されて聞こえないが、徐々に方向を変えてきているのが分かった。成功だ。ロニールの顔に思わず喜びの色が浮かぶ。
ゆっくりと、しかし着実に足元へと近づいてくる。海岸沿いまで来てしまえばこちらのものだ。猫のように静かな足取りで波打ち際まで進み、ブーケシェルの入った袋を掴もうと、湿った砂利の上にしゃがみこむ。半袖でも過ごしやすい気温だが、彼の額には冷たい汗が滲んでいた。
袋を持って立ち上がろうとした時、突然背中に大きな衝撃が走った。
「ッ!」
ロニールの体は勢いに逆らうことなく、バシャンと大きな音を立て、浅瀬へ沈んだ。戦利品だけは離すまいと強く掴んだこともあり、まともに受け身の姿勢を取ることが出来なかった。冷たい海水が顔に当たり、塩と砂利の味が口の中に広がる。水に潜ったことで、周囲の音は一気に遠く、鈍いものへと変わった。
体勢を立て直そうと腕に力を込めるが、背中が思うように動かない。あの一発で骨にまでダメージが入ってしまったようだった。両手を使って体を押し上げようにも、神経がピリリと痛み反射的に動きが止まってしまう。
さらに驚くべきことに、あんなに穏やかだった潮の流れが、急に速くなったのだ。それは、波打ち際ではありえない、まるで川の中に放り込まれたかのような、強い水圧を伴う流れだった。
うつ伏せで倒れていた体がくるりとひっくり返され、ロニールは思わず咳き込む。その度に背中が痛むが、生理現象であるそれを止めることはできない。失っていた酸素を取り戻すように、お腹が何度も凹む。
ぼんやりとした視界の中で、まばらに広がる星がロニールの顔の前を横切っていく。潮は彼を沖とは反対側に引きずり始めようとしていた。
この急激な潮の異常は、誰かが海そのものを動かしているかのようだった。何もまだ分からなかったが、ロニールはこの仕事が失敗したことを悟った。もがくこともできず、ロニールは仰向けで流されていく。
次に変化を感じたのは、『運命の指針』の鱗を今まさに削り取ろうしているラスを見守っていた、アステルだった。
ほとんど未解明と言っていいこのグランヴィアの三標は、一部分だけでも相当な値がつく。研究者やコレクターにとっては喉から手が出るほど欲しいものなのだ。
ラスは、小型のダイビングトーチの光を頼りに、グランヴィアの石像の腰に張り付き、その鱗を慎重に切り離していく。出来るだけ他の部分にも傷が出ないように、超音波カッターを走らせる。
アステルは、少し離れた位置で、安全確認と深度、水圧のモニタリングを行っていた。彼の役割は、万が一の際の緊急対応と、回収物の一時保管だ。周囲の海は、絶対的な闇に包まれているが、海底遺跡の周りは安定した水流に守られ、穏やかな静寂が支配していた。
しかし、その静寂は、予告もなく破られた。
アステルのフィンが、突如として強い力で下方向へ引きずり込まれるような感覚を覚えた。
(なんだ……!?)
彼は瞬時に水中推進器の出力を上げ、石像に捕まろうとしたが、海流の勢いはそれを遥かに上回り、まるで空気の中を進んでいるかのように無力なものに感じられた。
計器に目をやると、深度計が驚異的な速度で数値を増やしている。突発的なダウンカレントだ。レヴィアス島の周囲は海流が安定しているはずなのに、まるで誰かが海底に巨大な排水溝を開いたかのように、強烈な水塊が彼らを深部へと引きずり込もうとしている。
すでにほとんど海底付近にいたアステルは、数値を見たのを最後に地面に叩きつけられた。彼の視界は一瞬ホワイトアウトし、推進器の駆動音も断末魔のようなノイズに変わって途切れた。
突然の異変に気がついたラスは、即座にカッターの電源を切り、石像の窪みにフィンを引っ掛け、片腕で全体重を支えた。激しい流れが、彼のウェットスーツを叩く。
一瞬にして消えたアステルを探すため、ライトを周囲に向けたが、巻き上げられた海底の砂利の中では到底アステルの姿を確認することはできなかった。
彼は、石像の窪みに指を食い込ませ、その冷たい石の感触を確かめながら、海流が収まる瞬間を、ただひたすら待つことしかできなかった。
しかし、海流は収まらない。むしろ、怒り狂った獣が唸るかのように、水流はさらにその勢いを増した。
ラスが体を支えている鱗の隙間に、岩をも削るような強烈な水圧が押し付けられる。ラスはついにカッターを手放し、両手で像にしがみついた。全身が激しい振動を始める。
「くそっ!」
ラスは奥歯を噛みしめた。体にかかる負荷は、限界をとうに超えている。装備が嫌な音を立て、ゴーグルに水が入り込んできた時。ラスの体が、巨大な石像の側面から、圧倒的な力で引き剥がされた。
彼の全身は、抵抗する間もなく、強烈なダウンカレントによって、海底の闇のさらに奥へと引きずり込まれた。手首に固定されたトーチが、いろんな方向を照らすが、視界はもうきかない。
そして彼もまたアステルと同じく、深海の闇へと意識を沈めていった。




