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深夜2時すぎ。遠く、潮の満ち引きの規則的な息遣いだけが聞こえる。海は、空の星を映し込みながら、インクのように重い闇を広げていた。島全体が深い青の帳に覆われ、日中の鮮やかな色彩は影に沈み、空気は昼間の熱をすべて放出しきったかのように冷たい。
枕元に置いたスマホの揺れで、ルギーはパチリと目を覚ました。浅い眠りだったわけではないが、瞼は軽い。この時間の電話は、楽しいイベントへの誘いだと体が覚えてしまっているのだ。
左手で手繰り寄せたスマホの画面にはボスの二文字。
「水上オートバイの準備よろしく」
タップすれば、ハキハキとした声が聞こえてきた。きっと彼らが手をかけた時点で、目が覚めたのだろう。いやもしや海に潜った瞬間には気づいたのかもしれない。
「了解でーす」
ルギーは、一切の緊張感なく明るく答え、いつものように10秒程度で電話は終わった。体を起こし、彼は身支度を整える。椅子にかけておいた部屋着にもなるズボンを履いて、スマホ片手に家を出る。
自宅のドアを閉めた音は、夜の静寂の中に乾いた音として響き、すぐに闇に吸い込まれた。
深夜の桟橋へと向かう道の途中、ルギーはスキップでもしたい気分だった。街灯の光の下を歩く彼の影は、長く、細く、愉しげに揺れている。ボスの呼び出しは、誰かがルールを破り、海に足を踏み入れたことを意味する。つまりボスの力を目の当たりにできる、最高のエンターテイメントなのだ。
「いやあでも、もう少し掛かると思ってたんだけど」
彼は独りごちた。彼らが入国してからまだ日が浅い。仲間の一人がツアーに参加したのは確か一昨日のことだ。そこから潜水艦ルートが不可能と判断し、プランを変更させ、手筈を整えたのだと考えると、よほど腕に自信があるようだ。
ルギーは、潜水艦の隣にあるもう一つの倉庫にたどり着いた。倉庫周辺は、日中の活気とは程遠い、深い闇と潮の匂いに包まれている。
セキュリティ強化の名目で、最近変わったばかりのパスワードを入力すると、シャッターが徐々に上がっていく。倉庫の中は、外の光が届かず、さらに深い闇に沈んでいた。ルギーはスマホのライトを点け、その冷たい光で目的のものを探す。中には、ロープや浮き輪、古びた漁網などが雑然と積まれていた。
「あったあった」
壁に設置された箱に、今度は4桁の暗証番号を打ち込めば、一つの鍵が手に入る。
水上オートバイは、基本的に緊急時に使用されるもので、日中はシートを被せられ隠されているが、暗闇の中ではその色が妙に目立っていた。
「よっと。今年も出番だね、ブルースカイオーシャン号」
ルギーは、冗談めかした名前を口にし、オートバイにかけられていたカバーを軽快に剥ぎ取った。鮮やかな水色のボディが姿を現す。幾度となく海を共にしてきた相棒に跨り、サンダルを履いた足で地面を蹴ると海面ギリギリまで近づけられた、出口までのレールを、シャーという音を立てながら駆け降りていく。水面は、微かに波立っているが、水上オートバイの操作には何の問題もない。
潜水艦乗り場まで軽く水面を滑らしていけば、いつもフィデルがいるビーチチェアにボスの姿があった。ルギーが近づくと、彼はにこりと微笑み、ビーチチェアから立ち上がった。
「お疲れ様です〜」
「お疲れ」
ルギーの軽快な挨拶に対し、ボスは親しみやすい童顔に優しげな笑みを浮かべて応じた。彼の容貌は、組織のトップという肩書きとは不釣り合いなほど若々しく、まるで学生のように見える。
胸の下あたりまである黒髪を、今日は簪で留めていた。小さな青い石が雫みたいにゆらゆらと揺れている。紺色の薄手のカーディガンに、淡いベージュのパンツを履いている姿は、不気味なほど無防備に見えた。
「今回は何人なんですか」
「チャルの報告通り、三人」
ボスは指を立てた。
「全員が潜ったわけではないでしょう?あの臆病そうなヤツは陸にいますよね?」
ルギーが尋ねると、ボスの笑みがさらに深まった。
「お前のいう通りだよ。潜ったのはラスとアステルの二人。ロニールの方にはもう部下をやってるから、俺らはここで待機だな」
「なるほど」
相槌を打って、まだ何も見えない海を見つめた。
「先に一人、次に潜ってる二人の予定だ。それくっつけておけよ」
ボスが顎で示した先には、大の男がそのまま足を伸ばせるサイズの、平べったいポリエチレンでできた板があった。軽くて薄い。つまるところ大きな大きなビート板である。雑な話だが、これに犯人を乗せてそのまま警察に引き渡すのだ。
「了解です」
ルギーは、水上オートバイをゆっくりと動かして岸壁に寄せた。彼は、お尻に設けられたフックに、その白い回収用の台のロープを引っ掛ける。
ボスは、ルギーの作業を見守りながら、他愛もない話を始めた。
「そういえばルギー、またS型水槽の掃除がしたいんだって?」
思ってもみなかった方向からの質問にルギーは手を止め、ボスの声に耳を傾けた。
「はい。危険だし、二度手間みたいなものだと分かってるんですけど」
「お前も物好きなやつだよな」
ボスは、くすんだ笑いを漏らした。一度痛い目を見ているというのに懲りない男だ、とでも思っているんだろう。
「ボスからもよろしく伝えといてくださいよ。シュシュちゃんには断られっぱなしで」
彼女からしたら世話をしなければいけない生き物が増えるのだから、当然の話なのだが。
「他の水槽だったらいいんだけどな」
呆れ半分面白半分の瞳に見下ろされながらも、ルギーは諦めなかった。S型水槽の掃除は、その大きさと、生物の危険性から基本的に人魚の仕事だが、ルギーにとって自分の力を超えたものであるほどロマンを感じるのだ。
「そこをなんとかお願いしますよ」
懇願するルギーを横目に、ボスはペットボトルの水を煽った。
「考えておくよ。前回は腕だったからまだ良かったけど、足だったら本業の方に支障が出るからな」
「ありがとうございます」
少なくともキッパリと断られなかったことにルギーは安堵する。前回腕を折ってから、約半年。既に治癒しているというのに、いまだ許可は下りていないが、希望がゼロじゃないだけ有難いのだ。本来はただの我儘なのだから。
ルギーは作業を終え、再び水上オートバイに跨がり、ロープの張りを確かめる。
それっきりボスは無言で海を見つめ始めたので、ルギーは手持ち無沙汰になった。彼は、水上オートバイから足を下ろし、サンダルごと足を浸してみる。深夜の海水はひやりと冷たく、これはこれで心地いい。
ルギーは、平和な静寂の中で、冷たい潮風と水の温度を楽しんでいた。もう少しすれば、この穏やかな海も本当の姿を見せる。S型水槽のこともあり、彼の気分はどんどんと高揚していった。




