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海に愛された男  作者:
第一章

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 潜水艦から降りたロニールは、港から少し離れた場所にある、観光客向けのオープンカフェへと逃げ込んだ。木製の看板は、潮風でわずかに色褪せ、デフォルメ化された波と色とりどりの花が、素朴なタッチで手描きされていた。くすんだ緑色のオーニングテントが強い日差しを遮り、カフェ全体に柔らかな影を落としている。


 彼は、店の奥、日陰の席を選んだ。淡いブラウンを基調とした店内は、これ以上なく気持ちを落ち着かせてくれる。


 ロニールは、注文した冷たいレモネードとシンプルなサンドイッチを前に、深呼吸を繰り返した。船内の熱気と、深海の重く静かな圧から解放された身体に、午前の潮風が心地よい。しかし、彼の内側は、まだ深海の記憶に囚われていた。


 ツアー中に密かに確認した潜水艦の構造は、ほとんど図面通りだった。潜水艦としては、空間は広く荷物を運ぶにはもってこいだが、外部ハッチは存在しなかった。潜水中に回収物を持ち込むことは、いかなる方法でも不可能だ。


 ロニールは、サンドイッチには手をつけず、氷が溶け始めたレモネードを一口飲んだ。


 彼を真に恐怖させたのは、潜水艦の案が完璧に断たれたことではない。そんなことはむしろどうだっていいのだ。元よりそこまで重要視していた訳ではないのだから。



 ロニールの網膜には、鎮座していた三体の石像の姿が焼き付いて離れなかった。「グランヴィアの三標」。海底遺跡のメインビジュアルとして観光パンフレットにも載っているそれは、写真で見るよりも遥かに、圧倒的な質量を持っていた。


 白が、周囲の真っ暗な深海の中で、ぼんやりと、しかし、強烈な存在感を持って浮かび上がっている。周囲の海は絶対的な黒と重さで満たされているのに、その白い石像だけは、まるで空間を切り取った別の次元から持ち込まれたかのように見えた。


 静かな静かな、人間には呼吸すらできない世界。


 進むにつれて自分の心臓がバクバクと音を立てていくのが分かった。時折映る小さな気泡は、彼らの口から出てるのかもしれないと錯覚するほどだった。


 ロニールは、その光景を目にした瞬間、自分の経験則や知識が一切通用しない異次元に迷い込んだような感覚に襲われた。



 分厚いガラス窓越しにもかかわらず、全身の血液が凍りつき、まるで海の底に引きずり込まれるようだった。深海の生物たちすら石像から一定の距離を保ち、その輪郭を避けるように泳ぐ。この恐怖は、具体的な言葉で言い表せない。それは純粋な異質との遭遇だった。

 


「潜水するのが自分じゃなくて本当に良かった……」


 彼は、心底安堵した。元々、ロニールは機材の整備やチケットの手配、カモフラージュなどを担当する役割だ。自他共に認める臆病者である彼は、危険を前にすれば、真っ先にリスクを計算し、回避策を探る。


 もし自分がコミュニケーションに長けていたら。度胸があったら。今頃はどうやって任務を合法的に放棄できるかで胃がキリキリしていただろう。


 自分の臆病さに深く感謝した。あんな闇の中に飛び込むなど正気の沙汰ではない。


 それに、今回の作戦はあまりにも危険すぎるのではないだろうか。高額な報酬と成功への焦りが、自分たちの判断力を狂わせているのではないか。ロニールの理性は警鐘を鳴らし始めた。


「今からでも、止めるべきじゃないか」


 そんな考えが、彼の脳裏をよぎった。自分たちに残されたプランBは、貨物船への密輸だ。だが、その前に深海へ潜るという行為自体を、中止するべきではないのか。

 

 

 しかし、それを今、アクア・ヴィラに戻ってラスに報告し、作戦中止を提言できるかといえば、答えは否だ。


 言ったところで、ラスは聞き入れないだろう。「確証はあるのか」と一蹴されるのがオチだ。あいつは、曖昧なものを信じない。そして、俺はそれを説得できるほどの雄弁さを持っていない。

 


 そして、何よりも問題なのは、既に投じたコストだった。人魚に前金150万ティールを払い、高額な水中推進器や偽装用の資材を準備し、このレヴィアス島に乗り込んでしまっている。ここで撤退すれば、全てが無駄になる。金だけじゃない。トレジャーハンターとしてのプライドだってあるだろう。今更、後に引けるはずがない。


 失敗の可能性はあっても、撤退の道は閉ざされている。選べるのは、進むことだけだった。



 周囲のあまりにも平和な様子は、ロニールの覚悟に拍車をかける。カップルは、日焼けした肌を見せながら、スマホに収めた画像を親密な距離で覗き込み、家族連れは、トロピカルジュースを前に、賑やかな笑い声を上げている。


 彼はサンドウィッチを一気に頬張り、席を立った。もう戻れないのだ。もう自分にはどうしようも出来ない。自分の影を踏みつけるようにロニールは帰路に着いた。


 

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