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フィデルは年季の入った革のベルトを撫で、鐘から垂れ下がる紐を引っ張った。ぴったり朝9時。高音ながら耳が痛くならない、穏やかな音色が島中に響き渡る。
視線の先では、ドルテが最後の乗客を船内に案内し、こちらに合図している。この仕事を始めてから20年。自分も年をとったものだと、重い腰を上げながら嘆息した。
「今日もよろしくお願いしますね」
人好きのする笑みに、コクリと頷き、のそのそと操舵室へ向かう。
朝の一発目の便は、必ずフィデルかルギーの担当だと決まっていた。理由はもちろん一つ。フィデルは慣れた手つきで、ペンダントを外し、頭上のフックにかける。
ペンダントはシンプルなデザインだった。紐自体はそこら辺で売っているような、焦茶色の皮の紐だ。揺れている石の方が特別製である。
トリリアンカットと言われる三角形の青い石。中心部に行けば行くほどその色は濃く、ブルーホールを彷彿とさせる。本来宝石ならカットされた面に応じて、光を反射し輝くはずが、この名前も知らない石だけは逆に光を吸収するがごとく、どこから見ても同じ色を返すのだった。
これが、このグランヴィアにおける通行証。これを掲げておけば、海での事故率は0%。限りなく0に近いわけでは無い。寸分違わず0なのだ。いついかなる時も命は保証されるというわけである。フィデルにとって、これは命綱であり、同時に恐怖の源でもあった。
「これから徐々に潜っていきます。朝とはいえ海にはほとんど光は届きません。最初に銅像が見えるまでは船内の照明も出来るだけ暗くしますので、貴重品は必ずお手元にお願いいたします。ドキドキワクワクの遺跡探索ツアー楽しんでいきましょう!」
ドルテのその言葉を合図に、フィデルは手元のボタンを押した。ズンッというモーター音と共に、潜水艦ネプチューン2号がゆっくりと水へと消えていく。浅い場所では光の束が魚たちを鮮やかに彩る。
小さな魚ばかりだが、船内の子供たちがはしゃいでいるのがよく分かった。その無邪気な声が、フィデルの緊張を少しだけ和らげる。
「問題ないですか」
「あぁ大丈夫だ」
「今日も、お守り、バッチリですね」
ドルテはペンダントを一瞥し、ウインク一つ飛ばして、ツアー客の元へと戻っていく。笑顔が素敵で仕事にも真面目な彼女は、お客様からの人気が高い。一緒に写真を撮りたがる者までいるから、彼女目当てで来る客も少なくないのだろう。
フィデルは、ドルテの軽やかな足音を聞きながら、彼女の心底楽しそうな態度が羨ましかった。
「ここからどんどん深くなって参ります。お子さんから目を離さないように」
目の前の光景がどんどん曖昧になっていく。フィデルは海が苦手だった。毎日のように椅子から眺めても、毎日のように実際に潜ってみても、ゾワゾワとするような感覚は消えなかった。
陸では遠く先まで見通せるのに、水の中だと近すぎてボヤけるような視界に、瞳孔が震える心地がする。これは、あれだ。歯医者に行った時と同じ気持ちなのだ。台に乗せられ、真上から人が覗き込む。金属が歯にあたりガチガチと音を鳴らし、感覚がないまま人の口内を我が物顔で動き回る。
あの時の無力感と一緒なのだ。自分にはどうすることもできない。全ては他人任せ。ただ体を委ねる他ない。人間は海では無力、それをまざまざと感じさせられる。
フィデルは太ももの上で指を組みながら、じっと静かに前を見据える。自分のものとはいえ、体温を感じると少し気持ちが楽になる。
舵輪は熟知したかのように、一人でくるくると回る。実際のところ、モーターもハンドルもいらないのだ、このペンダントがある限り。ただの飾りであり、パフォーマンスに過ぎない。
誰に言われずとも、この潜水艦はボスの言いつけ通りのコースをなぞっていく。フィデルは彼と出会ったおかげで、お化けの存在も信じるようになった。この世は摩訶不思議、非科学上等なのだ。
お守りがある限り、この船は沈まない。海に呑み込まれることはないと、自分に言い聞かせる。




