6・彼は知っていた
── 現在 帝国 大神殿
今日、冬の王国の王太子ユリウスが二十歳の誕生日を迎え、神託を受ける日。
その神託を見届けるため、俺は帝国の大神殿に参列していた。水壁に浮かぶ神託は世界中の神殿の水壁に同じものを映す。20歳の花嫁の神託は各国の神殿で皇族や王族も神殿で見届けるのが習わしとなっている。
今日だけは、どうしても胸に広がる薄暗い優越感を隠せなかった。俺とユリウスの間にあるのは深い友情だと思っている。しかしあの日、学苑の卒業式、あの時から何か薄く、けれど取り除くことも壊す事もできない薄壁に隔てられてしまった感覚が拭えずにいた。
俺は知っている。
──あの水壁に、今日、ユリウスが心から望む“彼女”の名は現れないということを。セラ・エルグランの名が刻まれることは、絶対にないと。
だから、俺は安堵すらしていた。
彼女の名はすでに一年前、この水壁に俺の花嫁として現れているのだから。
学苑時代、彼女の心はユリウス、君のものだったかもしれない。けど、彼女の未来は全て俺のものだ。
ところが、ユリウスの神託の時になり、
水壁に浮かび上がった文字を見た瞬間、反射的に立ち上がってしまった。
まさか、そんなことがあってたまるか……
隣で父帝が低く嗜める声も耳に入らない。
神語が読めるわけじゃない。
けれど、その形だけは……忘れるはずがない。
「……なぜ……セラ・エルグランなのですか!」
叫んだ俺の声がかすかに震えていた。
なぜユリウスの花嫁にセラの名が──
──回想 1年前 帝国大神殿
学苑を卒業して数ヶ月、
俺は19歳の誕生日を迎え、水壁の前に立っていた。
非公式な花嫁選定だったが神託を願い出た。
そうして、
水壁に現れた名は──セラ・エルグラン。
忘れようと思っていたのに、
セラ、君が俺の花嫁だなんて!!
ユリウスはその場で膝をつき手を合わせて神に祈った。神に感謝を捧げているというのに、足元からセラへの欲情が迫り上がってくるのを感じ、グッと目を閉じてそれを抑え込んだ。
セラは学苑で誰よりも聡明で、美しく、気高く、そして、決して誰にも心を許さない女性だった。
だからこそ俺は彼女に惹かれていた。明かすことはない想いだと知りながら惹かれる一方だった。
けれど、彼女が心を寄せていたのは、俺の親友で冬の王国の王太子ユリウスだった。
ユリウスもまた──
それでも彼女は、立場をわきまえ、未来を考え、線引きをして決して崩さなかった。そんな彼女だからこそ、俺は彼女の聡さに惹かれ続けたのだと思う。
それなのに、忘れもしない。
学苑の卒業の日だった。
図書室の窓辺で、セラとユリウスが深く口づけを交わしていた。
互いの名を呼び、髪を撫で、唇を求め合う二人。
その光景から目を離せなかった。
やがてユリウスはセラを抱き抱えて図書室の奥へと消えた。
ユリウスはセラのすべてを手に入れようとしているのだと思った。セラの唇を思いのまま吸い尽くしてなお足りずに、彼女の体を暴こうとしている。
ユリウス、気がついていないわけがないよな?
もし彼女がその純潔を失えば、神託の花嫁の候補から永遠に外れてしまうことを。
それでもそんな不確かな未来より、たった一度の繋がりを選ぶのか?
怒りと嫉妬と、言葉にできない不快な感情が胸に渦巻いた。俺は耐えられず、しかし割って入って引き離すこともできず、その場を離れるしかなかった。
卒業後も、あの光景が何度も脳裏に蘇り、苦しめられた。言葉にできない不快なあの感情はセラへの欲情だと今なら分かる。
「……セラっ、はぁ…セラセラセラ、ああっ……」
閨係が俺の欲望を処理する時、無意識に口から出るのはセラの名だった。あの時ユリウスの唇を求めていたセラの濡れた瞳と唇が、夢の中では俺を求める妄想を観るばかりで夜毎悩まされていた。
そんな風にセラを汚す自分が嫌でたまらなかった。
だから俺は十九歳の誕生日に、大神官へ願い出たのだ。
「大神官、私に、花嫁の名を授けて頂きたい」
忘れたかった。
セラへの想いも、図書室の光景も、頭の中に住み着いた淫らなセラも、消しさりたかたかった。
神託の花嫁は血と魂の相性で選ばれ、互いに深く愛さずにいられないのだと聞いた。
自分にはセラ以上に大切になる存在がいると知っておきたかった。そうして冷静な皇太子である自分を取り戻したかった。
それなのに、神は、世界は、運命は俺に味方したのだと思った。命と引き換えでも叶わない願いが叶ったのだと思った。
水壁に浮かび上がった名は──セラ・エルグラン。
胸が震えた。この時の俺は、女神の末裔としての使命を超えて、ただひとりの男として歓喜した。
大神官が俺に最後に告げた言葉を忘れたわけではない。
「神は今最大にして最善の答えをくだいます。これは今の答えであり、一年後、正式な神託をお受けになる時は世界も変わり、神の答えも変わるかもしれないということはお忘れになりませんように」
花嫁が変わる可能性がある、ということか。
俺は大神官に尋ねた。
「セラは学苑の同級生でした。彼女には婚約者がいますがセラが結婚したら神の答えは変わるとうことでしょうか?」
大神官は頷くと言った。
「セラ殿がご結婚されたら純潔いかんにかかわらず、確実に殿下の花嫁は変わります。
皇族や王族は神託が降りた時に、女性皇族や女性王族に一般の民の場合は結婚した時に、神殿にその登録をしますのでその時点で神託の対象から外れます。
この非公式ではありますが神託をセラ殿にお伝えすることもできますがいかがいたしますか?」
セラに伝える?
俺は考えて、それはしないと伝えた。
「いえ、やめておきます。セラが婚約者と結婚するならそれでも構いません。友人たちの本来の運命を壊してまで私のものにしたくはありません」
やや偽善的な言い方をした気もするが、本心だった。
セラの婚約者のルークは一つ年上で俺にとっても良き友人だった。幼い頃から家同士の政略的な婚約だったとはいえ、その繋がりに後から現れた自分が堂々と割ってはいることはできない。
ルークのような温厚な人間がセラを生涯支えるなら、それでもいいと思った。
それに、非公式にも関わらず神託を受けたこの事実をセラに知られてはいけない気がした。
セラに良からぬ妄想を抱いている自分の心が非公式の神託を求めたことで知られてしまいそうで。
神殿を後にして空を見上げると美しい星空だった。
星の一つ一つが神からの祝福のように思え、星の煌めきに目を細めた。
ユリウス、
お前はセラの純潔を奪わなかったんだな
セラがいつものように線を引いたのか、ユリウスが未来に希望を託したのか、あの日の二人のことは分からない。
結果的にユリウスの決断は俺に幸運をもたらしたという事実を受け止めた。
── 現在 帝国大神殿
ユリウスの花嫁の名、ここ帝国の大神殿にも水壁に輝く文字で映し出された神託。
セラ・エルグランの名前
「何かの間違いです……セラは……セラ・エルグランは私の花嫁だ……!」
心の奥で押し殺してきた感情が、溢れ出す。
晴れ渡った空の下、俺の胸の内だけが、嵐のように荒れ狂っていた。
神は今最大にして最善の答えを下す。
これが今の神の答えでも到底納得できなかった。