4 その時
セラは外套を羽織り、軽く髪を結ってから玄関への階段を降りていた。僕は執事のブライアンに出かけることを伝えるとセラを追いかけ、追い越し、玄関ホールに先に降りるとセラに向かって手を差し出した。
僕はいつも通り振る舞いながらも、使用人たちに今日が彼女にとってどれほど特別な日か、気付かれないように細心の注意を払っていたつもりだった。
けれどセラはそんな僕に気がついていたのだろう。セラは僕の差し出した手を取ると「ルーク、ありがとう」と呟いた。
「ん?なんだか知らないけどお礼はワインの値段で表してもらおうかな」
僕が軽く言うとセラは笑って少し涙ぐんだ。
そっとセラを抱き寄せ、背中を優しく叩く。
小さい頃からずっとこうしてセラが落ち込んだ時は励まして来た。
僕は、セラにとって弱さを見せることができる数少ない人間の一人だと思っている。
「僕らはとっくに家族なんだ。これからも、何があっても」
僕がそう言うと、セラはまたありがとうと呟いた。
実は今日、僕は初めて自分の心に芽生えた感情に気づいた日だった。
昼を過ぎても使者が来ないことに、どこか安堵している自分がいる――その事実に少し自己嫌悪を覚えた。
セラが王太子ユリウスに思いを寄せていることは知っていたし、ユリウスもセラを思っていた。
天文学的な確率で神に選ばれるなら、そうなったらいいのにと僕も願っていた。
セラを大切に思う気持ちが「恋」かどうかなんて考えたこともなかった。彼女は僕を兄のように慕い、落ち込んだ時はこうして身を委ねる。信頼しているからこそ僕にしか見せない顔がある。
学苑ではエルグラン家の娘として必死に背伸びしていた彼女の、無防備で素直な一面。嫌なものは嫌だと言い、できないことはすぐに投げ出す。
僕は、セラがセラらしくいられるために必要な人間だと思っている。
エルグラン家の後継者はセラ一人のため、現実問題としてセラが不幸にも事故や病気に見舞われた場合、または神託で花嫁に選ばれた場合、エルグラン家には後継者問題が生じる。
だからセラがまだ幼い頃に遠縁の商家の次男である僕が、場合によっては養子縁組をして跡継ぎとなるということでセラの婚約者となった。そして僕は10歳の頃から実家を離れてエルグラン家で暮らして来た。
セラもセラの両親もこの屋敷も僕にとっては家族そのものだった。
幼い頃から決まっていた関係だけど、今この瞬間、強く実感していた。これからも彼女と手を取り合って生きていくのだと。
「さ、行こうか」
僕がそう声をかけたその時だった。
慌てた様子で、エルグラン家のメイド長マリーが飛び出してきた。
「セ、セラ様……っ」
そのマリーの表情に僕もセラも言い得ぬほど心がざわめき、言葉はなくただ次の言葉を待った。
「セラ様に、し…神殿から、神殿から…」
セラが両手で口元を覆った、その手がわずかに震えているのを視界の隅で捉えながら、僕の頭は極めて冷静に動いていた。すぐ近くの使用人にセラの父、エルグラン家当主を呼ぶように命じる。
そして僕はまだ呼吸の荒いマリーにゆっくりと尋ねた。
「神殿からセラに使者が来たのですね?」
セラは僕を見たが、僕の視線はマリーに向けたまま答えを待った。
「は、はい、王宮の紋章をつけた馬車で使者様が参りましたっ。まさか、まさかですよね?!」
その瞬間、時間が止まった気がした。
僕もセラも、玄関のドアを見つめた。
ドアマンが玄関の扉を開けるのがやけにゆっくりと見えた。大扉の向こうに王家の紋章の入った馬車。
その扉が開き、祭事の衣を纏った神官が降り立つ。
噂で聞く神託の使者、その通りの様子をぼんやりと眺めていた。花嫁の神託を告げに来る使者、その姿は非公開ながらも噂のままだった。
僕はセラの肩に腕を回して支えた。彼女は膝から崩れ落ちそうだった。
僕が父と呼んでいるエルグラン家の当主アイゼンが現れ、使者に深く礼を述べた。
「神殿からの使者殿、当家に足をお運びくださりありがとうございます」
使者も礼を返してから、セラの前に進み出た。
膝をついて深く頭を下げ、澄んだ声が玄関ホールに響いた。
「ユリウス王太子殿下の花嫁として神託を受けしセラ・エルグラン殿。王命により、王宮への御同行を願います」
屋敷を静寂が包み込んだ。
皆が息を呑み、セラの反応を待っていた。父が「こんなことが…」と小さく呟いたがその顔は見えない。僕はセラの肩を支えた。今にも崩れ落ちそうなほど震えていたから。
セラの視界はにわかに滲み、胸に押し込めていた何かが崩れて溢れ出しているに違いない。
今日、セラは1日中緊張していた。ユリウスへの想いを断ち切る決意をしていたからだろう。
「セラ」
僕はセラを鼓舞するように肩に回した腕に力を込めた。
「セラ、返事を」
奇跡は逃げはしないが聡明なセラに相応しい姿を神の使者に見せてやれ。
そう思い、そっとこの手を肩から離した。
セラは震える足を曲げ、丁寧に頭を下げた。
この時のために練習してきたかのように、とても美しい礼だった。
「御使者様、尊い神のご意志を謹んでお受けいたします」
震える声を押し殺し、倒れそうになる足を踏ん張って、彼女は神に選ばれるに相応しい品格を示した。
言い終えたセラは、涙が溢れて顔を上げることができなかった。
そこから屋敷は一気に慌ただしくなった。
セラがこの家を旅立つ。
父がセラを抱きしめていた。僕と違い、今日が別れの日になるなど夢にも思っていなかっただろう父にほんの少し申し訳なくなった。